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食事を終え、部屋に戻り、シャワーを浴びてベッドに寝転んではみたものの、リュウジはなかなか寝付かれなかった。自分はこれから社長に対してどうしていくべきなのか。今まで通りバンドに興じ、曲を作り、そしてライブをする。それは変わらない。変わっては、いけない。けれど、社長は自分にどうしてほしいのか、わからなかった。父親、という人への接し方は今まで誰からも教えて貰ったことはなかった。
その時である。チャイムが鳴った。リュウジは訝りながらも、店主か女将かがやって来たのではないかと思い、ドアを開けるとそこにいたのは社長であった。
リュウジは目を瞬かせたまま、身を固くした。
「済まん。寝てたか。」
「い、いや、起きてました。」
「少し、話をしたいのだが、いいか。」社長の苦渋に満ちた表情に、断る術なんぞ持ち得るはずがない。リュウジは部屋へ招き入れ、ソファに座らせた。
「いいホテルですよね。すんません、こんないい所、取って貰っちゃって。」
リュウジはそう言って備え付けのポットから、茶を注いだ。それをそっとテーブルに出す。
「……済まない。リュウジを困らせたくは、なかったんだ。」
「え。……何言ってるんすか、俺、何も困ってはないですよ。こんな風にあれこれ気遣って貰って……。」作り笑いを浮かべる。
「今までバンドの関係者だった人間が、急に父親だなんて言われて、思考を整理する時間もなく真実を突きつけられ、……これ以上困ることもないだろう。」
「……いや、それは、……まあ。」さすがにリュウジは肩を竦めた。
「案じないでほしい。私は今まで通り君のバンドを支える、一人の人間であって、それ以上のことを要求するつもりはない。」
リュウジは体中の力が抜けるのを感じる。
「でも、もし何か困ったことがあれば言ってほしい。」
「別に、何も困ってなんかないです。親父さんと女将さんが親切にしてくれるし、アレンもいい奴だし。」
「そうか。そうだよな。」そう呟く社長の姿があまりに弱々しく、リュウジはふと、「あの、俺の母親って人のことを聞いても、いいですか。」と言った。
社長は驚いたように顔を上げてリュウジを見つめた。
「いいのか。」
「いいのかって、……写真、もう一度見てみたいな。」さすがに視線もやらなかったとは言い出せなかった。
社長は唇を震わせながら、胸ポケットから写真を取り出した。そこには若い女性が赤子を抱いて微笑む姿が映し出されていた。
「綺麗な人だろう。」
「そうですね。」化粧もしていないのであろう、しかし長い髪を横に束ねただけの姿は美しく輝いていて、十数年前というのに古ささえ感じさせなかった。
「リュウジに似ている。リュウジは母親似だな。」
そう言われてみればそんな気もしてくる。リュウジは目を細めて写真を見つめた。
「君のお母さんは、……君のことを誰よりも愛していたよ。初めての子で、……君がお腹にできたと分かった時には、感極まって泣いていた。私も釣られて泣いたがね。ずっと子どもが欲しいと言っていたんだ。正直、……私は君のお母さんがいてくれれば、子どもは別にいいとも思っていたんだけれど、だんだん妻のお腹が大きくなるにつれてね、こう、君と出会えるのが楽しみでならなくなったよ。妻は毎日靴下編んだり、おくるみ編んだり、とにかく君の誕生を楽しみにしていたからね。それから、二人で一番いい名前を付けようと毎日のように話し合ったよ。それで、男の子だったら私の名前から一字を取り、女の子だったら君の名前から一字を取ろうと約束したんだ。それで、生まれてみたら男の子で。それで、私の名前に、妻のお父さんの名前を合体させて、竜司と名付けた。お母さんは、目に入れても痛くないという程に、大層可愛がっていたよ。泣いても、笑っても可愛いんだって。私が仕事に出てからベランダに君の小さな服を干すのだって、幸せで仕方がないと言っていた。あの時は本当に幸せだった。休みの日には近くの公園に行き、ああ、花見もしたなあ。」
リュウジの脳裏には満開の桜の下、ベビーカーを覗き込む夫婦の顔が思い浮かんだ。
