翠蘭と笙鈴1
「庭園へ移動しましょうか? また邪魔が入るかもしれませんけど」
翠蘭は近づいてきた笙鈴にそう提案して歩き出す。笙鈴も翠蘭に続いたが、迷うようにして足を止めた。
「そうね……でしたら、大したおもてなしはできませんが、私の居所にいらっしゃる?」
「よろしいのですか?」
予期せぬ言葉に翠蘭は驚きと共に振り返った。
驚いているのは翠蘭だけでなく、他の者たちも同様だ。笙鈴は自分に向けられる唖然とした眼差しに対し、居心地悪そうに視顔を俯かせた。
「皇后候補者たちは適切な距離を保つことを望まれているのは承知しております。……けど、あなたに居所内の様子を見ていただきたくて」
もちろん、皇后や四妃になったあとなら、お互いの居所を行き来して交流を図ることは必要だ。
しかし、候補者の段階の今、明確な文言はなくても、必要以上に慣れ合うのを良しとされていない風潮は確実にある。
あまりにも翠蘭が目を丸くしていたからか、笙鈴は表情を強張らせて、焦ったように早口で言葉を並べ始める。
「ごめんなさい。そんなことをしたら、あなたまで不利益を被ってしまいますね。どうか今の発言は忘れて……」
「いいえ。構いません。先ほどの言葉をご依頼とし、占術師のはしくれとしてお引き受けいたしましょう」
暗黙の了解となっている決まり事を無視してまで願い出たというのは、それほど切迫した状況だからである。
翠蘭もそれを肌で感じ取っていたため、言葉をかぶせるようにして笙鈴の誘いに乗った。
「それに、煌月様からは、この件に関して自由にやってよいというお言葉をもらっておりますので、私のことはお気になさらず」
ダメ押しのように翠蘭がこっそりと告げると、笙鈴は少しばかり目を瞠った後、理解したように呟いた。
「煌月様があなたに信頼の眼差しを向けている理由がわかった気がします。よろしくお願いいたします」
笙鈴は恭しく拱手したあと、敷地内へと翠蘭を招き入れた。
そのまま建物内へ入っていこうとする笙鈴へ、「まずは庭を見せていただいても?」と翠蘭が声を掛けた。
もちろん笙鈴は頷いて了承し、翠蘭と肩を並べて庭へと歩を進める。
ふたりのあとを厳しい面持ちの明明と紅玉が続き、そして複雑な面持ちの笙鈴の女中たちが追いかけた。
ちらりちらりと、視界の隅で影が動くのを感じながら、翠蘭は建物の周りを一周する。
正面に戻ると、明明が女中たちへと体を向けて、鋭く切り込んでいく。
「素晴らしく手入れが行き届いていますね。あなた方が?」
女中たちは顔を見合わせた後、最年長らしき落ち着き払った女中が前に出て答えた。
「最初は私たちで何とかしていたのですが、最近は庭の景色が笙鈴様の気晴らしになればと、定期的に外から女性庭師たちを呼んでおります」
「そうですか。その女性庭師たちはもう呼ばない方が良いと思います」
明明からはっきり言い放たれ、最年長の女中は呆気にとられたように明明を見つめ返し、他の女中たちから「なんですって!」と非難の声が上がった。
騒がしい声には一切耳を貸さず、明明は自分の見解を告げる。
「全員とは言いませんが、間違いなくそのうちの誰かは呪術師と繋がっているか、もしくは呪術師本人でしょう……今、庭は瘴気だらけで非常にまずい状態でございます」
そこでようやく、最年長の女中が声を震わせながら厳しく言い返した。
「ふざけた発言は許しませんよ! 彼女たちは高家を通じて呼び寄せた庭師です。そんなことがあるわけないでしょう! 分かったようなこと言わないで!」
「今私は翠蘭様に仕えるただの女中でしかありませんが、元宮廷占術師でもございます。庭を見た上での私の考えを正直に述べさせていただいたまでです」
