甘い贈り物
翠蘭はゆっくりと目を開け、ぼんやりとした視界の中に、自分を覗き込む黒焔の顔を見つけた。
「どこに行っていたんだよ」
思わずぼやくが、聞こえたのが幼き日の兄ではなく、自分の声音であったことにハッとさせられ、同時に意識もしっかり覚醒する。
「ごめんなさい、なんでもないの。久しぶりに魂化術を行ったからかしら。とっても懐かしい夢をみたわ」
翠蘭は不思議そうな顔をしている黒焔に苦笑いを返しながら、横たえていた体をゆっくりと起こし、馴染み始めている自室を見回した。
ついさっきまで紅玉に成り代わって斎南宮内を歩き回っていた。
汀州と別れ、自分の居所に戻り魂化術を解いた後、そのまま寝台に倒れ込んだところまでの記憶はある。
今現在、窓の外は明るく、それほど時間が経っていないようにも感じられるが、いつの間にか寝間着に着替えさせられていることから、実際はそうでないのだろうなと予測がついた。
(私、どのくらい眠っていたのかしら)
魂化術は大量の霊力を消耗するため、回復に時間がかかることが多い。
実際、汀州に成り代わったあの時は、びしょ濡れでの帰宅で風邪を引いてしまったこともあり、翠蘭は回復までに一週間を費やした。
そして、対悪鬼の際に大量に霊力を吸い取られた汀州も、三日ほど起き上がることができなかった。
「紅玉は目覚めたかしら」
心配になったところで、傍らにいた黒焔が動き出し、翠蘭は無意識にその姿を目で追いかける。
黒焔は部屋の戸口から廊下を覗き込む形で、なにかを気にしている。
その様子に疑問を抱くと同時に、ぼそぼそと明明の話し声が聞こえてきたため、翠蘭はゆっくりと寝台を離れた。
廊下を静かに進みながら、ちらりと後ろを確認すると、ついてくると思っていた黒焔が戸口に留まっていた。
一緒に来ないのかと話しかけようとするが、明明の話し相手の声音が煌月だと気づいて、翠蘭は言葉を飲み込む。
(そういえば、黒焔は煌月様の邸宅を覗き見していたわね)
しかも、その場から動かないくせに、黒焔は明らかに煌月に興味を示している。
どのような繋がりがあるのか気にはなったが、ここで黒焔の元に戻って問うことはせず、そのままふたりの会話が聞こえてくる居所の出入り口へと翠蘭は歩を進めた。
「そうか、翠蘭は具合が悪いのか」
「今、眠っておられます」
煌月は少し考えるように瞳を伏せてから、再び口を開いた。
「……昨日、翠蘭に仕えているもうひとりの女官と会ったのだが、彼女はどこにいる? 少し話をしたいのだが」
(昨日。ということは、私は丸一日寝ていたということね。きっと今回はお兄様と話をしただけで、霊力を使うこともなかったから、その程度で済んだのかも。紅玉は大丈夫かしら)
彼の言葉から翠蘭は抱いていた疑問にひとつ終止符を打った。
一方、明明は紅玉に成り代わった翠蘭が煌月と鉢合わせしていたことを知り、大きく目を見開いたあと、不安と動揺の入り混じった顔となる。
「そっ、それは紅玉のことでしょうか。お会いしていたのですね。……な、なにかご迷惑を?」
「いや。迷惑などこうむっていない。ただ、もう一度話をしたいと思っただけだ」
煌月の硬い表情から、迷惑をかけていないという言葉を信じられない明明は、すぐさま拱手の体勢をとり、誠心誠意頭を下げた。
「そ、そうでございましたか、申し訳ございません。紅玉も体調を崩しておりまして、煌月様にお目にかかれるような状態ではございません」
「彼女もか」
煌月は訝し気に眉をひそめていたが、ゆっくりと近づいてくる翠蘭に気づいた瞬間、唖然とする。
「……す、翠蘭」
「おっ、お嬢様! なっ、なんていう恰好を!」