「俺、……それ、覚えてる。」
社長は口をぽかんと開いた。
「前言ったでしょう。火傷をした時、急に赤ちゃんだった頃の記憶が蘇ってきたんだ。もしかしたら、記憶じゃないのかもしれないけれど、満開の桜の下、ベビーベッドをあなたと、お母さんが覗き込んだ。」
「……。」
「火傷をしたのも、覚えてる。テーブルの下を俺がハイハイしてた。そこで柱にぶつかって、……柱なのかな、もしかしたらテーブルの脚なのかもしれない。でも、俺が調子ん乗ってハイハイしてて、そこにぶつかって、熱湯を被った。」
震える唇がどうにか、言葉を紡ぐ。
「そうだ。テーブルに置いてあったポットがひっくり返ってしまって、それから全てが悪い方向へと進んで行ってしまったんだ。お母さんは自分のせいだと言ってひたすら自分を責めた。人を責めるようなことは発想だってできない人だったよ。私がコーヒーを飲むのに使ってたポットなのに。私が、急いで仕事に出てしまって、そのままにしてしまったのに。私を一言だって責めなかった。責めて、くれなかった。優しい人だったよ。……リュウジはそんなお母さんの気質を受け継いでいるのかもしれない。」
「社長だって、十分優しいじゃないですか。」
「私は、……妻を追い出した母親を恨んだよ。今も恨んでいる。そういう人間だ。こんな人間なのに、妻は私のことをいつも労わってくれた。本当に優しい人だったんだ。」
「どっちから、プロポーズしたの?」
「ふふふ、私だよ。何度したかわからない。」
「そんなに断られたの?」
「大学時代に会ったからね。最初は学食とか、大学構内を散歩するとか、そんなデートで。毎回結婚してくれと言っていたから、妻も本気だとは思わなかったんだろうな。卒業してからね、とか、就職してからね、とか、そんな風にかわされ続けていたんだよ。」
「大学が、一緒だったんだ。」
「そう。私が大学の文化祭の責任者をしていてね、昔からお祭り騒ぎが好きだったんだよ。それで、……妻が茶道部の部長をしていて、代表として何度か話をしている内に、まあ、私の一目惚れだ。」
「美人だから?」
「あはは、それも大きいな。でも、内面を知る内に見た目よりも、しっかり者で、責任感が強くて、でも感動屋で、優しくて、そんな所にとても魅力を感じてね。彼女と出会わなければあれ程大学時代に勉強も、バンドも、それから就職活動も頑張ろうとは思わなかったろうな。」
「応援してくれたんですか。」
「というか、……好きな女性にはいいところを見せたいじゃないか。まだ、リュウジにはそんな思いを抱いたことは、ないかな?」
リュウジは口を噤んだが、ふと脳裏にアイナの笑顔が広がっていった。
「少しでもいいところを見せたくてね、時には背伸びをして早く妻として娶れるよう、自分なりに頑張ったよ。本当に、素敵な人だったんだ。不幸なんて少しも似合わない、そんな人だったのに。」社長はそう言って俯き、肩を震わせた。「私が不幸に追い遣ってしまった。」
「でも、だからといって幸せな結婚生活がなかったことになる訳じゃあ、ないでしょう?」
「え。」
「幸せだった日々は確実にあった、それでいいじゃないですか。いつか社長が天国に行った時、そんな風にしてたら怒られるんじゃあないですか? せっかく出会えた息子の前でメソメソしてちゃあ。かっこつけにもならない。」
社長は目を瞬かせる。
「いつか息子のバンドは大きくなりますよ。だってアレンがそう言ってるもん。俺の曲があれば無敵なんだって。だから、その日まで支えて下さいよ。俺ら、もうセカンドアルバムだって考えてんですから。ね。そしたらお母さんのお墓参り一緒に行きましょう。こうやって親子仲良くやってますからって。そう言えば少しは安心できるでしょう? でも、高校出るまでは俺、親父さんと女将さん所で働かせて貰います。そういう約束で上京さして貰ってるから。」
社長は俯いたまま頻りに肯いた。
「……ありがとう。俺はやっぱりアイカに救われるだけの人生なんだ。」
「アイカ?」
「お前のお母さんの名前だよ。名前の通り、愛情深く花のように美しい人だったよ。君が女の子だったら、アイナと名付けるつもりだった。」
リュウジは息を呑んだ。




