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馬を飛ばし水竜の神殿へとやってきた。
兄王との約束はきっかり二週間。これは往復の時間だけしか取れないぎりぎりの時間だ。
だから近衛を厳選し、少ない供だけで水竜の神殿まで馬を飛ばした。
道中見た光景は、地の揺れの影響が少なからずあるように思えた。
王都から遠ざかり、水竜の神殿に近付くとその影響は少なくなっている。地質学者とやらが、王都の東から北にかけてある山脈のあたりが揺れの元ではないかと言っていたが、あながちそれは嘘ではないのかもしれない。
「開門を」
いつもの祭宮の正装ではなく、王族の軽装で馬上から声を掛けると、水竜の神殿の門を守る神官たちは不審者に向ける目で俺を見る。
「悪い。急ぎだ。神官長様にお繋ぎ頂けるだろうか」
馬を下りながら問いかけると、こちらの顔を認識したのだろう神官がこくりと首を縦に振る。
「馬はそちらにお繋ぎください。神殿の敷地内は馬の乗り入れを禁じております」
慇懃無礼な態度で述べる神官の望むように馬を繋いでいると、小走りで一人の神官がやってくる。
「これはこれは祭宮様。いかがなさいましたかな」
長老と呼ばれる神官が出てくるなど珍しい。
表舞台にあまり出てきたがらないし、このような取次ぎをするような身分では無い。
どのように伝わったのかはわからないが、神殿側に警戒されていると見ていいだろう。
「申し訳ありません。急ぎ、水竜のご神託を頂きたく参りました」
「……巫女様は奥殿においでじゃ。すぐにお会いになる事は難しいと思いますが、よろしいかな」
しばし考え、老神官によって神殿内部に誘われる。
ごくっと唾を飲んだ。
そして後ろに控えるルデアを見つめると、ルデアが確信を篭めた目で頷く。
普段連れ歩かないルデアをギーと共に連れて来たのには訳がある。あの「憑依」を再び起こせるかどうか、ルデアの意見を参考にしたいと思ったからだ。
王都でそのような事を気軽に話せる雰囲気ではないので道中話すことが効率が良いと考えたのと、もしも実際に起こったときにすぐにルデアの意見が聞けるようにと思い、業務が滞ると文官たちに言われたが連れて来た。
ルデアの案は単純明快だ。
水竜が巫女に憑依せざるを得ないような状況を作り出し、強引にでも引っ張り出す事。
そして「戦をやめるべきだ」というご神託を授かる事。
ご神託は祭宮しか聞くことが無いので、いくらでも偽造できそうな気がするのだが、それをしてしまうと水竜の怒りを買って、次回から神託が貰えなくなるらしい。
だからバカ正直に言質を貰いにきたのだ。
神官長の執務室に通されると、執務中だった神官長が書類の数々を御付神官に渡しながらにっこりと微笑む。
まずは第一の関門。
この神官長ならびに神官たちを巫女対面の場から追い出すこと。
いつもどおりの挨拶と大げさな驚きを見せる神官長に一礼し、申し訳なさそうに頭を垂れる。演技だが。
「大変お忙しいところ、突然押しかけてしまいまして申し訳ございません」
「何がありましたの? 王都で何か?」
しばらく沈黙し、心の中で数を十まで数えてから溜息を吐き出す。
「……王都のみに留まらず」
言葉を言い澱み、そしてふうっと息を吐く。
「外の状況は恐らく神官長様が考えるよりもずっと切迫したもので」
まあっと言って青褪める神官長にもう一押しすれば、こちらの望みは叶えられるだろう。
神官長のもとにも外の状況は伝わっているだろう。
外部諜報員を何人も抱え、水竜の信者たちからも情報を集めているだろう。そして何よりも神殿の周囲にいる難民たち。
これでも何も起こっていないと思うのならば、よほど楽観的な者だろう。
神官長は決して愚かではない。
匂わせた僅かな言葉だけで理解したようだ。
「それでご神託を?」
「ええ。その事なのですが、一つお願いしたい事がございます」
「何かしら?」
「非常に申し上げにくいのですが、神託を巫女様から戴く際、巫女様以外の方には外で待っていて頂きたいのです」
「まあっ。どうしてそんなことを?」
そう言われることは想定済みだ。
「私は陛下の御為に、何があっても神託を持ち帰らなくてはなりません。しかしこの件でご神託を戴ける可能性は低い。ならば戴く為に、膝を折り、額づく事さえ惜しまぬ覚悟で参っております。ですが私は王族。他の者にそのような姿を見られることには抵抗を感じます」
「そう……ですわね」
神官長の細い腕が考え込むように組まれる。
ちらっとその視線が背後に控える御付神官に向けられる。が、年若い御付神官に判断など出来るわけもない。
こちらの意見にも一理あると思っているのだろう。
