黒焔と煌月
饅頭の匂いがふわりと香り、翠蘭はゆっくりと目を開ける。
気だるさと共に体を起こし、寝台の上から室内をぼんやり見回すと、街で売っている好物の饅頭が卓上の皿に積み重なって置かれていた。
目にしたことで、僅かながら食欲を刺激されて動き出そうとするが、途端に眩暈に襲われ動きが止まる。
(霊力を使い過ぎてしまったから反動がひどいわ)
魂化術を行った翌日に翠蘭は目覚めたのだが、それから二日経っているのにも関わらず、まだ思うように動けない。
それほど霊力が高くない相手に成り代わった場合、想像以上に消耗するということを自身の身をもって実感していた。
「笙鈴さん、大丈夫かしら」
翠蘭がこの状態なのだから、当然笙鈴にも大きな影響が出ているはずである。
大人しく寝台に留まり心配で表情を曇らせた時、不意を突くように落ち着いた声が響く。
「ついさっき、高家の娘も目覚めたよ」
「お祖母様!」
後宮入りして以来、顔を合わせていなかった祖母の静芳がゆったりとした足取りで寝室に入ってくる。
「ここに来る前にこの目で確認してきた。体を起こすのも辛そうだったから、本調子に戻るまでもうしばらく時間がかかるだろう。……まあそりゃそうだろうよ。普段あまり使わない霊力を無理やり奪い取られたのだから」
尊敬する祖母と久しぶりに会えたことに翠蘭は自然と笑顔になるものの、すぐにその笑顔が苦笑いへと変わっていく。
「お祖母様は私が魂化術を使ったのを把握されているのですね」
「挙句の果てに、霊力の矢まで放ったなどという無謀な行動までしっかり耳にしている。……もちろん、高家の娘に秘術に関して話していないだろうね?」
鋭い眼差しを向けられ、翠蘭は慌てて答えた。
「もちろんです。願いを叶える代わりに今回の件について口外しないという約束を交わし、その上で、笙鈴さんなら守ってくれると信じて、今回のことにあたりました」
「確かに高家は律儀な性格な者が多い。翠蘭が約束とやらを守るならば違えることはしないだろう。けれどね翠蘭、魂化術は気軽に使っていいものではない。李家の秘術であることを今一度肝に銘じなさい」
「はい。お祖母様」
静芳から厳しく言われ、翠蘭がしょぼんと肩を落とした時、黒焔がふたりの間に姿を現し、静芳へ白けた目を向ける。
「……なんだい黒焔。物言いたげな顔で私を見て」
静芳が面白くなさそうにぼやくと、黒焔が静芳に向かって指をさしつつ苦笑いする。
「お前が言うなと言いたいのだな。わかっている。私も若い頃は魂化術で繰り返し遊んで……」
「遊んで?」
静芳の言葉にすかさず翠蘭が反応を示した。
ばつが悪そうにわずかに眉根を寄せた静芳は、翠蘭の寝台に腰かけると、大きな咳咳払いをひとつ挟み、何事もなかったかのように言い直す。
「鍛錬していたからな。ばれそうになったことは多々あるが、それでもうまく誤魔化してきた」
平然と言い切った静芳に対し、黒焔は異議を唱えたそうな様子だ。
ふたりの気安いやり取りを不思議な気持ちで見つめていた翠蘭は、ぽつりと疑問を口にした。
「お祖母様は黒焔と古い付き合いなのですか?」
「ああ。私が宮廷占術師になる前からの付き合いだ」
「そうだったのですね。では、黒焔は煌月様とどのような繋がりが?」
ついでのように翠蘭が発した問いに、静芳がほんの一瞬困ったような表情を浮かべた。翠蘭はその些細な変化を見逃さず、追及の手を緩めない。
「それほど付き合いが長いのなら、もちろん知っているのでしょ? 私にも教えてください。黒焔が煌月様に見守るような視線を送る訳を」
静芳は真剣な面持ちで黒焔としばし見つめ合ってから、おもむろに口を開いた。
「そうだな。李家の一員として翠蘭も知っておいてもいいだろう。わかっていただろうが、黒焔はただの幽魂でない。歴代の皇帝たちと共に国を守ってきた龍神の化身だ」
「龍神様」
「正確には、龍神の魂の欠片と言うべきだろうか」
言葉を選びながらそう告げると、静芳は膝の上で指を組んで息を吐き出す。どこか遠くを見つめるようにして、硬い声音で話を続けた。
