【第15話】ベールの向こうに潜む影
婚礼から数日――私は宰相であるグラヴィスの屋敷へと移り住み、夢のような日々を過ごしていた。
朝は同じ寝台で目を覚まし、彼の指先が髪を撫でる感触で一日が始まる。
昼は書斎に顔を出しては紅茶を淹れ、夜は二人きりで静かに語らう。
どれも当たり前のようでいて、かつての私には決して手に入らなかった“幸せの形”だった。
――けれど、その穏やかな日々は永遠ではなかった。
まるで“物語の強制力”が再び糸を引くように、運命が静かに軋みを上げる。
隣国ナグラートより、使者がやってくるという報せが届いた。
その名はアルフォンス第三王子(19歳)
外交の名目で、宰相邸にて晩餐をもてなすことが決まったのだ。
(アルフォンス……。原作では、あの人が“悲劇”の原因のひとりだったっけ……)
胸の奥が、ひやりと冷たくなる。
けれど、宰相夫人として応対を怠るわけにはいかない。
私は顔を見られぬよう薄いベールをまとい、慎重に彼を迎えた。
食堂の扉が開き、黄金の髪と瞳を持つ青年が現れた。
一目で“王族”と分かる気品をまとい、まるで陽の光をそのまま形にしたような男。
だが、噂では既に三人の妃を持つ放蕩王子だという。
(ハーレムとか、ないわぁ……。
私は皇女だから、私以外を娶るのは禁止なんだよね。
あぁ、ほんと、皇女でよかった……)
そう心の中でつぶやきながらも、笑顔で杯を捧げる。
――その瞬間、事件は起きた。
「……!」
ベールを留めていた金具が、ふいに音を立てて外れたのだ。
ひらりと布が舞い、視界が一瞬にして明るくなる。
光の中、金の瞳がまっすぐこちらを射抜いた。
アルフォンス王子の口元が、ゆっくりと動く。
「……美しい。」
その一言が、場の空気を凍りつかせた。
沈黙の中で、グラヴィスの瞳がわずかに光を宿す。
「アルフォンス王子。女性をそのように見つめるのは、この国では無作法です。
――妻を、あまり見つめないでいただきたい。」
低く、静かな声音。
けれど底には、深淵のような怒りが潜んでいた。
それに気づいたのか、アルフォンスは軽く笑みを浮かべて言い訳をする。
「すみません。あまりの美しさに、つい――」
その瞬間、グラヴィスの指が膝の上でかすかに震えた。
普段は決して感情を見せない人が、嫉妬を隠しきれずにいる。
(グラヴィス……可愛い……)
「……ジェニエット様。先にお部屋へお戻りください。」
穏やかにそう告げられ、私は素直に従った。
扉を閉める直前、ふと振り返ると――アルフォンスの金の瞳が、なおも私を追っていた。
(これが、“物語の強制力”ってやつ? 本当、勘弁してよぉ……)
部屋に戻ると、ほどなくしてグラヴィスが姿を現した。
「急にご退席させてしまい、申し訳ありません。ただ……あの男の目が、どうにも気に入らなくて。」
その声音には、かすかな嫉妬の熱が混じっていた。
私は微笑み、彼の頬に手を添える。
「心配しなくても、私にはグラヴィス様だけですわ。」
彼は一瞬、息を呑み――やがて、穏やかな微笑みを浮かべた。
「……今日も貴方を感じたい。よろしいですか?」
「もちろん。でも……アルフォンス王子が滞在中ですよ?」
彼はふっと笑って、少し冗談めかして囁く。
「ならば――聞かせてやればいい。」
「それは嫌です!」
思わず吹き出すと、彼も照れたように視線を逸らす。
そんな仕草が、胸の奥をくすぐった。
けれど――翌朝。
メイドが一通の封書を差し出した。
淡い香りを纏った封蝋、丁寧な筆跡。
送り主は、アルフォンス王子。
中を開けば、そこには――
『貴女の瞳が、私の心を離さない』
そう記された恋文が、静かに私を見つめていた。




