李家の秘術1
日が昇り始めた頃、翠蘭の居所内は張りつめた空気に満ちていた。
「申し訳ございませんでした!」
ひじ掛けに若干もたれかかる格好で座具に腰かけている翠蘭の前に紅玉がひれ伏し、床に額をこすりつける勢いで謝罪の言葉を繰り返していた。
翠蘭も、翠蘭の傍らに立っている明明も冷ややかな視線を紅玉に注いでいる。
「翠蘭様の命を狙うような真似をして、土下座程度で許してもらえると思っているの?」
明明の呆れ交じりの指摘に、紅玉はぎゅっと拳を握りしめ、顔を伏せたまま答えた。
「思っていません。罪の重さは理解しているつもりです。どんな罰でも受けます」
声だけでなく、体もかたかた震わせ、いつもより小さく見える紅玉に対し、翠蘭は静かに口を開いた。
「紅玉、顔をあげなさい」
求めに応じて、紅玉が恐々と顔をあげる。
翠蘭は深い後悔と怯えの色を宿した彼女の目をじっと見つめたあと、にこりと笑いかけた。
美しくも毒を含んだその笑みに、紅玉は表情を強張らせる。
「どちら側につくか選ばせてあげましょう。私を陥れようとしたどこかの誰かさんか、それともこの私か」
どこまでも楽しそうな翠蘭の声音に続いて、室内に沈黙が落ちた。
しかし、紅玉が動揺で瞳を揺らしたのはほんの数秒だけ。徐々に面持ちが覚悟で満ちていく。
「翠蘭様と明明さんは私が間者であると気づかれていましたよね」
紅玉の言葉に翠蘭はわずかに目を細め、一方で明明は当然だといった表情を浮かべる。
そんなふたりを見つめながら、紅玉ははっきり言い切った。
「本来なら、私は昨晩死んでいたと思います。けど、今もこうして生きているのは翠蘭様が裏切り者の私を見捨てず、助けてくださったからです」
確かに、翠蘭に渡された手鏡がなかったら、紅玉は悪鬼の餌食になってしまっていただろう。
しかも、紅玉はあれがただの手鏡でなかったことも感じ取っていた。
手鏡には翠蘭の霊力がしっかりと込められていた。だからこそ、悪鬼を弾き返すだけでなく、燃やし尽くすことまでできたのだ。
裏切り者など助けないという選択もできたはずなのに、翠蘭は迷うことなく紅玉に自分の霊力を込めた手鏡を与えた。
あの瞬間、紅玉は抜け出せなくなりそうだった暗闇の中から、陽の当たる場所へ引っ張り出してもらったような気持になったのだ。
「恩を仇で返すことなどできません。救ってもらったこの命、導いてもらった先にある人生を、すべて翠蘭様に差し出します」
「言葉では何とでも言える」
明明がちくりと棘のある言葉を挟んだが、それでも紅玉は必死に訴え続けた。
「もちろん、何を言ったところで信じていただけないのはわかっております。どうかこれからの私の行動を見て、嘘か本当か判断してください!」
紅玉は真剣な顔で言い切ると、膝立ちのままで翠蘭に対して拱手する。
翠蘭は少々面食らった顔をしてから、ふふふと嬉しそうな笑い声を響かせた。
「それは私の僕として生きることを選んだと、そう理解していいのかしら」
笑みを深めての翠蘭の確認に、紅玉は躊躇いなく「はい」と返事をした。
ようやく明明も表情を崩し、苦笑いを浮かべながら自分の考えを口にする。
「今回のことはあちら側にとって失敗ですし、下手すると紅玉は消される可能性もあります。このまま寝返って、翠蘭様の傍にいるのが賢明でしょうね。……まあ、相手が誰であれ、翠蘭様、ひいては李家を敵に回す方が私には恐ろしく感じますけど」
翠蘭は心外だとばかりの眼差しを明明に向けつつ、紅玉に直球で問いかける。
「庭で密会していた相手は誰?」
「わかりません」
首を横に振りながら真摯に答えた紅玉へ、翠蘭はもう一歩踏み込んだ質問を重ねる。
「金家、張家、高家、朱家の女官に似通った人物は?」
紅玉は記憶を辿るようにして考え込んだ後、やっぱり首を横に振る。
そして、握りしめていた小さな紙きれを、翠蘭や明明が見えるように床に置いた。それには「丑の刻、庭」とだけ書かれていた。
「元々仕えていた金家に、あのような女官はいなかったのは確かです。張家、高家、それと朱家の女官まですべてを把握できている訳ではございませんが、このようにして呼び出されるとき以外に、私は後宮内で同一人物だと思しき女性を見かけたことはありません」
返答を受け、翠蘭はわずかに視線を俯かせて考え込むような仕草をする。明明も顎に手を添えて首を傾げた。
「女官の恰好をして後宮に忍び込んだ呪術師、ってところでしょうか」
「そうなると、お兄様あたりに宮廷占術師の中で怪しい動きをしている女がいるかを聞いた方が黒幕に近づけそうね」
明明とそんなやり取りを短く交わした後、翠蘭は少しの躊躇いを挟み、紅玉にぽつりと問いかけた。
「あの女呪術師が言っていたことは本当?」
理解が追い付かないような視線を紅玉から返され、翠蘭は質問の言葉を変える。
「紅玉の母上はご病気なのですか?」
「……ああ、はい。本当です」
紅玉はすぐに頷いて認めると、ちょっぴり沈んだ表情と声で、自分の生い立ちを話し出した。
「私は国の東に位置する風安村出身で、母と幼い妹との三人で暮らしておりました。けど三年前、私たちのために身を粉にして働いてくれていた母が病気になってしまい、私の稼ぎだけでは薬代はおろか生活もままならなくなっていきました。途方に暮れていた時に、長老の奥方から此度の女官募集の話を持ち掛けられたのです」
そこで一度、紅玉の硬い声が途切れ、不思議そうな口調に変化する。
「霊力がある娘を希望しているみたいだから、あんたが申し込めば優先的に雇ってもらえると言われました」
「霊力? 占術師の募集じゃあるまいし」
思わず明明が言葉を挟むと、紅玉は自嘲気味に笑ってみせた。
「私もそれを聞いた時は違和感を覚えましたが、田舎者なので都会の事情はわかりませんし、なにより給金が良かったので、そういうものだとして受け入れました」
「あの女呪術師と会ったのは、金雪玲さんのもとで働き出してから?」
翠蘭が疑問をぶつけると、紅玉はこくりと頷いて詳細を話し始める。
「はい。働き始めてすぐでした。庭で草むしりをしていた時にあの女官に声をかけられました。雪玲様を守るための術を教えてあげましょうと。私はその言葉を素直に受け取ってしまい、気が付けば引き返せない状態に」
翠蘭は悔しさを滲ませながら答える紅玉をじっと見つめていたが、自分の中で結論を得たかのように微笑みを浮かべる。
「母上の話など、言い難いことも正直に話してくれてありがとう。私は紅玉を信じます」
紅玉は息をのむ。
そして瞳に涙を浮かべ、唇を震わせながら「ありがとうございます」と心の底から感謝を述べた。




