仮病の月華
静芳の訪問から二週間が過ぎた頃、明明と紅玉を引き連れた翠蘭が人目を忍ぶように足早に道を歩いていた。
目的地は後宮の出入り口近くに設けられた面会ができる部屋である。
翠蘭はどことなく顔色が悪く、時折袖で口元を覆う。
すれ違う女官たちは翠蘭を振り返り見て、「具合が悪いのは本当みたいね」とひそひそと言葉を交わした。
それらの反応に対し必死に苦笑いを堪えている明明と紅玉をちらりと見てから、翠蘭は気分が優れないといった様子で部屋の戸口をくぐった。
「来たか、翠蘭。体調はまだ戻らないみたいだな」
部屋の中にいた兄の汀州で、翠蘭の姿を見るなり心配そうに座っていた椅子から腰を上げた。
「俺の呼び出しに応じるのは翠蘭が回復してからでも……」
部屋に入り、周りからの視線がしっかり遮断されたところで、翠蘭が「ふふっ」と小さく笑い、汀州の言葉が不自然に途切れた。
姿勢よく椅子に腰かけて、汀州へにっこりと微笑んだ翠蘭の顔は先ほどとは打って変わって生気に満ち溢れている。
「お兄様、気遣いは不要です」
「とっくに回復しているみたいで、ひとまず安心したよ」
きっぱりと言い放たれた翠蘭のひと言に、汀州は呆れ声で応じつつ、椅子へと気が抜けたように椅子へ腰を下ろす。
卓の上には汀州が持ってきたものだろう飴玉が入った小瓶が置いてある。翠蘭がそれに視線を向けると同時に、汀州が怪訝そうに口を開いた。
「元気になったのなら、どうして講義に参加しないんだ。不参加が続いているからなんとかならないかと、講師が父さんの所に来たぞ」
「どうしてと言われましても……」
翠蘭は困ったような表情で流し目をしつつ、心苦し気に理由を言葉にする。
「そうですね。しいて言うなら、ようやく動けるようになった体で、舞い踊らねばならないのが辛かったからでしょうか。決して、舞の練習が面倒だなんて思っていませんからね」
心なしか“面倒”という部分が強調されると、明明と紅玉が揃って笑いを堪えた。
汀州も同じで、本心を隠す気のない翠蘭に思わず苦笑いを浮かべる。
「仕方ないだろう。豊穣祭の舞姫は皇后候補の中から選ぶと決まっているのだから」
豊穣祭は、一年に一度、斎宮で執り行われる。
通常、五穀豊穣の感謝を捧げるための舞姫は民の中から選ばれるのだが、皇后の選定が行われている年は、候補者の中から選ぶのだ。
五日前からその練習が始まった。
舞姫に選ばれた者は皇后の座に大きく近づくため、みんな練習に熱が入っていると講師から聞いている。
そして今朝も、講師は翠蘭の居所にやってきて参加を求めた。
しかし、翠蘭は顔色悪く「お休みさせていただきます」と五日連続での欠席を願い出たのだ。
「笙鈴さんならわかりますが、体調不良の私など放っておいてくださればよろしいのに」
「そうはいかないだろう。煌月様が翠蘭に恋愛感情を抱いているかどうかは俺にはわからない。でも、煌月様が四人の候補者の中で一番お前を気に入っているのは誰の目にも明らか。だからこそ、みんなの関心が翠蘭に集まりつつある」
汀州の言葉で、静芳からも同じようなことを言われたのを思い出し、翠蘭は目を泳がせる。
「これまで放置していたのに、今頃になって淑妃様、徳妃様が翠蘭の教育係になってもいいと言い出したのがいい例だ。もちろんお祖母様がお前に代わって丁重に断ったが」
翠蘭の動揺に気づかぬまま汀州は呆れ気味にそう告げたあと、ようやく本題に入るかのように真面目な顔をし、いくぶん硬い声音で話を続ける。
「高家の庭から逃げた呪術師の女は捕らえた。宮廷占術師だったよ」
