35
社長もセールスはもとい、レコーディングで己が未熟さを痛感し、一層練習に尽力することとなった四人の変化を喜んだ。
社長はあれから度々よし屋を訪れ、常連客となりつつあった。店主や女将は勿論のこと、リュウジとも音楽だけに終始しない様々な会話を交わすようになり、自ずとメンバー内では最も社長に近しい関係性を築くこととなった。
「いっつもありがとうございます。」リュウジはそう言って、社長に氷水とおしぼりを出す。
「新譜の売れ行きも順調で、良かったな。」
「社長のお蔭ですよ。本当に色々な人に俺の曲聴いて貰えて、俺マジで上京して来て良かったって思って。」
「そうか。そりゃあ良かった。親父さんや女将さんも、いい人たちだからな。リュウジは才能にも人間関係にも恵まれてるよ。これを巧く賢く使っていかないとな。」
「あっははは、社長はお上手ですな。じゃ、これサービスで。」店主はそう言って小鉢のおひたしを出した。
「いやいや、そんなつもりじゃあ。」
「いえいえ、リュウジも毎日楽しそうでこっちも嬉しいんですよ。うちじゃあ、実は今までも何人か施設からお子さん預かってってやってきたんですが、こっち来て、私らとは楽しくやれても、なかなか一般家庭のお子さんとは仲良くなれない子も多かったんで、リュウジのことも内心では心配してたんですよ。なのにこっち来てすーぐ、友達もできて、こうして音楽でも後ろ盾になってくれるような方まで現れて……。ありがてえったらねえです。」
「そうだねえ。」奥の座敷から女将も応戦する。「まあ、この辺は閑静さもあるけど、リュウジたちが育ったところは本当に山の中だから、都会の風に会わなかったら可哀想だとも思ってたんだけど、そんなこと全然なくってさ。毎日こうして楽しそうに店も出てくれるし、それでお客さんにも随分可愛がられてるんですよ、リュウジは。」
「そうそう。こないだなんて、常連さんからこいつ、何だか随分かっこいい運動靴貰ったんですよ。ボロいの履いてたから、なんつって。」
「あれは、たまたまボロかったんですよ。新しいのもちゃんと、持ってるし。」
「好かれる子ですよね。」社長は氷水を呷って言った。
「そうなんですよ。」女将は嬉し気に甲高い笑い声を発した。「アレン君もそれからヨシ君、キョウヘイ君も、みんないい子で。類は友を呼ぶってね、あれ本当ですよ。」
リュウジは照れ隠しにそそくさと厨房に戻ると、にわかに皿洗いを始める。
どうも褒められるのは苦手である。施設にいた時に、優等生のリュウイチが成績優秀だ、品行方正だといっては褒められしていたのに対し、自分は悪戯と自分勝手ばかりやらかして叱られ続けていたことが影響しているのかもしれない。自分はそういう、誰かの引き立て役でいた方が楽なのだ。
「施設の子たちからも、よっく手紙が来てるんですよ。なかなか今時そんなことできないですよ。よっぽど慕われてたんでしょうねえ。」女将はリュウジの恥ずかしさなどお構いなしに話を続ける。
「……あのさ!」意を決してリュウジが言った。「リュウイチもアイナも、兄弟みたいなもんだから。施設には育てられないだけで親がいるっていう子もいるんだけど、俺ら三人は親がいなくってさ、面会も外泊も何もなかったから、余計に仲良くなったんだ。それだけ。」
社長はリュウジを見遣った。
「親が、ないのか……。」
「否、ないかあるかはわかんねえです。教えて貰ってねえだけで。でも見たことも聞いたこともねえから、まあ、いないんだろうなって。」
「でもちゃんと高校卒業できたら、親御さんのこと、教えて貰えるんでしょ。」女将が言った。
「ううん、そうだろうけれど、別に、……今更どうでもいいよ。」
女将は手を拭き拭き厨房にやって来て、
「でも、……生みの親っていうのは世界にたった一人だし、その人がいなかったらリュウジが今やってるような楽しいこともできなかった訳だから、私としては教えて貰えるもんなら教えて貰った方が後々にもいいんじゃないかって思うんだけどねえ。」
「どんな親かっていうのにもよるだろ。」店主が苦虫を噛み潰したような顔をして言った。「会って金無心されたり、迷惑掛けられた子ってのも、いたかんな。」
「そう、だけど……。」
女将は困惑したように首を傾げる。
