暗雲の兆し2
翠蘭、雪玲、そして笙鈴が一堂に会し、場に緊張感が広がっていく。
笙鈴に軽蔑の眼差しを向けられ、雪玲は翠蘭から手を離すものの、納得いかない様子で言い放った。
「李翠蘭が悪鬼を差し向けて、この私を陥れようとしているのよ! 黙ってなんかいられないわ!」
「あの老婆は私の僕ではございませんし、そもそも悪鬼でもありません。自由気ままに動き回っているだけの、ただのあやかしでございます」
淡々と翠蘭が発言を訂正すると、雪玲の顔が憤りで真っ赤に染まる。
「僕じゃないなんて言われて、素直に信じられると思っているの? 今夜もまた、あの老婆が私の元に姿を現したら絶対にあなたを許さないから!」
「そう言われましても、僕でないのは事実ですので私に彼女を止める権利はございません。老婆に居所内を散歩されるのがどうしてもお嫌なら、そちらの占術師さんたちが結界を張るなりして対処すれば済む話では?」
果てしなく不思議そうに発言をしたあと、翠蘭ははっと気が付いてしまったかのように雪玲の後ろに控えている数人の占術師と思しき女中たちを見た。
「……あら。もしかして、できませんの? 金家お抱えの占術師なのに?」
深刻な顔で問いかける翠蘭に、雪玲側は一瞬言葉を失うものの、すぐに非難の声を上げ始める。
「あなた今、私たち金家を馬鹿にしたわね!」
再び雪玲が翠蘭に掴みかかろうとしたため、すかさず笙鈴が「だから、やめなさいと言っているでしょう!」と呆れ顔で止めに入る。
続けて明明と紅玉も主を守るように毅然とした態度で翠蘭の両側に並ぶ。
雪玲は悔しそうに顔を歪めながら、翠蘭を指さした。
「そもそも先日のことだって、私は頭にきているんです。体調が優れなかったなんていうのは嘘よね。煌月様の気を引くための演技だったのでしょう? こざかしい女!」
金切り声でわめきたてたが、翠蘭はさらりとそれを聞き流し、思い出したように紅玉に視線を向ける。
紅玉が見覚えのある箱を大事そうに抱えているのをしっかりと確認して、翠蘭は嬉しそうに微笑みを浮かべた。
話を聞いていない様子の翠蘭に雪玲が盛大に舌打ちしたあとも、苛立ちの言葉は止まらない。
「余裕の顔をしているけど、その女中に足元をすくわれないように、せいぜい気を付けることね」
そこで翠蘭の眉がぴくりと動き、一瞬で無表情となる。
「そこの女中とは、いったい誰のことでしょうか?」
翠蘭が顔色を変えたことにようやく手ごたえを覚えたのか、雪玲は表情に優越感を滲ませながら紅玉を指さした。
「その女中よ! 煌月様に取り入ろうと必死みたいじゃない」
予期せぬ展開だったらしく紅玉は目を丸くし唖然とする。しかしすぐに我にかえり、慌てふためき始めた。
「……えっ、煌月様に取り入るだなんて、そんな恐れ多い!」
「白々しいわね。先週だけでなく今日も、あなたが煌月様と会っていたのを知っているのよ。待ち伏せでもしていたのかしら」
雪玲の指摘に紅玉はうまく言葉が出てこない。強張った唇を少しばかり動かしてから、勢いよく翠蘭へと向き直り、必死に訴えかけた。
「確かに先週も今日もお会いしておりますが、誓ってそんなつもりはありません。偶然お会いしただけです!」
翠蘭が土下座しようとする紅玉の肩を掴んで止める一方で、雪玲は棘を過分に含んだ言葉を放ってくる。
「煌月様もわざわざ足を止めてお話をされているみたいね。いったいどんな手を使ってあの御方の気を引いたのか知らないけど、ただの女中が身の程をわきまえなさい。これだから貧しい出自の者は油断できないわ。卑しいったらありゃしない」
「今なんて?」
雪玲のひと言で、さらに翠蘭の表情が冷ややかなものとなっていく。