「……やはりそうでしたか」
「今、尋問を掛けているところだ。逃げたもうひとりの呪術師の男の正体を暴くと共に、黒幕も必ずあぶり出す」
兄の力強い宣言に翠蘭は真剣に頷き返す。明明と紅玉も緊張の面持ちとなり、室内にぴりっとした空気が広まっていった。
「翠蘭が動けない間、お祖母様が後宮内の様子を何度か確認し、悪鬼の気配は無くなったと判断された。ひとまず危機は去ったと考えて構わない。翠蘭は立派に役目を果たせたと言っていいだろう。つまり、ここにいる必要がなくなったってことだ」
後宮にいる理由がなくなったと気づかされた翠蘭は、わずかに息をのみ、ゆっくりと視線を落とした。
「煌月様にお祖母様の見立てはすでに伝えてあるから、翠蘭が後宮を出るのを止めることはないだろう。父さんも、うまい理由をつけて早々と後宮を出ようが、皇后が決まるまでここで遊んでいようが、翠蘭の好きにして構わないと言っていたよ」
「……わかりました」
汀州は飴が入った瓶を翠蘭の前へ移動しながら、最後の確認をする。
「他になにか話しておきたいこととか、聞きたいことはあるか?」
そこで煌月の顔が脳裏をかすめたものの、翠蘭はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、ございません。お兄様、飴をありがとうございました」
翠蘭はその小瓶を手に取ると、ほんの少し動揺している心の内を隠すように、にこりと微笑みを浮かべた。
翠蘭は汀州と別れたあと、今度はのんびりとした足取りで、明明と紅玉と共に自分の居所に戻っていく。
(そっか。私、役目を果たせたのね)
やり遂げたという事実は翠蘭の心を歓喜に染め、自信にも繋がった。
達成感に満ち溢れている一方で、このまま後宮を、なにより、煌月のそばを離れることに迷いが生まれてしまったのもまた事実だった。
煌月と気軽に会える場所から離れたくない理由は、皇后になりたいからではない。
彼の魂が傷ついてしまっていることや、煌月を見つめていた黒焔の不安で寂しげな面持ちが、翠蘭の心に引っかかっているためだ。
(私でも何かできることがあるなら手助けしたいけど、煌月様のそばを離れたら、それも難しくなってしまうような気がする。……でもだからと言って、これ以上後宮に居座るのも違うように思えるし)
「おい、翠蘭!」
顎に手をあて、頭を悩ませながら歩いていると、後ろから声を掛けられた。
翠蘭は声だけで相手が誰かわかり、驚き顔で振り返る。
「……あら煌月様。お久しぶりですね」
速やかに明明と紅玉が道を開け、明らかに不満顔の煌月が翠蘭の前に立った。
「寝床から出るのも辛い状態だと報告を受けたが、俺の聞き間違いか?」
「……いいえ、間違いではないかと。とっても辛いです」
「嘘つけ! 先ほど汀州とも面会したらしいな。すこぶる元気そうで、なによりだ」
咄嗟に翠蘭は口を袖で押さえ、薄命の月華を演じてみせたが、即座に否定されてしまい、開き直るように煌月と向かい合った。
「おかげさまで。……でもこうしてお声掛けいただけて、ちょうどよかったです。私、煌月様とゆっくりお話がしたかったので」
「話?」
「ええ。実は……」
翠蘭は話を切り出そうとしたが、彼のずっと後方に金雪玲の姿を見つけ、言葉を飲み込む。
少し遅れて雪玲の姿を見つけ渋い顔をした煌月に、翠蘭はこっそりと話しかけた。
「聞かれたくない話もございますので、我が邸にいらっしゃいませんか?」
「……ああ構わない」
煌月の短い返事と共に、翠蘭たちは逃げるように移動し始めた。




