試験の余波2
品のない笑みを浮かべながら、翠蘭たちの前に進み出た男は、林明浩。
林家は商家として名高く評判も良いが、兄の汀州が言うには、次男坊である明浩はその限りではないらしい。
そして実際、翠蘭自身も彼に対して、あまりいい印象を持っていない。
「林さん。こんなところで会うなんて偶然ですね」
「いいや。李家を訪ねたら、あなたが町へ出たと聞いて、こうして追いかけてきたんだ。今日も会えて嬉しいよ、翠蘭」
愛想笑いでこの場を乗り切ろうとしていたのだが、返された言葉で翠蘭の顔が一気に強張った。舌打ちしそうになるのを必死にこらえる。
(毎日、毎日、訪ねてくるなんて、本当に懲りない人ね!)
妃候補の選定試験に落ちたその翌日から、明浩が毎日のように翠蘭の元を訪ねてくるようになった。
なんでも、明浩も最終試験が行われた桂央殿にいたらしく、二胡を奏でる翠蘭の麗しい姿に心を奪われてしまったようだった。
煌月の正妃が無事に決まると、続けて四妃の選定へ移行する。
そのため、意中の相手がいる場合は、それまでに婚姻の話を進めてしまうとことが多い。
日々、翠蘭の元には多くの縁談が舞い込んできているのだが、その中でも、一番の熱の入りようなのが、この明浩である。
(誰が来ても、私は寝込んでいると言って追い返して欲しいとお願いしていたのに……対応したのは、きっとお父様だわ)
翠蘭を訪ねてくる相手は、やんわりと断りの言葉を並べ、帰ってもらっている。
しかしこの男だけは、どうにかして翠蘭と会おうとしつこく食い下がるのだ。
あの手この手で誘い出そうとし、体調が悪いとなんとか追い返した翌日には、見舞いだと言って再びやって来る。
翠蘭や翠蘭の母、対応している明明を初めとする李家の使用人たちは、そんな彼にみんなうんざりしている。
出かけたのを明浩に告げれば、嬉々として追いかけるだろうことは予想がつく。同時に、母や使用人たちは言わないだろうとも想像がついた。
一方で、林家の当主と親しくしている雲頼は、息子の明浩にそこまで嫌悪感をいだいていない。
そのため、宮廷占術師だけが人生じゃないと、結婚という選択肢も含めて広く視野を広げるのも良いのではといった考えを、翠蘭に押し付けようとする始末だ。
李家を出る際、まだ雲頼は邸宅内にいた。
それも踏まえて、自分の居場所を教えたのは父に間違いないと翠蘭が恨めしさを覚えた時、明浩がずずっと身を寄せて、話しかけてきた。
「縁風園に行かないか? 花が見頃だ。茶でも飲みながら話をしよう。そこであなたの二胡の音色を聴けたら最高なのだが」
緑風園は茶屋であるが、池と橋、木や草花が織りなす庭は名園と名高く、人々の憩いの場ともなっている。
翠蘭はすぐさま首を横に振って、粛々と言葉を返した。
「申し訳ございません。私は父からお使いを頼まれておりますので、行かないと」
そんなのお付きの者にやらせたらいいだろうという顔をしている明浩を、翠蘭はちらりと一瞥してから「失礼します」と告げる。
そのまま背を向けて歩き出すと、明浩が慌てて追いかけてきた。
「ちょっと待ってくれ……よ、よしわかった! そのお使いとやら、俺も一緒に行こう」
(来なくてよろしい)
心の中で思い切り毒づきつつも、表情は苦笑いするだけにとどめ、翠蘭は目的地に向かう。
足早に進んでいく翠蘭のとなりに、当然の顔で明浩が並んだ。
にやりと笑いかけられたため、翠蘭は顔をそらす。
すると、明浩はさりげなさを装いながら翠蘭と手を繋ごうとする。
しかし、小さな白い手を掴もうとしたちょうどその瞬間、明浩は悪寒を感じて体を震わせた。
引っ込めた手で己の両腕を擦り始めた顔色の悪い明浩を見て、明明はこっそり笑みを浮かべる。
明浩はまったくわかっていないが、明明には黒焔が威嚇しながら明浩の腕を掴むなどして、翠蘭と手を繋ぐのを邪魔したのがしっかり見えているからだ。