「煌月様が十三歳の時、皇帝の御身に宿っておられる龍魂の半分を、煌月様に譲渡されることになった」
「そんなことができるのですか」
「神気を纏って生を受ける劉家だからこそ出来る技だな」
翠蘭が感心していると、静芳は表情を曇らせ、悔しそうに打ち明けた。
「煌月様の中へと龍魂を納め、あとは、ふたつの魂を繋ぎ合わせるだけ……といったところで呪術師の襲撃を受けた。呪術師たちが煌月様から龍魂を無理やり奪い取ろうとし、私たち宮廷占術師はそれを必死に阻止した」
思いもよらない展開に翠蘭は息をのむ。表情を強張らせたまま、祖母の話にじっと耳を傾けた。
「龍魂は奪い取られずに済んだ。けれど、龍魂を強引に引きずり出されたことで、煌月様の魂が深く傷つき、一時霊力を失うことに。もちろんそのような状態では、煌月様の体は龍魂を受け入れることはできない。煌月様の魂の傷が癒えるその時まで、私が龍魂……黒焔を保護することになった」
黒焔が李家にやってきた経緯を始めて知ると同時に、翠蘭は煌月とのやり取りを思い返す。
「だから、煌月様は霊力が無いように振舞われておられたのですね。さぞかし生きづらかったことでしょう」
霊力が不安定な状態で、悪鬼や呪術師に命を狙われながら生きてきた煌月の苦労を思うと、翠蘭の胸が一気に苦しくなっていく。
静芳は翠蘭の言葉に同意するように頷きつつ、話を続ける。
「煌月様の霊力は回復し、かつてのように神力も強まってきているように私には見える。しかし、あの頃の記憶は失ったままで、なにより黒焔だけがまだはっきりと見えていないご様子。黒焔によるとまだお互い完全に回復していないらしい」
「黒焔も傷が癒えていないのですね。私にもなにか出来ることはないでしょうか」
煌月を気遣う翠蘭を、静芳はちらりと横目で見た。
「翠蘭が目覚める少し前に煌月様がここにお見えになったんだ」
「煌月様が?」
「気丈に振舞っておられたが、霊力がひどく低迷しているご様子だった。先日の悪鬼との戦いで、がむしゃらに神気を放ったらしいね。まったくお前も煌月様も無茶ばかり」
大蛇から救ってくれた際、青白い瞳で翠蘭を見下ろしていた煌月の姿を思い出す。
「煌月様は私を……いえ、笙鈴さんを助けたい一心だったのだと思います。私が林杏を助けようと無我夢中で霊力の矢を放ったのと同じだわ。確かに、似た者同士かもしれないわね」
そう言って翠蘭が「ふふふ」と柔らかな笑い声を響かせると、静芳がこっそりと意味ありげな笑みを浮かべた。
「完治を待つべきなのはわかっている。しかし、国民の世継ぎ待望論に押されて、煌月様の妃候補選定を始めてしまったからには、そうもいっていられない状況だ」
「どうしてですか?」
「劉家の長男が生まれながらにして神気を宿している理由は、父親が龍魂を宿しているから。神気を宿していない男児は皇帝を引き継ぐ資格がない。それゆえ、国の安寧、および無駄な継承者争いを起こさぬように、煌月様は正妃を迎える前にその身に龍魂を宿す必要がある」
「……そうですか。大変ですね」
翠蘭が他人事のように感想を述べると、静芳は寝台から立ち上がり、積み重なっている饅頭へと手を伸ばした。
「この饅頭は煌月様からだよ。お前の好物だからと、わざわざ町まで買いに出たようだ。そういえば、前に菓子ももらったようだね」
(……そこまで知っていらっしゃるのね)
すべて筒抜けなことに翠蘭は苦笑いを浮かべる。すると、静芳が饅頭をひとくち頬張ってから、目を細めながら愉快そうに言い放った。
「花嫁候補はおろか、娘どもに一切興味を示されなかった御方が、こうしてお前のために甲斐甲斐しく動いているのを見て、皇帝は翠蘭が花嫁の最有力候補と考えておられる。なあ翠蘭、煌月様に好かれているのだから、このまま妃の座に収まってみるのも悪くないかもしれないぞ」
翠蘭は唖然としたが、静芳ににやりと笑いかけられた瞬間、頬が赤くなる。
「す、好かれているって……ちょっ……待っ……お祖母様!」
満足顔で静芳が部屋を出て行ってしまったため、翠蘭の叫びが虚しく響いたのだった。




