19話 風魔法
十日目
もうかれこれ一週間近く、俺たちは農耕の民の村を目指してひたすら移動を続けている。
そもそも半月かかると言われていたから、もう少しで半分というところだ。
しかし、移動がこんなに大変だなんて想像以上だった。覚悟はしていたのにそれを遥かに超えるシロモノだ。
まず、この世界には、けもの道以外の道がない。
沢を辿り、山を迂回し、道なき道をひたすら移動するしかない。これだけでも俺たちの苦労の程が分かるのではないだろうか。
「しかし、クノには本当に助けられてるよな」
いつだったか、俺がしみじみ洩らした言葉に、みんな大いに頷いたものだ。
なぜなら、道案内から始まって――案内する道などないが、太陽の位置と見える山の角度で分かるらしい――、現地調達に頼らざるを得ない食糧の確保、自然の中に潜む危険に関する知識、身の回りの道具の製作などなど、全てクノに教えてもらいながらここまでやって来たのだ。
「え、え、え? 突然そんなこと――」
休憩の間も甲斐甲斐しくあれやこれやしてくれていたクノが、薄い空色の瞳を丸くして手をぱたぱたと振る。
後ろで尻尾が手とシンクロして振られているのがなんとも微笑ましい。
その話をした時も、本当の山歩きを知らない俺たちがすぐにへばってしまって、なし崩し的に休憩になったときだったと思う。
だが、そんな休憩の間もクノは細々と俺たちの面倒を見てくれている。そう、俺たちは体力面でもボロボロだが、服なんかはもっとボロボロなのだ。
俺のスーツは見るも無残なありさまで、右足に至っては膝から下を破り取ってしまっている。出発の時にはもう破れてはいたんだが、道中で藪に引っかけ続けた結果、あまりにヒラヒラと邪魔になったから取ってしまったんだ。
服はまだしも、一瞬ヒヤリとさせられたのは靴だ。
フォーマルな靴は明らかにアウトドアでの酷使に向いてない。最初に壊れたのがアヤさんのパンプスで、クノが休憩の時にさらっと代わりのものを作ってくれたから助かったが、そうでなかったらこの半分も距離が稼げてなかったと思う。
「簡単なものですが、これで大丈夫ですか?」
クノが作ってくれたのは、一枚革で足を包むようなモカシンに近いものだった。出発前日になめした毛皮を使って、ものの五分で作ってくれた。
アヤさん曰く、フィット感が素晴らしく素足感覚で歩けるらしい。
靴底が薄いけれど、森の中の地面なら逆にふわふわで気持ちいいと大喜びをしていた。靴ズレにも優しいスグレモノだ。
「えーいいなあ。クノちゃん、私にも……ダメ?」
アヤさんのあまりの絶賛ぶりに、靴ズレで悩んでいたミツバも可愛らしくおねだりを始めた。
結局、今となってはスーさん以外全員がクノ印のモカシンを履いている。いや、ミツバ以降は作り方を教わったアヤさんが作ったから、アヤさん印と言った方が正確か。
「私、こういう小物作りって、やり始めると止まらないのよねえ」
おっとりと微笑みながら、アヤさんは手際よく作業を進めていく。
アヤさんは本当に手先が器用で、出発前の紐作りからこのモカシンまで、スポンジの如くクノから技術を吸い取っている。
同じことを俺も教わってはいるんだが……深くは聞かないでくれ。
ちなみにスーさんは、お気に入りのバスケットシューズだから限界まで履いていたい、と頑なに言い続けている。
ただそれは、足の匂いを気にして人前で靴を脱ぎたくないからじゃないか、俺にはそう思えてしかたがない。今度風呂上がりにでも、俺に作らせてくれと頼んでみるつもりだ。
風呂上がり、クノやアヤさんがいないところなら大丈夫ではないだろうか。
「うふふ、今度はケースケさんの服を作りましょうか」
クノは休憩の度に、なんだか楽しそうにみんなの中を回っていく。さらさらと流れる白金の髪が可憐に微笑む顔の周りで軽やかに踊り、見ているこちらまで楽しい気持ちになってくる。
クノは実際、初めに女性陣に簡易的なズボンを作り――藪の中をスカートでは歩けない――、道中の狩猟でどんどん増える毛皮を順次なめしつつ、次々に俺たちの衣服を作ってくれている。
その他、小物にも手を伸ばし、アヤさんとミツバとノリノリで肩掛け鞄などを作って競い合っているあたり、毛皮を使った小物作りには女性の血を騒がす何かがあるのかもしれない。
そうして女性陣が和気あいあいと盛り上がっている間、俺たち男は妙に居場所がなく、たいてい狩りに出かけてしまう。
狩りと言えばなんと、スーさんが武器を作ってくれた。イツキにはバスタードソードとかいう一メートルちょっとの細身の両刃剣を、スーさん自身にはハルバードという物々しい槍を作って、満面の笑みで披露してくれた。
もちろん鉄製ではない。土を選んで圧縮に圧縮を重ねたとのことで、見た目は黒っぽい石のようだ。でもなかなか頑丈に出来ている。
まあ、鋭い刃は作れないとのことで、剣や槍ではなく単なる鈍器なんだが、スーさん曰くこの形こそがロマン、らしい。
「で、ケースケ君はやっぱりコレだよね!」
満面の笑顔で俺に差し出してくれたのは、二メートル近い、巨大な出刃包丁。
さすがに遠慮しておいた。
あんなものを持って延々と藪の中を歩きたくないし、何より猟奇的すぎるだろ。
結局、両腕を広げたぐらいの長さの棒を作ってもらった。刃がない代わりに両端を尖らせ、叩く、突く、投げると三拍子揃った扱いができるシロモノだ。
