試験の余波3
翠蘭は驚き顔で煌月と見つめ合ったまま動けないでいた。
しかし、背後の塀の向こうが「翠蘭、どこにいる!」と騒がしくなると、我に返ったようにハッとして慌てふためき出す。
「し、失礼します!」
無礼だとわかっていながらも、翠蘭は煌月に対しておざなりに拱手をして、小走りでその場を離れようとする。
「李翠蘭!」
しかし、すぐに煌月の凛とした声が追いかけてきて、振り返ると同時に馬が横に並んだ。
翠蘭が焦り顔で見上げると、すっと、馬上から煌月が手を差し出してくる。
「乗るか? ご希望とあらば、このまま突っ走る」
言葉の意味を咄嗟に理解できず、大きく見開いた目で、煌月の真剣な面持ちと目の前に差し出された手を交互に見た。
(もしかして、私を助けてくださろうとしている?)
そうとわかると、驚きと動揺が嬉しさと高揚感へ一気にすり替わっていき、翠蘭の目も輝き出す。
「お心遣い、感謝いたします!」
翠蘭は煌月の手をぎゅっと掴む。煌月も力強く握り返し、続けてもう片方の手を翠蘭の背に素早く回した。
そのまま翠蘭は体を救い上げられるようにして、馬上の煌月のもとへと引きあげられた。
ちょうど裏口の小さな門扉が開き、それに気づいた翠蘭が煌月の腕の中で体を強張らせる。
煌月もそれを横目で確認しつつ、馬の腹を蹴る。
主の求めに応じるように一気に馬が走り出し、その疾走感に翠蘭は反射的に「ひゃっ!」と小さな悲鳴を上げた。
「怖いか?」
「いいえ。馬にはあまり乗ったことがないのですけれど、まったく怖くないわ。むしろ楽しいくらい!」
問いかけに対して、翠蘭は目を輝かせながら返事をした。
その無邪気な表情になにか引っかかりを覚えたように動きを止めるが、すぐさま薄く笑みを浮かべて言葉を発した。
「それなら問題ない。汀州しっかりついてこい!」
煌月の呼びかけに、汀州は「はい」と短く答える。
重なり合う二頭の馬の蹄の音が、どんどん速度を上げていった。
人通りの少ない裏道をしばらく駆け抜けた後、砂埃を巻き上げながら先ほど翠蘭も歩いていた通りに出た。
すぐ先にある饅頭屋を視界に捉えたところで、翠蘭は慌てて煌月に話しかける。
「煌月様、止めてください!」
すぐさま煌月が馬を制すると、翠蘭は軽い身のこなしで馬から降りた。
そして、煌月を見上げて「少々お待ちください」と拱手をしたあと、饅頭屋に向かってぱたぱたと駆けて行く。
店先は蒸篭を使って饅頭を蒸しているため、そこから良い香りが漂ってくる。
数人列をなしている客の後ろに翠蘭は並んでから、確認するように煌月へと視線を向けた。
お願いした通り、彼はその場で待ってくれていて、不思議そうな顔でこちらを見ている。
少し遅れて煌月の隣に汀州が並んだ。ふたりが親し気に言葉を交わしているのを目にし、翠蘭はホッと息をつく。
(煌月様とお兄様の関係はどうかとずっと危惧していたけど、しっかりと信頼関係を築けているようでよかった。心底安心したわ)
程なくして自分の番となり、翠蘭はにこやかに「十個ください!」と注文する。
そして、店主から饅頭の入った袋をふたつ受け取ると、それを大事そうに抱えて持って煌月と汀州の元へ小走りで戻っていく。
「お待たせいたしました」
翠蘭が微笑みかけたところで、煌月が今更ながらの質問を口にする。
「先ほどの相手は?」
言い難くて口ごもった翠蘭の代わりに、汀州が答えた。
「おそらく、林明浩だと」
そこで汀州と煌月のふたりから確認の目線を向けられ、翠蘭は認める様に頷いた。
「林明浩……商家の林家か?」
「はい、林家の次男です」
煌月は眉間を寄せて思考するが、明浩のことまでは記憶に残っていなかったらしい。
汀州は苦笑いで返答してから、すこしばかりわざとらしい口調で煌月に訴えかけた。
