後宮入り3
おどおどしている紅玉に先導される形で庭園を抜け、通路を進んでいくと、小さいながらも比較的立派な居所が目の前に現れる。
(こちら……ではなさそうね)
これから自分が暮らしていく住まいかもと翠蘭は考えるが、紅玉が立ち止まることなく先へ先へと道を進んでいくため、早々に違うと結論付けた。
枝分かれした道を右側へと折れ、そこからまた奥へ向かっていく。
手入れの行き届いた庭を横目に眺めつつ、小さな水路を越えたところで、わずかながら空気が変わったのを翠蘭は敏感に感じ取る。
(間違いない。朱家の候補者が暮らしていた居所は、この先ね)
翠蘭は笑みを堪えきれないまま、後ろにいる明明を肩越しに振り返る。
すると、彼女もしっかりと呪の気配を感じ取ったらしく、怯えた顔で周囲を見回していた。
続けて横に並ぶ煌月を確認する。彼は怪訝な表情を浮かべ、あたりに注意を払っていた。
(明明は相変わらず怖がりね。煌月様は幽魂が見えていないのが不思議なくらい優れた霊力を持っていらっしゃるし。……さて、彼女はどの程度かしら)
前を歩く紅玉の顔が見えないため歯がゆさを覚えたところで、ようやく前方に塀が見えてくる。
ところどころ汚れている塀に沿って進み、切れ目から敷地内へと足を踏み入れると、紅玉が翠蘭たちに向かってくるりと身を翻した。
「こちらが、翠蘭様のお住まいとなります」
居所は先ほど見かけたものよりも幾分小さく、また古びているが、一時の仮住まいとしては十分だと翠蘭は考える。
続けて、雑草の伸びている庭へと視線を移動する。
ゆっくりと見回した後、今は雑草しか生えていないが、元は花壇だっただろう場所で視線を止めた。
(何か埋められているみたいね)
風もないのに雑草が大きく揺れる。翠蘭の目には枯れかけの葉に黒い靄がまとわりついているのが見えていた。
翠蘭が無表情でそれを眺めていると、紅玉が恐々と近づいてきて勢いよく頭を下げた。
「煌月様! 翠蘭様! ……に、庭まで掃除の手が回らず……お見苦しい状態で申し訳ございません。でも必ず整えますので! 少しお待ちください。どうかお願いいたします」
必死に訴えかけてくる紅玉に翠蘭はキョトンとしたあと、煌月と視線を通わせる。
翠蘭はなんとも思っていないが、煌月はそうじゃなかったらしく、庭の惨状に対して不満を露わにしていた。
「荒れ具合から数か月放置されていたように見える。まさか朱家の候補者が入っていた時も、この有り様だった訳ではないだろうな」
煌月の指摘は的確だったようで、紅玉は一瞬で顔色をなくす。
怯えて手まで震え出したのを見て取り、翠蘭は場の空気を変えるように穏やかに微笑んだ。
「私は、庭の掃除など手が空いた時で構いません。……いいえ、むしろしばらくこのままにしておいてくださいな」
翠蘭の含みのある言葉を受け、煌月はそれ以上の追及はやめたが、それでも不満の表情を崩すことはなかった。
紅玉は驚いた顔で翠蘭を見つめたあと、少し戸惑った様子で「ありがとうございます」と深く頭を下げた。
煌月は翠蘭に対し呆れのため息を吐いてから、気を取り直したように居所に向かって歩き出す。
「思っていたよりも建物が古いな。中はどうなっているんだ?」
翠蘭も煌月に続きながら、まるで初めて目にしたかのような彼の呟きに、思わず苦笑いを浮かべた。
中に入ると、小さいながらも厨房があり、女官が使用するだろう小部屋や物置き部屋にも目がいく。
その先もいくつか部屋が連なっており、最奥には寝台も見える。
見た目よりも広く感じる室内は、外と違ってしっかりと掃除が行き届いている様子だった。
「室内の掃除は紅玉が?」
「は、はい。先ほど呼ばれたふたりと一緒に片付けさせていただきました」
「そうだったのね。ありがとう」
紅玉へとにこやかに話しかけたところで、翠蘭の視界の隅を黒い影が掠めた。
(朱家の候補者が辞した後、この居所は祓い清められていないみたい)
煌月は眉をひそめて室内を見回している。彼も影に反応を示しているのに気づいたところで、からからからと外から車輪の音が聞こえてきた。
円形の格子窓の向こうに荷車を引く宦官たちの姿が見え、翠蘭は明明と紅玉に話しかけた。
「荷物を持ってきてくださったみたい。ふたりとも、中に運ぶのを手伝ってあげてくださいな」
翠蘭の求めに応じて、すぐさま明明と紅玉は外へと出て行く。
室内にふたり残されたところで、煌月が神妙な面持ちで切り出した。
「朱家の娘が辞した後、居所を祓い清めておけと命じたのだが、呪は消えていないようだな」
「そのようですね。中途半端に残っております。効果があまり出なかったのか、それとも、あえて残したのか。ええ! そちらの方が面白いですわね。ここは私への挑戦と捉えさせていただきましょう」
至極楽しそうに思考を展開する翠蘭に、煌月は再び呆れの表情を交えつつ続ける。
「報告では、候補者たちの元に悪鬼が現れ始めて、すぐにそれぞれが宮廷占術師を何人も呼び寄せて対処したと聞いている。しかし、朱家は十人という最多の人数を集めたというのに対処しきれず、心を壊す結果を迎えてしまった」
「朱家が集めた宮廷占術師がすべて能無しではなかったとして、それでも打ち勝てなかったとしたならば、誰かの手によって術式が施され、より凶悪な悪鬼を呼び寄せたとも考えられますね」
「そうだとするなら厄介だな」
翠蘭が提示したひとつの可能性に、煌月は小さくため息をついた。そして、改めるように翠蘭と向き合う。
「金家と張家はさらに占術師の人員を増やし、高家に至っては武術の心得がある者までも呼び寄せているらしい。遅かれ早かれ、翠蘭の元にも悪鬼が現れるだろう。李家から連れてきた女官はともかく、あのおどおどした女官は戦力にならなさそうだ。その人数で平気か?」
「私には明明だけなく、心強いお友達もおりますので、なんら問題ございません」
そこで煌月は以前感じ取った黒焔の強力な霊気を思い出したようで、納得するように頷いた。
「最近は、他の三人の候補者だけでなく、父上や母上の元にも悪鬼の影がちらつき始めている。これ以上の被害を出さないように、ここで食い止めたい。頼むぞ」
「承知いたしました」
下された命令に翠蘭は微笑みを浮かべ、優雅に拱手を返す。
煌月は翠蘭の不敵な笑みに、ほんの少しだけ眉根を寄せ、おもむろに問いかけた。
「……やはり既視感があるのだが、俺はお前と、昔どこかで会ったことがあるか?」
瞬時に翠蘭の口元がぴくりと引きつった。
そのまま何も言えずにいると、煌月が「あっ」と思い出したように声を発し、訂正の言葉を紡ぐ。
「あ、いや。すまない。あれは汀州だ。勘違いした。変なことを言ってすまない」
「い、いいえ。私、お兄様に似ているとよく言われますから」
(そんなの一度も言われたことありませんけど)
咄嗟に吐いた嘘に対して心の中で突っ込みを入れつつ、翠蘭は助かったとばかりにこっそり胸を撫でおろした。