「でも、死んじゃってるかもしんねえし。昔いたんだ。施設にいた時にさ、ずっと何となく親が生きてると思ってたのに、実はその子がまだ赤ちゃんの時、とっくの大昔車で事故に遭って両親死んじゃってたって子がさ。高校出るって時にそれ、教えられて大泣きしてたよ。俺もその口かもしれないし。わかんないけど。」
「そうかい……。」女将はぼそりと呟く。
「ま、でも俺はこうしてバイトもさせて貰って、バンドもできて、CDだって出せて、こうやって毎日旨いもん食わして貰って生きてられんだからありがたいと思うよ。親がいてもいなくても関係ないよ。」
社長は物思いに耽るように、箸を持ったままぼうっとしていた。
「でも、……親のことを思うことは、ないのか。」
リュウジは何か思い出したように固い笑みを浮かべながら、
「そう言われちまうとなあ。……潜在意識、って言うんですかね。親のことを心のどっかでは気にしてはいると思うんです。……前、厨房でヘマやって火傷しちまったことがあるんですけど、そん時に、まあ、本当かどうかわかんないんですけど、うんと小さい頃こんな目に遭ったってピーンと、来て。母親らしき人の顔と父親らしき人の顔も、その時突然ぱっと浮かんで来て。」
「え。」社長は目を見開いた。
「いやあ、ただ幻を見ただけかもしれませんよ。」慌てて作り笑いを浮かべ、「でも、小さい時にもこうやって火傷したことがあったって、何か、ピーンと来ちまったんだよなあ。ありゃあ不思議だな体験だった。」
「火傷、したのか。」
「そうなんですよ。」女将がエプロンで口元を覆いながら笑う。「まったく寿命が縮みましたよ。煮え滾った油の満々と入った鍋引っくり返しちまって。背中一面大やけど。一週間の入院。もう、来て早々大変だったんですから。」
「あん時は、マジすいませんでした。」
「良かったよ、こんなに何ともなく元気んなって。あん時は本当に肝冷やしたんだから。」
「それ、で、何? リュウジは子どもの頃、火傷をしたのか。」
「いやあ、だからわかんないっすよ。でも、今まで体験したことのないような不思議な体験で、俺がまだ小っちゃい赤ちゃんで、お母さんとお父さんみてえな人がいてっていう映像? みてえなのがはっきり蘇ってきたんです。走馬燈っていうのかなあ。」
「縁起でもないこと言うんじゃないよ。走馬燈ってえのは、人が死ぬ前に見るやつじゃあないか。」女将に慌てて肩を叩かれる。
「だから、あれじゃねえですかねえ。リュウジはきっとおんなじ痛さ、熱さを感じて、昔々の記憶が蘇ってきたんですよ。きっとリュウジのおっかさんって人が、赤んぼのリュウジに、火傷さしちまったのかもしれねえ。」店主が腕組みしながら言った。
「たしかに、背中に火傷みてえな、ひっつり後があったんです。昔施設で風呂入ってる時、友達になんだこれって言われて。自分じゃあんま見られねえから、わかんなかったけど。鏡で見たら、何かへんな風になってて。まあ、もう、新しい火傷の跡でわかんなくなっちまったですけどね。」
「だから、やっぱり本当なんだよ。」女将は目を丸くしながら言った。「リュウジは、赤んぼの頃、火傷したのかもしれない。ほら、記憶ってひょんなことで戻るって、映画やドラマなんかでもあるじゃないですか。」
社長は驚愕するような眼差しでリュウジを見つめていた。
「やだな、そんな変な目で見ないで下さいよ。ただの願望かもしんねえんですから。俺も小さい頃は親に可愛がられて育ったんだっていう、さ。」
「当たり前じゃないの。」女将が詰るように言った。「我が子程可愛いもんはないってえんだから。それがリュウジみてえに可愛い子ならなおさらだよ。」
「もう、こいつは親でもねえくせに親ばかですんませんねえ。」そう言って店長が出来立てのカツ定食を社長の前に置いた。
社長はしばし茫然としていたが、出された定食を「いただきます」と呟くように言ってそそくさと食べ始めた。
「まあ、きっとあと二年もしたら親のことは施設長さんに教えて貰えるんでしょう。それまで私らが何て言ったってねえ、わからないもんですからねえ。」店主は腕組みしながら言った。
しかし社長は小さく肯いただけで、言葉は発さなかった。そしてそのまま「御馳走様でした」と呟くように言うと、会計を済ませ逃げるように店を出ていった。




