第3話 水曜日 温まるココア
今日という一日は、まさに泥沼だった。
午前中に作った修正案は午後には白紙に戻り、夕方の会議では誰も責任を取らない不毛な議論が二時間続いた。
パソコンのモニターを見すぎて、目の奥がチカチカする。
「……ココア、だったな」
独り言が、冷えた夜の空気に白く混ざる。
駅前のコンビニの自動ドアをくぐり、俺は迷わずレジ横の保温ケースへ向かった。
注文通りのホットココアを二つ。それから、なんとなく目が合った「肉まん」を二つ。
昨日のエクレアも良かったが、今夜の冷え込みには、手のひらに伝わる直接的な熱が必要な気がした。
いつもの公園。いつもの街灯の下。
ベンチには、やはりあのパーカーの影があった。
今日は心なしか、いつもより背中を丸めて、小さくなっているように見える。
「……待たせたか」
声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
フードの奥、少しだけ潤んだような瞳が俺を捉える。
「おじさん……。本当に来た」
「約束だからな。ほら、ココアだ。火傷するなよ」
カップを手渡すと、彼女はそれを両手で包み込み、「あは……あったかい」と、凍えていた心を解かすような吐息を漏らした。
俺も隣に腰を下ろし、自分のココアの蓋を開ける。
甘い、どこか懐かしい香りが鼻腔をくすぐった。
「あと、これも。夕飯まだだろ」
差し出したのは、紙に包まれたアツアツの肉まん。
「えっ、肉まん? 嬉しい……」
「半分にするか? ……あ、いや、一人一つあるから遠慮しなくていい」
「ふふ、おじさん、食いしん坊ですね」
彼女は小さく笑って、肉まんを割った。
中から真っ白な湯気が立ち上り、彼女の顔を優しく包み込む。
「……ねえ、おじさん」
「ん?」
「今日ね、すっごく眩しいところにいたんです」
彼女は肉まんを頬張りながら、遠くの暗闇を見つめた。
「ライトがいっぱいあって、みんなが私の名前を呼んで、笑って。……でも、終わったあとに鏡を見たら、自分が誰だか分からなくなっちゃって」
それは、普通の女の子が抱える悩みにしては、少しだけ重い響きを含んでいた。
俺には、彼女がどんな世界で戦っているのかは分からない。
けれど、この街灯の下で肉まんを食べている彼女が、一番「本当」に近いところにいるような気がした。
「……俺も似たようなもんだよ」
俺はココアを一口飲み、言葉を繋いだ。
「会社じゃ『課長代理』とか『担当者』とか呼ばれるけど、俺という人間を見てる奴なんて一人もいない。みんな、俺が座ってる『椅子』に用があるだけだ」
彼女が、じっと俺の横顔を見る。
「でも、ここならただの『おじさん』だ。君も、ただの『パーカーの君』でいい。名前も肩書きも、この公園の入り口に置いてくればいいんだよ」
静かな沈黙が流れた。
気まずい沈黙じゃない。
ココアの熱を、肉まんの温かさを、ただじっくりと味わうための時間。
「……おじさん、たまに良いこと言いますね」
「たまに、は余計だ」
彼女は最後の一口を飲み干すと、ふぅーっと長く、白い息を吐き出した。
その顔には、先ほどまでの曇りは消えていた。
「よし、元気出た。……おじさん、明日はね」
「まだ注文するのか?」
「……おじさんの、好きなものがいいな」
彼女は少しだけ体を俺の方に傾けて、いたずらっぽく笑った。
パーカーの袖が、俺のスーツの袖に一瞬だけ触れる。
「私が知らない、おじさんの『一番おいしい』を教えて」
「ハードルを上げるな。……気が向いたらな」
立ち上がって歩き出した彼女の背中を見送りながら、俺は冷めかけたココアを飲み干した。
明日の仕事は、今日より少しだけ、うまくやれる気がした。