あくまで冷静に意見する明明に笙鈴側の女中たちは不満を燻らせたが、そんな張りつめた空気をぶち壊すように翠蘭が楽しそうにうふふと笑う。
「本当に。いろいろ埋まっていそうで素敵なお庭ね」
のんきなひと言を聞いて女中たちは完全に言葉を失い、笙鈴は堪えきれないように笑みを浮かべたのだった。
建物の中へと場所を移し、ひと通り見て回った後、翠蘭が笙鈴に話しかけた。
「先日、私たち大蜘蛛に襲われましたの。返り討ちにしましたけど」
「大蜘蛛に……さすが李家ね」
なんてことない様子で告げられた事実に、笙鈴は思わず口元を引きつらせる。
「それで、標的は私からあなたへと変わりました。時が来たら、悪鬼は容赦なく襲いかかってくるでしょう。もうすでに、前兆があるのではないですか?」
更なる翠蘭の言葉に笙鈴たちは顔色を変え、その場に重苦しい沈黙が落ちた。
沈黙を肯定とみなし、翠蘭はにこりと微笑む。
「どうなさいます? 私としては、なんとかして差し上げたいと思っておりますけど、それには笙鈴さんの許可が必要ですね」
「……お願いするわ。どうか皆が限界を迎える前に助けて欲しい」
皆を思っての笙鈴の言葉に、後ろに控えていた女中たちから「笙鈴様」と泣きそうな声が上がる。
翠蘭は笙鈴の本気の願いをしっかりと受け止めて小さく頷いたあと、さらりと要求する。
「では、今夜は泊めていただいても?」
「と、泊まるの?」
「はい」
「……別に構わないけど」
言質を取ったとばかりに満足げに微笑んだあと、翠蘭は明明と紅玉へ話しかけた。
「まずは、笙鈴様と皆さんが安心して過ごせる場所を作ります」
「では私は翠蘭様の居所から必要なものを持って参ります。紅玉を連れて行っても?」
「もちろん。ふたりともよろしくね」
明明と紅玉は揃って「はい!」と返事をしてから、颯爽とした足取りでその場を離れていく。
そんなふたりの様子を見つめつつ、最年長の女中は笙鈴の傍らまで進み出て苦言を呈した。
「李家から同行されている元宮廷占術師の女中はともかく、紅玉は朱家の件で怪しい動きをしていたという情報を得ております。信頼して本当によろしいのでしょうか」
何とも言えない顔となった笙鈴に代わって、翠蘭がそれに答えた。
「不安に感じる気持ちはわかりますが、今、紅玉は私の女中です。少しでも怪しい動きをしようものなら、この私が責任を持って罰するとお約束します」
翠蘭の美しくも儚げな笑みが言葉の冷酷さを際立たせた。
女中たちは息をのんだ後、理解を示したのをその身をもって示すように、翠蘭に対し礼儀を持って拱手する。
「翠蘭様、どうか笙鈴様をお助けください!」
女中たちの真剣な訴えに笙鈴の瞳に涙が浮かぶ。
彼女たちの強い絆を感じながら、翠蘭は笙鈴の顔をじっと見つめて、ぽつりと話しかけた。
「笙鈴さん、睡眠もろくにとれていないご様子ですね。ふたりが戻り次第、真っ先に寝室へ結界を張らせていただくことにしましょう。少し休んでください」
「いえ。眠れていないのは皆も同じなので、彼女たちを先に。私はそのあとでいいです」
笙鈴が拒否すると、女中たちが翠蘭の言葉に同調し始めた。
「翠蘭様の言う通り、笙鈴様を先に! むしろ、私たちにお手伝いできることがあれば、お申し付けください!」
「まあ、手伝ってくださるのですか。そうですね……」
そこで翠蘭は笙鈴側の女中のひとりをちらりと見た。
先ほどからずっと、女中たちの後ろでおろおろしていただけの彼女は、翠蘭と目が合うと気まずそうに視線を伏せた。
それに笙鈴も気づき、こっそりと表情を険しくさせた。