紅玉を背中にかばうようにして、翠蘭がゆっくりと前へ出た。
雪玲と向き合い、軽蔑の眼差しを突き付ける。静かだが圧倒的な迫力に雪玲は思わず息をのんだ。
「……そ、そもそもあなたの女中への教育が行き届いていないのよ!」
「私への文句ならいくらでも聞き流しますけど、紅玉の悪口となると話は別です」
翠蘭がみせた殺気すら感じさせる冷たい面持ちに、雪玲はもちろん女中たちは完全に言葉を失う。
そんな中、紅玉の「翠蘭様!」という涙交じりの歓喜の声が小さく響いた。
「あの程度の幽魂を悪鬼だなんだと、正直うるさいです。喧嘩を売っているおつもりなら買いましょうか。そうですね。……本物の悪鬼をあなたの元に送り込んで差し上げましょう。とくとご覧あれ」
そこで翠蘭は雪玲に歩み寄って体を寄せると、にっこりと微笑みかけた。
悪意に満ちた笑みに雪玲が身を震わせたところで、笙鈴が愉快そうに小さく声をあげて笑った。
「うるさいのは同意だわ」
それだけ言うと笙鈴は踵を返す。立ち去る彼女の後ろ姿に向かって、雪玲は不満たっぷりに毒づいた。
「なんですって! こっちは寝不足でふらふらしているっていうのに、あんたも高笙鈴も元気たっぷりで腹が立つわ」
「そうですか? 私には笙鈴さんが元気そうになど見えませんけど」
翠蘭もそう言葉を残し、笙鈴を追いかけるようにして歩き出す。
後ろで「ちょっと待ちなさいよ!」と雪玲が叫んだが、翠蘭は足を止めずに進み続けた。
すかさず翠蘭の横に紅玉が並び、再び訴えかける。
「翠蘭様! 私は、翠蘭様が煌月様の妃になるのを心の底から望んでいます。自分が煌月様に取り入ろうだなんてまったく思っていません! どうか信じてください!」
翠蘭はきょとんとした顔で紅玉を見つめてから、ふふふと柔らかな笑い声を響かせ、あっけらかんと言葉を返した。
「わかりました。信じます……でも、未来は誰にもわからないわ。煌月様のお気持ちひとつで、紅玉が妃になる可能性だって十分に考えられるのだし。たとえそうなっても、私は紅玉を責めたりしませんよ」
「それは絶対にありません。なぜなら……って、お待ちください、翠蘭様!」
そこで、足早に前に進んでいた笙鈴が彼女の居所を取り囲む塀の向こうへと入ってしまったため、翠蘭は焦り気味に駆けだした。
もちろん明明と、泣きそうな顔の紅玉も翠蘭に続く。
「笙鈴さん!」
翠蘭が呼び止めると、出入り口の手前で笙鈴が足を止め、気だるげに振り返った。
「なにか?」
「新たに曲を覚えましたの。聴いていただきたくて」
「結構よ」
翠蘭はずっと手に持っていた横笛を掲げてみせたが、笙鈴は嫌そうに眉根を寄せて即答した。
じっと笙鈴を見つめる翠蘭の目には、居所に入るべく再び歩き出した笙鈴の体に黒い影がまとわりつこうとしているのがはっきりと見えていた。
(思ったよりも深刻だわ。もしかしたらすでに術式が完成してしまっているかもしれない)
あの呪術師と相まみえる日も近いだろうと予想しながら翠蘭は短く息を吐き、そっと笛を構えた。
霊力を込めて音色を奏で始めると、笙鈴を捕えようとしていた黒い影が徐々に引いていく。
すると、笙鈴は動きを止め、改めて翠蘭を振り返り見た。先ほどと明らかに違っているのは、驚いた表情を浮かべていることだ。
笙鈴は自分の周りにいる女中たちも同様に不思議そうな顔をしているのを見て取ってから、率直に翠蘭へ問いかけた。
「あなた、今、何かしたわね」
黒い影による影響が消えたことを笙鈴たちが敏感に察知しているのを、翠蘭だけが理解し、余計なことは語らず微笑みのみで返事をした。
「少しくらいなら聴いてあげるわ」
女中たちを引き連れて笙鈴が戻ってくるのを受け止めるように、翠蘭は笑みを深めた。