つられて明明も翠蘭へと視線を向け、悲鳴に近い声をあげた。
翠蘭は自分の恰好に改めて目を向けつつも、足を止めずにふたりの元へ進んでいく。
「ああ。そういえば私、寝間着だったわね。煌月様、このような格好で失礼いたします。どうかお気になさらず」
若い娘が親族以外の前で寝間着姿をみせるのははしたないという認識が一般的であり、相手が男性だったらなおさらである。
しかし、子供の頃から寝間着で過ごすことが多く、家族以外の目に触れても恥ずかしがるどころか、一切気にしてこなかった翠蘭は、ここでも鈍感さを発揮する。
「……いや、気にするだろ。仮にも男の前なんだから、そっちも少しくらい気にしてほしいものだが」
恥ずかしさを感じていない、つまり自分は翠蘭に男として意識されていないと理解した煌月は、思わず半笑いを浮かべる。
煌月のお付きとして後ろに控えていた宦官が気まずそうに翠蘭から視線をそらすと、そのまま外へと出て行った。
明明も「少々離れます」と気まずさいっぱいの様子で足早に立ち去るのを、翠蘭は不思議そうに目で追ったのち、煌月へと視線を戻す。
(あの時の男の子が、こんなにも立派になって)
幼き日の出来事を改めて懐かしむものの、水に引きずり落した際の呆然とした彼の顔を思い出してしまい、思わず「ふふふ」と笑い声をこぼした。
「なんだ?」
「いいえ、なんでもございません。それより、せっかく来ていただいたのに、おもてなしできずに申し訳ございません」
「いや、具合が悪いところへ訪ねてきてしまった俺も悪い……顔色が悪いな。元気そうであったから、深く考えずに後宮に誘い込んでしまったが、もしかして、これまでもこうしてよく寝込んでいたりしたのか?」
煌月から心配そうに顔を覗き込まれたことで、翠蘭の脳裏に「薄命の月華」という言葉が思い浮かぶ。
「煌月様にはこっそり教えておきますね。実は、ここだけの話、私、薄命ではございませんの」
翠蘭が真剣な面持ちで打ち明けると、煌月は即座に納得したように繰り返し頷き、本日二回目の半笑いを浮かべた。
「……ああ、薄々そんな気はしていた」
「幼い頃から悪鬼に狙われることが多く、下手をすると取り憑かれてしまうため人前に出るのを避けておりましたら、いつの間にかそのような噂が独り歩きしていました。今回は、いつもより霊力を使い過ぎたため、寝て回復をはかっていただけです。普段は健康体そのものでございます」
「霊力を使い過ぎたというのは、先日の悪鬼退治のことだな」
一番の原因は魂化術である。しかし、翠蘭はにこりと微笑みを浮かべることで、その事実を伏せた。
「そのことに関して、汀州から報告は上がっているが、翠蘭からも直接話を聞かせてもらおうと思ってこうして訪ねたのだが、また改めて来ることにしよう」
「そうでしたか。わざわざ足を運んで下さり、ありがとうございました」
そこで煌月は躊躇いを見せた後、少しばかり気恥ずかしそうに口を開いた。
「それだけじゃない。渡したいものがあって」
言い終えると同時に、煌月は屋外に下がった宦官の元へ向かう。すぐに翠蘭の前へと舞い戻ってくると、長方形の小さな箱を差し出してきた。
「煌月様、これは?」
「隣国の銘菓だ。甘い菓子が好きと聞いたから、翠蘭に」
「まあ! ありがとうございます! あっ、なんだかもうすでに甘い香りが。これは絶対美味しいです。わかります」
翠蘭は目を輝かせて箱を受け取り、さらに笑顔を弾けさせる。
「俺の好きな菓子だ。翠蘭も気に入ってくれたら嬉しい」
煌月は穏やかに微笑み、嬉しそうな翠蘭を見つめながら囁いた。




