◇番外編③◇推しとは (〜グラヴィス視点 〜)
あれは、ジェニエットがジュリアを産んで間もない頃のことだった。
昼下がり、執務室で書類を整理していると、控えめなノックの音がした。
「……グラヴィス様。少し、お話してもいいですか?」
声の調子がいつもと違う。
どこか思い詰めたようで、私は椅子から立ち上がり、彼女を招き入れた。
「どうされました? 体調のほうは――」
「ううん、違うんです。あの……聞いてほしいことがあるんです」
ジェニエットは深呼吸をひとつして、妙に真剣な顔で続けた。
「私、実は――転生者なんです!」
……転生者?
一瞬、耳を疑った。
(転生者……? どこの地方の言葉だ? 新しい病気の名だろうか?)
「ずっと言えなくて……私はジェニエットではあるんだけれど、もう一つ“別の人格”があるんです。もう一つの世界にいた“カナデ”って女性で、その世界ではこの世界が“物語”になってて……それで、その登場人物の“貴方”を推してて……気づいたらジェニエットになってて……うーん、うまく説明できないわ!」
頭を抱える彼女を前に、私は言葉を失った。
(……産後で疲れているのかもしれない)
そう考えながらも、泣きそうな瞳を見れば、冗談とも思えなかった。
「とりあえず、落ち着いてください。ゆっくり話を聞きますから。」
そう言うと、ジェニエットはほっとしたように微笑み、
自分がこの世界に来た経緯を、たどたどしくも一生懸命語ってくれた。
それは、夢ともおとぎ話ともつかぬ奇妙な話だったが――
不思議と、私は信じられた。
彼女が突然、私に強い好意を向けるようになった理由も、ようやく腑に落ちた。
「……嘘だと思う?」
ジェニエットは怯えたように私を見上げる。
「真実だとしても、全部がジェニエットではない私じゃ……嫌?」
私は小さく息をつき、微笑んだ。
「信じます。そして――たとえ、あなたが“全部ジェニエット”でなくとも。
今のあなたを、私は愛しています。」
ジェニエットの表情が一瞬で明るくなり、
春の光のような笑顔が咲いた。
「話せてよかった! 推しにずっと嘘なんてつきたくなかったんです!」
……おし?
(また知らぬ言葉が出てきたな)
「……ところで。先ほどから言っている“おし”とは、何のことですか?」
その瞬間、ジェニエットの目がきらりと輝いた。
「えっ!? 説明しちゃっていいんですか!? “推し”っていうのは――!」
そこから始まった“推し講義”は、それはもう長かった。
「尊い」とか「供給」とか「解釈一致」とか……新しい単語が洪水のように押し寄せ、私は途中からただ頷くことしかできなかった。
(……私は宰相だ。しかし理解できぬ語が多すぎる……)
結局、推しの真意を掴めぬまま日が暮れた。
だが、数年後――。
「父上〜! 私のおしは、今は父上よ!」
五歳になったジュリアが無邪気に笑いながらそう言ったとき。
ジェニエットがくすくすと笑う姿を隣で見て、私はようやく悟った。
(……“推し”とは、心から誰かを想うこと、なのかもしれない)
二人の笑顔を眺めながら、私はそっと微笑んだ。
――それなら、私の“推し”もきっと、ずっと前から決まっていたのだ。
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この家族の空気を、読んでくださった皆さまにも感じていただけていたら嬉しいです。
次回ジェニエットの母・アマデル皇妃の若き日のお話です。前編、後編となります。
どうぞお楽しみに✨