ここだけの話、狩りの獲物の殆どがこの棒での成果だ。獲物を見つけたら、投槍よろしく遠くからズドン、で片が付いてしまう。強化された俺の怪力も大概なものだが。
櫛名田のおっさんは、クノに教わって自前の弓を完成させつつある。移動中に見つけたイチイの木――クノの言葉ではクネニの木――を使って、暇さえあればニコニコと削っている。
やっぱり根が大工なんだな、と思っているのは俺だけだろうか。
まあ、そんなこんなで少しずつこの世界に馴染みつつ、俺たちの旅は続いている。
今日もよく歩いた。そろそろ野営の場所を気にしながら歩いていた方がいいだろう。
そう言えば、最近は朝晩が冷え込むようになってきた。ミツバとスーさんで作る仮設ドームの中で火を焚けるようにならないか、櫛名田のおっさんに相談してみよう。
◆ ◆ ◆
その後、日暮れ前。
蛇行する川のほとり、開けた場所で野営の用意を整えた俺たちは、順番で風呂に入っていた。
女性陣はみな終わり、今は櫛名田のおっさんが入浴中だ。焚き火を囲んで寛いでいる俺たちの耳に、周囲の虫の喧騒を縫って渋い唄声が途切れとぎれに届いてくる。唄には妙にこぶしが入り、津軽海峡がどうのと言っているようだ。
「昭和だな」
「昭和ですね」
俺のひとり言をオウム返しにしてミツバがクスクス笑った。こちらに向ける妙な親近感と、風呂上がりの濡れた髪が胸をどきりとさせる。
「ミツバさん、少しは良くなってきましたか?」
クノが軽やかな足取りで歩いてきて、ふくらはぎをマッサージしているミツバにヨモギのような葉っぱを手渡した。
「うん、お陰さまでもうだいぶ治ってきたよ。あとちょっとかな。ありがとう」
手作りモカシンに替えてからは大分マシになったようだが、ミツバはそれまでの靴ズレが未だに尾を引いているらしい。葉っぱはよく効く薬草で、常時患部に貼り付けているとのこと。
「クノちゃんて、ホント頼りになるよねー」
ミツバと同じく足をマッサージしていたアヤさんが、ふう、とひと息ついて体を起こした。
「あ、それ僕にもくださ――」
イツキがクノに手を伸ばしかけ、ぴたりと動きを止めた。普段は屈託のない顔を緊張に強張らせ、川の向こうを凝視している。
俺は咄嗟にスーさんに作ってもらった棒――両手杖、と最近は呼んでいる――を手繰り寄せ、イツキの視線を辿った。
川向こうの林の奥、夕闇が山肌に迫っている辺りで、何羽もの鳥が一斉に飛び立って右往左往している。
嫌な予感が背中を撫でた。
まさか――。
最近はあの化け物に出くわしていなかったが、俺は忘れた訳じゃない。
「悪い。すぐドームに入って」
女性陣に短くお願いをする。
「スーさん、櫛名田のおっさんを引っ張ってきてくれるか? そしたら、ドームの入口を土の魔法で塞げるようにミツバと準備だけしておいて」
「え?」
一瞬の間を置き、みんな一斉に動き出してくれた。イツキの様子と俺の眼差しで察してくれたみたいだ。
俺とイツキは頷きを交わし、川のそばの草むらまで走り、そこに身を沈めた。
息を整え、草の陰からそっと林の方を覗く。飛び立った鳥は、逃げるようにこちらに近付いてきている。
イツキは俺の隣で、真剣な顔で林の中を覗き込んでいる。眉間に皺を寄せ、一心不乱に集中しているようだ。
しかし薄暮の林は既に暗く、奥までは見通すことができない。目を凝らしてもせいぜい十メートルがいいところだ。
と、そのイツキから、プン、とオゾン臭が立ち昇った。
これはもう馴染みの匂いだ。俺たちが魔法を使う時の匂い――イツキが魔法を?
イツキ、敏捷系の身体強化しか使えないんじゃなかったか?
「え? 何スかこれ……うおっ!」
イツキがのけぞった。
「あれ……ああ、そゆこと……」
目を瞑って笑みを浮かべるイツキ。そのまま、顔を前に向けたままで、横にいる俺に興奮気味に小声で話しかけてきた。
「ケースケさん、スゴいっスよ! 俺、あの林の中が分かります! なんか、音がこう立体的に視えるというか……」
俺は思わずイツキを二度見した。目を瞑ったままの横顔に、急に真剣な色が加わった。
「小柄な人のようなものが幾つか、こっちに走ってきてます」
眉間にしわを寄せ、早口でささやくイツキ。
「全部で……六人、かな? 何かから逃げてる……後ろには……っ!」
「ヤツです。あの化け物だ! なんかブツブツ言いながらすごいスピードで走ってて、でも足は四つ!」
くそ!
出やがった!
イツキがデタラメを言っているとは思えない。噛み締めた奥歯がギリリと音を立てるのを無視し、俺は背後を振り返った。
よし、ミツバ達はドームに入っているようだ。素っ裸の櫛名田のおっさんが、スーさんに手を引っ張られ服で股間を隠しながら走っている。もうすぐドームにたどり着くだろう。
俺は両手杖を握り締め、身を隠していた草むらから立ち上がった。
くそ、やってやろうじゃないか。
俺がこの一週間、何もしてないと思うなよ。
両手杖を右手に持ち替え、半身になって投げ槍の構えを作る。
目の前には川。
ヤツはその向こうの林から出てくる。手頃な距離だ。
林の奥からの物音が俺にも分かるようになった。
何人かが必死に逃げてくる。ヤツはその後ろだ。近い。
さあ来い。
待ち構える俺の目の前に、襤褸をまとった人に近い何かが複数、転がるように逃げ出てきた。




