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「アイナ、体調はどう?」
リュウイチがそう優し気な声を出して、アイナの部屋の扉を叩いたのはそれから間もなくのことであった。
アイナはベッドから飛び跳ねると、慌てて戸を開けた。
「ダメ! 全然ダメ! 今日も朝っからずーっと、ここで寝てたの! ずーっと!」唾をぺっぺと吐き出しながら、盛んに捲し立てる。
「そ、そうなの。」
とはいえ、随分元気そうである。
「だから、お部屋から全然出てないし! だって、ずっと寝てたんだから!」
「そう? でももうインフルの薬飲んで三日目だろ? そろそろ熱下がってもいい頃なんだけどな。」
「そう? そうなの? ……じゃあ、熱は下がった。」
「なんだよそれ。」
リュウイチは呆れつつ、大きな手のひらをアイナの額に置いた。
「やっぱり。全然熱ないじゃん。」
「熱はなくても、寝てたの!」
「……大丈夫だよ。」
アイナはぎくりとしたように、目を見開いた。
「俺の親はおやっさんだけだから。母親はいない。それに、ここを出たらリュウイチと住むんだ。アイナが安心して来られるように、高校出るまでにはお金を稼いでアパートを借りておくよ。」
アイナの双眸がじんわりと滲み始める。
「……ママの話、聞いたの?」震える声で尋ねる。
「大丈夫。何にもアイナが心配することないよ。」
アイナは両手を突き出し、そのままリュウイチに抱き着いた。リュウイチの背は高く、アイナは抱きしめてあげようとして、ただ自分がしがみつくだけの形になったことを不満に思った。
「アイナもママは嫌いなの。いっぱい虐められたから。」
「そうか。」
「でもここへ来て、リュウイチもリュウジも溝口さんも、みんなみんな優しくしてくれたから、幸せだよ。ママもパパもいらないぐらい。」
「俺もそうだよ。」
「東京で待っててね。アイナ、こっちでいっぱい勉強して、数学とかも苦手だけどちゃんと頑張って、そしてお店で働けるように賢くなって、それから、東京に行くから。」
「そうだね。」
「リュウイチはその頃もうお医者さん?」
リュウイチはくすりと笑んで、
「お医者さんの学校は人より長く行かなくちゃいけないんだ。だからまだ学生やってるよ。」
「そう。」アイナは視線を彷徨わせ、「その頃リュウジはどうしてるかな?」と問うた。
「リュウジは立派なギタリストになってるよ。もうなってるけど。」
「そうなの! やっぱり!」アイナはぱちんと手を叩いて飛び上がった。「リュウジは立派なギター……、ギタリストでしょう? だってこっちにいた時から、ギターはリュウジの体みたいだったもん。」
「そうだよ。だからアイナも立派なお花屋さんになるために、勉強を頑張らなくちゃいけない。もう俺は傍について教えてあげることはできないけれど。……大丈夫だね?」
「大丈夫。」明るくきっぱりとアイナは答えた。
「でも、手紙を書くね。リュウイチとリュウジに。お返事頂戴ね。」
「ああ。返事も書くし電話もする。アイナが寂しがることはないよ。」
「うん。」
そう言って俯いたアイナの震える睫毛を眺めながら、リュウイチはふと今更ながら随分大きくなったものだと思った。もう体が小さすぎる、細すぎると健康診断で指摘されることもなくなったし、勉強面でもそこそこの点数を取ってくるようになった。その成長過程は人よりも遅かったけれども、そしてそれは今後平均値に達することもなかろうが、それでもアイナが一生懸命に生き、そしてこれからもそう生きようとしている様は国内最高峰と呼ばれる大学の学生になるリュウイチにとっても、大きな力を与えてくれるのであった。いつか自分が医師になったら……、アイナのような子供たちに貢献するのもいいかもしれない。そんなことさえ思いなした。
いよいよリュウイチが施設を発つ日、他の職員たちと共にバス停まで見送りに出たアイナは小さな紙袋をリュウイチに寄越した。
「なあに? これは。」
照れながらアイナは「プレゼント。」と呟く。
「プレゼント?」
「今まで、リュウイチが優しくしてくれたから。」
はなむけの贈物だと気付き、リュウイチは「開けてもいい?」と問うた。
アイナはそっぽを向きながら小さく肯く。
リュウイチはそっと何の封もされてない紙袋を開いた。するとそこには木製の額縁に入った写真があった。
--そこに映っていたのはリュウイチとリュウジとアイナの三人。しかし彼らはあまりにも幼く、アイナに至ってはまだ指しゃぶりをしている有様であった。しかしこの場はどこであろう。施設やその周辺ではない。
「うわあ、凄い昔のだ。」
アイナは口元を綻ばせると、「アイナがここに来たばかりの頃。A動物園に遠足連れてって貰った時のやつ。初めて三人でお出掛けした時の。」と、口早に捲し立てた。
「そうだそうだ! どこかと思った!」リュウイチは思わずはしゃぎ、職員たちも懐かしそうにそれを覗き込んだ。
「アイナ、よくこんなの持ってたねえ。」
「随分古いデジカメでしょう。これ。」職員たちが次々に口にする中、
「何で? 俺が持ってっちゃっていいの? アイナが部屋に飾っておけば?」リュウイチは心配そうに問いかけた。
「いいの。」
「……何で?」
「だってアイナもすぐ東京行くんだもん。だから、それまで、一番いい所に飾っておいて。」
「……わかった。」アイナの目に宿った決意、らしき輝きにそう答えずにはいられなかったのである。
「毎日リュウジも俺も、目に付くところに飾っておくよ。」
満足げにアイナは微笑んだ。
「でも、よくこんなの持ってたな。十年以上前のだろう。」
「だって大事なものだから。」当然とばかりに胸を張って答える。
「そっか。」
「だって、アイナの幸せのはじまりだから。」アイナはそっと目を閉じた。
リュウイチはその時上京するに当たって初めて、胸中に一抹の寂しさが通り過ぎるのを感じた。後になって思えば不思議なことであったが、この時初めて自分がここを出るということを実感したのである。怒涛の受験勉強、悲願の合格後はバイト、とゆっくり自分の今までを振り返る間もなかったのだから仕方がないかもしれないが、それはとても迂闊なことにも思われた。そして最後の最後でそれに気づかせてくれたアイナに、込み上げるような感謝の念を覚えた。それを何という言葉で表現していいのか逡巡している内に、バスがやって来る。目の端に入ったそれが滲んでいるのを、リュウイチはどこか他人事のように眺めていた。




