噂話
翌日から、翠蘭は煌月の求め通り、豊穣祭の舞の練習に真面目に参加し始める。
「舞姫の選定まであと三日しかないのよ。今更よくのこのこと顔を出せたものね。どうせ、今から練習したところでまともに踊れるようになるとも思わないし、そのまま居所に引きこもっていたら良かったのに」
練習場所に初めて姿を現した翠蘭に、すかさず金雪玲から辛辣な言葉が飛んだ。
豊穣祭の演舞は目玉といって過言ではない。
舞手たちの一糸乱れぬ動きは見惚れるほど優雅で、多くの人々の心を掴み、神の目まで楽しませる。
その一方で舞は非常に難易度が高く、長期の練習が必要とされている。
中でも一番注目される舞姫を、今年は皇后候補が勤める。
華やかな舞台は栄誉であると同時に、拙さや練習不足が目に付いてしまえば、すべてを台無しにしてしまう事態にもなりかねないのだ。
だからこそ、雪玲はずっと練習に顔を出さなかった翠蘭に舞姫の選定を受ける資格はないと主張したかったのだろう。
今まで同様、翠蘭は雪玲の嫌味に反応を示すことなく黙々と練習を始め、それから程なくして、雪玲は翠蘭の実力を見誤っていたと気づかされることとなる。
本気になった翠蘭の習得速度はすさまじく、あっという間に振りを覚えただけでなく、見る者を引き込むほど自分のものにしてしまったのだ。
講師と高笙鈴は感心し拍手を送り、雪玲と張家の娘は責め立てる口実を奪われたことで不貞腐れた顔をし、本日の練習は終了となった。
「李翠蘭。期待しております」
そんな言葉を残して場を離れていく講師の後ろ姿を、翠蘭は拍子抜けした顔で見つめる。
「不参加だったことを怒られるだろうと思っていたのに、逆に来てくれてありがとうと感謝されてしまいましたし、なんだか心苦しいですわね」
怒られるだけでなく、数時間の居残り練習もあり得るだろうとまで、翠蘭は考えていた。
しかし実際は、翠蘭が練習場に姿を現すと、講師はホッとした様子で翠蘭の手を握りしめた。
目に涙を浮かべながら「来てくれてありがとうございます」と感謝の言葉まで述べたのだ。
後半の欠席はただのずる休みであることを知っている明明と紅玉は、翠蘭の言葉に対して苦笑いを浮かべる。
昨夜の煌月とのやり取りが無かったら、間違いなく不参加を貫いていただろう。
そのため、心の底から安堵していた講師の表情を思い出す度、翠蘭の心がちくりと痛む。
ため息を口から出かかった時、横から声を掛けられた。
「翠蘭さんは、二胡だけでなく舞もお上手なのですね……体調はもうよろしくて?」
歩み寄ってきた笙鈴がぎこちない笑みを挟みつつ、翠蘭に問いかけてくる。
翠蘭は笙鈴を真っすぐ見つめ返した後、にこりと笑みを浮かべた。
「お褒めいただきありがとうございます。おかげさまで、すっかり元気になりました」
「それは良かった。本当に心配しておりました」
笙鈴は胸を撫でおろすと、もう一歩距離を縮め、翠蘭にしか届かないくらいの小声で話しかけた。
「私と、私の女官たちを守って下さり、ありがとうございました。このご恩は一生忘れず、墓まで持って行く所存です」
真摯に告げられた言葉に、翠蘭は目を大きく見開いた。
翠蘭が笙鈴に成り代わったあの夜。
息の根を止めた大蛇へと煌月たちの意識が向いている間に、翠蘭は気力を振り絞って立ち上がり、笙鈴の居所を出た。
大急ぎで自分の居所に戻ると、翠蘭はすぐさま魂化術を解き、そのまま倒れたのだった。
代わって目覚めた笙鈴は、床に倒れている翠蘭に動揺しながらも、明明に連れられる形で早々に帰路につくこととなる。
明明が居所の門まで見送った後、笙鈴がどのような行動をとったのかはわからない。
しかし、煌月や女官たちと言葉を交わせば、覚えのない自身の活躍を聞かされるはずで、眠っていた間、翠蘭が何をしていたのか勘付いたとしても、なんらおかしくない。