翠蘭たちは裏路地へと歩を進めていく。
ひっそりとした細道を進んでいくと、賑やかさが一気に遠のいていった。
家屋の陰からこちらをうかがっているモノの気配を感じながらも、一行はそちらに目を向けることなく歩き続けた。
小さな店の前でぴたりと足を止めた翠蘭へ、明浩が顔を引きつらせながら確認する。
「本当にここに用が?」
「ええ。こちらのお店に用事があって参りました」
目の前には、嵐が吹き荒れたら倒壊してしまうのでは思えるほどぼろぼろの店。
店先にはカエルの干物がぶら下がり、木で作られた人形や何かの骨も並べ置かれている。
翠蘭は不気味な雰囲気に完全にのまれてしまっている明浩に対して呆れ顔をしてから、明明と黒焔へ目配せしつつ店の中へと足を踏み入れた。
「ごめんください」
石や木の根、動物の牙から、短剣や鏡に呪符など、様々なものが所狭しと並べられている。そんな中をずんずん進み、翠蘭は薄暗い店の奥へと呼びかけた。
すると程なくして、店の奥にある戸が開き、背中の曲がった小柄な老女が姿を現す。
「翠蘭、待っていたよ」
「楊さん、こんにちは。お父様が注文していた物を受け取りに来ました」
「はいはい。今、準備するからね。ちょいとお待ち」
翠蘭が後ろを振り返ると、戸口の傍で足を止めて店の奥にまで入ってこようとしない明浩と目があった。
「早く済ませてくれ」
すぐにでも店を出たいといった様子で、明浩が翠蘭に求めた。翠蘭はそれには答えず、自分の傍らにいる明明と黒焔に小声で話しかける。
「私、このまま逃げても良い?」
「わかりました。なんとか引き留めましょう」
明明が力強く頷き、黒焔も楽しそうに笑うのを見て、翠蘭はゆっくりとした足取りで楊お婆さんに歩み寄る。
「私もなにか買っていこうと思います。楊さん、奥にあるものを見せていただけますか?」
先ほど楊お婆さんが出てきた戸へ視線を向けつつ、翠蘭が切り出すと、楊お婆さんはきょとんとする。
しかし、明浩をちらりと見たあと、察したようににやりと笑った。
「……ああ、なるほどね。わかった。奥へどうぞ」
了承を得て、翠蘭は「ありがとうございます」と微笑むと、今度は慣れた足取りで素早く戸口に向かっていく。
それに気づいた明浩は眉をひそめた。
数秒後、翠蘭を追いかけようと、ようやくその場から動き出す。
すかさず黒焔が邪魔をしたため、寒気に襲われた明浩の足が止まった。
翠蘭は感謝の気持ちと共に戸口をくぐり、炊事場へと出た。
扉の先は店ではなく居住区となっていて、そのまま真っ直ぐ勝手口へと進んでいく。
屋外に繋がる引き戸を開けようとしたが、建付けが悪いからかうまくいかず、翠蘭は眉根を寄せる。
「お待ちください!」
「邪魔をするな。奥には何があるんだ? おおい、翠蘭!」
「勝手に入らないでもらおうか。お得意様しか通さない」
明明の制止の声に続いて、明浩の苛立つ声と、楊お婆さんの厳しい声音が聞こえてきた。
追いかけてきそうな雰囲気に焦りを覚えて、戸を開けるべく力を込めると、ガタガタと大きな音が響き渡ってしまった。
(やばい)
戸を開けることには成功したが、戸の向こうで「李翠蘭!」と明浩が大きく叫んだ。
翠蘭は外に飛び出し、小さな庭を横切って塀へ向かっていく。裏口の小さな門扉を潜り抜け、薄暗い林に出た。
「翠蘭?」
名前を呼ばれてどきりとして顔をあげると、二頭の馬が視界に入る。
「お兄様!」
馬上から不思議そうに見つめてくる汀州の姿に視線を止め、翠蘭はこの偶然に唖然とする。
そんな中、兄の後ろからもう一頭の馬が前に出てきた。
自然とそちらへと顔を向けると、驚愕の表情を浮かべている人物と目が合った。思わず、翠蘭は彼の名を口にする。
「……煌月様」
汀州と同じく宮廷占術師の恰好をしているが、そこにいたのは紛れもなく劉煌月だった。




