55
翌朝、リュウイチは頬を固くしたまま階下に降りてきた。
弁当作りのために既に台所で忙しなく働いていた女将も、その様を見て緊張感に身を固くする。
「おはよう。……寝られたのかい?」
「はい。お蔭様で。」
「お弁当もうすぐ作り終わるからね。朝ごはん出来てるから、お食べ。家は八時に出れば間に合うんだろ?」
「はい。すみません。」
店の掃除に精を出していたリュウジも、慌ててやってくる。
「リュウイチ、寝れたか? 大丈夫か?」
「ああ。弁当まで、作ってくれて。……コンビニで買って行こうと思ってたのに。」
「ダメだよ、そんなんじゃ。……あ、ほら、リュウイチ、一緒にこっちで朝ごはん食べちまいな。」
リュウイチとリュウジはダイニングテーブルに腰を下ろすと、言葉少なに旅館の朝食のような、シンプルながらも心尽くしの和食に舌鼓を打った。女将が二人分のお茶を淹れながら、「大丈夫だよ。頑張って勉強してきたんだから。自信もっておやり。」とリュウイチに語り掛ける。
リュウイチは噛み締めるように、大きく肯いた。温かな湯気が顔をくすぐる。
「周りのことだの後先のことは考えなくって、いいから。精一杯おやり。あんたのたった一度の人生だよ。」
「ありがとうございます。」
リュウイチもこんな風に緊張することがあるのかと思えば、リュウジも自ずと身の締まる思いがした。そこにガラガラと慌ただしく店主がどこからか戻ってくる。
「あー、ただいま、ただいま。間に合った。リュウイチ君。」
突如呼ばれてリュウイチは箸を置いた。
「飯食ってる所済まんな、これ、合格祈願のお守りだ。持ってってくれ。」
「あんた、どうしたのさ。こんな朝早い時間に。」
「いやあ、昨日マサさんが餞別くれてやってんのに、俺は何もしてやってねえって思ってよお、裏のT寺の住職に電話したら特別に出してやるって言ってくれてな。今、取ってきたんだ。学業成就のお守り。」
「まあ、あんたったら朝っぱらから迷惑かけて。」
「大丈夫、大丈夫、今日も小蔵さんと境内の掃き掃除やってたしな。ほれ、リュウイチ君、これ持ってってやってくれ。」
「ありがとうございます。」リュウイチは丁寧に両手で、その小さな紙包みを受け取った。
「特別よく効くのくれって言ったかんな。ま、でも優秀なリュウイチ君のことだ、あんまいらねえかもしんねえけど、まあ、とにかく頑張ってくれ。」
リュウイチは照れたように微笑んだ。
「ほら、しっかりご飯食べて道間違わないように行くんだよ。リュウジ、しっかり確認しながら行くんだからね。」
「大丈夫だ。こっから一本だしな。」
二人は見つめ合いながら、飯を残らず腹に収め、そして家を出た。相変わらず見送りなんぞいいと言うリュウイチを説き伏せ、リュウジが先導し、切符を買ってやり、満員電車に乗り込んだ。リュウイチは前後左右から赤の他人に圧されるという初めての経験に目を白黒させていたが、しばしばリュウジに「大丈夫か。」と確認をされながら、どうにか目的の駅に到着した。
そこから、他の受験生たちと連なるようにして十分も歩くと、大学があった。堅牢そうな門が、おのずとリュウジの足を止めた。
「じゃあ、マジで頑張ってくれよ。」
「ああ。ありがとう。」
ふふふ、とリュウジは笑う。
「親父さんにも、女将さんにも、本当に世話んなって。」
「ああ。本当の父ちゃん母ちゃんみてえだよな。」
リュウイチは胸中にその暖かな単語を反芻してみた。それで不思議と朝から不穏に打っていた鼓動がはた、と静まった。リュウイチがいて、自分の好きな食べ物を朝昼夜と拵えてくれ、自分のことを案じて朝から走り回ってくれる両親がいるという想像は、ひどく幸福でじんわりとした温かみが身体中に広がっていくようであった。リュウイチは安堵のため息さえ吐くと、リュウジに手を振り堂々とした足取りで門の中へと入っていった。リュウジはその後姿が消えてもなお、しばらくそこに立ちすくんでリュウイチの勝利を祈っていた。
その夕方、リュウイチは朝とは打って変わった、実に落ち着いた足取りで帰宅をした。それはリュウジのよく知っているリュウイチであった。リュウイチは女将に弁当の礼を述べ、店主にもお守りと宿泊の礼を言った。もう一晩宿泊し、明日の朝、新幹線に乗って帰るのである。