「我が妹翠蘭は、あなた様の妃候補に漏れてから、多くの縁談話を持ち掛けられており、その中でも、林家の次男からしつこく縁談を持ち掛けられており、非常に困っております。それもこれも煌月様が、翠蘭を選んで下さらなかったから起きたこと」
あろうことか皇子に言いがかりをつけ始めた汀州を、翠蘭は呆気にとられた顔で見上げていたが、饅頭の匂いが鼻腔を掠め、袋の中へ視線を落とす。
「兄としてのひいき目を抜いても、翠蘭の二胡の演奏が一番良かった。妹をお選びにならなかった理由をぜひお伺いしたい」
煌月は気まずそうに視線を揺らしてから、歯切れ悪く思いを告げた。
「李翠蘭の二胡の音色は確かに素晴らしかった。久しぶりに心を掴まれたし、優劣をつけるなら、李翠蘭、そなたが一番だったと俺も思う」
「しかし、煌月様には選んでいただけませんでしたね。妹がどれだけ傷ついたか。毎日泣き暮らしております。床に伏せって、食事も喉を通らず……」
「ああ、いい匂い!」
汀州の演技めいた言葉を遮るように翠蘭が声を発し、おまけにぐうっとお腹まで鳴り響かせた。
煌月は翠蘭が抱え持っている饅頭の袋ふたつと、今にでも饅頭にかぶりつきそうな翠蘭の顔を交互に見てから、汀州をじろりと見やった。
「少なくとも、饅頭を大量買いするほど食欲はあるようだが?」
冷たい声音で反論され、汀州は「やっぱり無理があるか」と苦笑いを浮かべる。
そこで、煌月も気が抜けたように短く息を吐き、淡々と事実を述べた。
「気を悪くするかもしれないが、言わせてくれ。此度の選考に俺は関わっていない。仮に俺がなにか主張したところで、あの結果が覆ることはなかっただろう。だから、決してそなたが劣っていたわけではない。それだけは伝えておこう」
(それって、最初から誰が選ばれるか決まっていたということよね)
馬上から気まずそうに事実を告げてきた煌月に、翠蘭はにこりと笑いかけた。
「お気になさらないでください。実は私も、選ばれないのは承知の上での参加でしたから。……むしろ、選ばれないとわかっていたからこそ、参加したといいますか」
「知っていたのか?」
煌月が驚愕の表情を浮かべたため、翠蘭は焦り気味に補足する。
「誰かから情報が漏れた訳ではございません。お祖母様の占いによって、そうなるとわかっていただけです」
静芳の占いの的中率の高さは理解しているようで、煌月は訝しがることなく翠蘭の言い分に納得する。
「煌月様のおかげで逃げきれました。心より感謝申し上げます。……良かったらどうぞ。私の好物です。味は補償いたします」
翠蘭は煌月の傍まで歩み寄ると、持っていた饅頭の袋をひとつ差し出した。
煌月は唖然と饅頭を見つめるだけで、まったく手を伸ばそうとしないため、翠蘭は兄の元へと移動し、兄に無理やり饅頭を押し付けた。
「家も目と鼻の先ですし、もうここで大丈夫です。ありがとうございました」
翠蘭は煌月の元へ舞い戻って丁寧に拱手したのち、実家に向かって歩き出す。
「……待て、李翠蘭」
しかし、数歩進んだところでまた呼び止められる。翠蘭が振り返ると、煌月は馬の背から降り、手綱を引いて隣に並んだ。
「乗りかかった船だ。李家はすぐそこだし、最後まで送り届けよう」
「お、お忙しいのでは?」
「構わない」
「律儀な方ですね。ありがとうございます」
足並みをそろえて歩き出すと、汀州も馬を降りて、ふたりの後ろについた。
橋を渡る途中で、翠蘭は先ほど同様、欄干に手を置いて川を覗き込む。
「あの悪鬼、まだいるわね。あとで懲らしめないと」
「それは宮廷占術師である俺たちの仕事だ。翠蘭は首を突っ込まないように」
思わず呟いたひとりごとに対し、汀州から厳しく諫められ、翠蘭は面白くなさそうにふくれっ面をしてみせた。
そんな翠蘭の様子を静かに観察していた煌月は、感心した様に目を見開いた。