口外しないと約束はしたが、所詮は口約束。
これから翠蘭は笙鈴の動向に目を光らせるつもりだったが、今のひと言でその必要はないと確信し、口元に笑みを浮かべた。
「今の言葉、信じましょう。……でも、まだ終わっていませんよ。私にはやり残していることがありますから。お友達の方も準備が整い次第、すぐにでも」
お友達とは、朱凛風のことだとすぐに気づき、笙鈴の目に涙が浮かぶ。
「よろしくお願いいたします」
翠蘭の手を掴み、笙鈴が声を震わせる。
確かな友情と信頼が翠蘭と笙鈴の間に漂うものの、不粋な気配が横やりを入れた。
「李翠蘭!」
いつの間にか、怒りで顔を赤らめた雪玲が傍らに立っていた。
翠蘭は無表情で見つめ返す。笙鈴は苛立ちで唇まで震わせ始めた雪玲に引き気味の顔をし、巻き込まれるのを避けるかのように、そっと翠蘭の手を離す。
名を呼んだきり、怒りを露わにしたまま何も言わない雪玲に、翠蘭はぽつりと問いかける。
「なにか私に言いたいことでも?」
「あるわよ! ……あ、あの噂、本当なの?」
「噂とは?」
「白々しいわね! 斎南宮は、煌月様があなたの居所にお泊りになったという話でもちきりよ!」
雪玲の金切り声が響き渡った。翠蘭は目を丸くし、思わず呟く。
「あらあら」
嘘か本当かと言われれば、事実だ。煌月は翠蘭の居所で一泊している。
だからといって睦言を交わしたかと言ったら、そうではない。
翠蘭の奏でる二胡を聴きながら煌月は寝落ちし、目覚めたのが明け方だったというだけの話である。
久しぶりに深く眠れたと喜びながら居所を出て行った煌月を、にこやかに手を振って見送ったのは翠蘭の記憶に新しい。
まさかそんな誤解が生まれるなど思いもしなかったため、困ったように呟く。
「……あらあらあら」
「あらあらあらじゃないわよ! 確かにあなたが煌月様を居所に連れ込んだのはこの目で見たけど、もちろんすぐに煌月様はお帰りになられたのよね?」
物凄い剣幕で、雪玲が翠蘭を掴みかかった。
笙鈴と明明と紅玉が慌てて止めに入るが、雪玲は翠蘭を掴んだ手を離さない。
「はいと言いなさい!」
一方、大きく揺さぶられても翠蘭に動揺する様子はない。
考え込むように瞳を伏せていたが、ゆっくりと顔をあげて雪玲と視線をしっかり合わせる。
続けてにっこりと、しかし意味深に微笑んだ。
それを目の当たりにしてしまった雪玲から「ひっ!」と悲鳴に近い引きつった声が飛び出す。
雪玲の手から一気に力が抜け、翠蘭はすぐさま距離を取るように身を引いた。
頭に血がのぼり眩暈を起こした雪玲を女官たちが慌てて支える様子を横目で見ながら、翠蘭はそそくさと歩き出した。
今のやり取りを見ていた女官たちがこそこそと話し始めたのに明明は気づき、素早く翠蘭の横に並び、小声で問いかける。
「後々面倒なことになりそうですし、煌月様のためにも事実を述べた方が良かったのでは?」
「……確かに、その方が良かったかもしれませんね」
禁止されているわけではないため、己の婚約者候補に手を出したとしても、煌月は咎められない。
とはいえ、金家から小言を言われる可能性は大で、煌月は煩わしい思いをすることになるだろう。
「李翠蘭! あんただけは許さない! 絶対に負けないから!」
しかし、雪玲の叫び声が背後で響き、翠蘭の唇が弧を描く。
「でも楽しいから、このまま黙っていましょう。選定会だって盛り上がった方が面白いもの。きっと雪玲さんが本気の舞を見せてくださるわ。楽しみですね」
明明はすっかり楽しんでいる翠蘭に苦笑いを浮かべる。
そして、どこまでも自由本舗な翠蘭に翻弄されている雪玲を、少しばかり気の毒に思ったのだった。