「……にしても、リュウイチ君は生真面目な子だね。弁当箱一体どこで洗ってきたのさ。」女将は台所で、綺麗に洗われた弁当箱を呆れながら見詰めた。
「い、いや……大学のトイレで。」
「そーんなこと、気にしなくっていいのに! 冷たい水で男の子が弁当箱洗ってたんだと思うと、可哀相になっちまうよ!」
「リュウイチは昔っから、真面目なんですよ。それはもうしょうがない。」
「それにしたって。」女将は首を傾げながら、そのまま弁当箱を食器棚に片づけた。
「そういやあ、合格発表ってえのはいつなんだ? またこっち来るのか?」店主が茶を啜りながら言った。
「来週なんですけど、郵送を待ちます。さすがにそんなにしょっちゅうこっち来るのは、お金も手間もかかるんで。」
「そっか。俺、番号教えてくれれば見に行くよ?」リュウジが言った。
「いいって。リュウジだって、高校の課題もバンドもバイトもあるんだからさ。俺のことばっかで手間暇かけさせられないよ。」
「何言ってんだよ、そんぐれえ、大丈夫だって! 番号教えてくれよ! おい!」
リュウイチは仕方なしに受験票をカバンから取り出した。リュウジはそれを引っ手繰るようにしてスマホで写真を撮ると、「じゃあ、合格発表行って見てきてやるよ。そしたら電話すっから。」と言った。
「ああ。でも、心の準備がなあ。電話、出れないかもしれない。」
「何気弱なこと言ってんだよ。今日はばっちりだったんだろ?」
リュウイチは遠い目をして暫く黙した。
「……自分なりには、できた気がするけど、何せ周りは秀才ばっかりだから。」
「何言ってんだ、俺はリュウイチ以上の秀才なんざ見たことねえや。」
リュウイチはさすがに受験前よりは随分リラックスした様子で、女将が心尽くしに拵えた夕飯を、三人と同じ食卓についてあれこれ尋ねながら食べた。
時折、もし大学受験に失敗したら、などと言い出すのを三人は笑いながら諫めた。それよりもリュウイチが高校でいかに優秀であったかという話を聞きたがった。リュウイチは無論自慢するような話は苦手であったが、リュウジに請われると恥ずかし気に話をした。
定期試験では毎度上位十名以内で、賞品である図書カードを毎度貰っていたこと、それで問題集を買えたので高校受験よりは教材に恵まれていたということ、先生方もさすがに県下ナンバーワンの進学校ということもあり、非常に教育熱心な方ばかりで、T大の過去問を分析し尽し、授業中に行った予想問題がかなり的中したということで、もし、万が一にも、T大に合格するようなことがあれば、それは学校の教師陣のお蔭だ、ということを言った。
「そういうところがねえ、リュウイチ君のいい所だよ。」それまでしきりに頷いていた女将が、ため息交じりに言った。
「なかなかねえ、自分の成功体験を人のお蔭だって言い切れる人はいないからね。うちにも色んなお客さん来るけれど、なんだかんだ言って最後まで人に必要とされている人っていうのは、周りにちゃあんと感謝のできる人なんだよ。リュウイチ君は立派だよ。もっともっと立派になるよ。」
「いや、そんなこと……」
「たしかに、そうだな。一時は社長だなんだって持て囃されても、そこにふんぞり返って身を持ち崩す人ってのは、よくいる。どんな立場でも、感謝は忘れちゃいけねえ。」
リュウジはその言葉を聞きながら、自分も生涯、この夫婦に対する恩を忘れるまいと思った。
「でも、本当に、自分なんかは親にさえ捨てられた人間ですから。」
「そんなこと考えるもんじゃないよ。」ぴしゃり、と女将が言い放った。「親にどんな事情があったかもわからない。リュウジだってそうだったじゃないか。お母さんは交通事故で、お父さんだって病気で仕事も大変で、それで、育てられなかったんだ。リュウイチ君ちの親御さんだって、どんなことがあったのかわからない。それに、こんないい子で、賢い子だとわかったら、きっと育てたかったって思うに違いないよ。賢くなくたって、多少悪ガキだって、そうさ。そんなもんだよ。」
リュウイチは気弱な笑みを浮かべると、「そうだったら、いいな。」と独り言ちた。リュウジはそれを聞きながらいたたまれなくなった。そしてリュウイチが絶対に大学に合格し、誰からも必要とされる医者となれることを痛切に祈った。