「神殿で祭宮が軽んじられる事は、即ち同じ王家出身の神官長さまさえ軽んじられる事に繋がるのではないかと不安もございまして」
神官長の視線にはっとしたような顔を作り、「申し訳ございません」と謝罪すると、ふぅっと神官長が溜息を吐き出す。
この神殿は神官長派と巫女派に二分され、勢力争いを繰り広げている。
気位の高い神官長が、神官ごときに軽んじられるなど許す事など出来ないだろう。
「……わかりましたわ」
神官長の同意に、思わず口元が緩んで笑みの形になった。
数時間後、巫女が神官長の執務室に姿を現す。
久しぶりに見た彼女の姿に心が躍る。
普段は忘れているけれど、やはりその姿を見るだけで心に広がっていく愛情を感じざるを得ない。
好きだ。
戸惑いながらも挨拶をする彼女に心からそう思う。
「ごめんな」
これから彼女にしてしまう事を思うと、謝らずにはいられない。
小さな細い肩にそっと呟くと、彼女が顔を上げて俺を見る。薄いベール越しの顔は、不思議そうに俺を見ている。
「神官長様。お願いします」
もう引き返すことは出来ない。ごくりと唾を飲み込んだ。
神官長以下全神官が退席すると、頼りなげな彼女が俺を見上げてくる。
顔はよく見えないけれど、不安がありありと伝わってくる。
「立ち話というのも何ですから、どうぞお掛け下さい」
どのタイミングで事を起こそうか考えながら彼女との距離を詰めると、彼女がきゅっと体に力を入れて強張るように縮め、ついっと顔を背ける。
その態度が、俺のこと意識してるんだなーって何となく伝わってきて嬉しくなる。
全く女性経験が無いわけではない。
むしろ女性に好意を向けられることにも慣れている。
だから彼女のその仕草の裏にある感情が「好意」であるのではないかと思った。
「サーサ」
自分でも驚くほどの甘い声で彼女を呼んでしまう。
弾かれたように体ごと俺から背ける彼女に触れてしまいたい。
今回の魂胆とは全く別にして、震える肩が愛おしくて抱きしめてしまいたい。
その衝動を水竜に「触るな」と言われているのもあってぐっと堪えてやりすごそうとしていると、くるりと彼女が振り返る。
右腕が彼女の腕を掴んだ。本当は腕の中に彼女の体を閉じ込めてしまいたい。
もう片方の伸ばしてしまった手を彼女の髪へと移す。ベールなんかに阻まれていない、彼女の素の顔が見たいと思った。
ベールを止める髪留めに触れると、案外簡単にそれは外れていく。
するりと外れたベールの向こう側の彼女は真っ赤な顔で目を見開いて俺を見ている。
「何て顔してるんだよ」
思わず出た言葉に、彼女が目を白黒させてあわあわと忙しなく表情を変えて俯いてしまう。
耳まで真っ赤に染めた彼女に気がつかれないように、そっと髪の毛にキスを落とす。
人目を忍んでこんな事までしてしまうなんて、どれだけ彼女に捕らわれているのだろう。他の誰にもこんな事したいと思ったことがないのに。
愛おしくて堪らない。
そんな気持ちを彼女が俺に教えてくれた。
切羽詰った場面だというのに、目的も忘れて彼女に溺れそうな自分の愚かさに笑みが漏れる。
あー。ずっとこうしていたい。
だけれど、やらなくてはならない。彼女の身に危険が及んだとしても。
ルデアの推測では恐らく巫女は助かるだろうとの事だった。一度目の憑依でも倒れただけだったから、命を失うような事はないだろうと。
もっとも、二回もそれを成し遂げたとしたら、それは「奇跡」と呼ばれるようなものかもしれないとも言っていた。
つまり、これは賭けだ。
彼女が憑依させる事が出来るのか。彼女の命に危険が及ぶ事が無いか。
「ササ。お前の大事な神様に会わせてくれ」
意を決して声を掛けると、彼女の顔が強張った。そして巫女の仮面を被ろうと表情を変える。
だけれど俺の言っている意味がわからないのだろう。戸惑いがその表情から窺い知れる。
「会わせるって、どうやって」
震える声が彼女の不安を表しているかのようだった。
身を捩って逃れようとする彼女の腕を離さない。本当なら違う方法で拘束したいのだけれど。
視線だけが絡みつく。逃げようとする彼女から、せめて視線だけでも離さないように見続ける。
「簡単だよ。呼んで。水竜を」
「それで、いいの」
「いいよ」
ほっとしたような表情をした彼女の周囲に一気に風が巻き起こる。
まるで彼女を中心とした竜巻のようで、床に転がりおちていたベールも天井まで巻き上がる。
今まで神託を貰う時にこのような場面に遭遇した事は無い。
……来る。
強すぎる風が突き刺さるように痛い。思わず空いているほうの手で顔を庇う。
竜巻は突然そよ風に、そして無風になる。
「離せ」
子供の声。そして蒼い瞳。
水竜だ。
にやりと笑うと、彼女の中に入っている水竜は顔を歪める。
一応の挨拶への返事は、腕を払うという好戦的なものだったが、そういう風に出てくるのは最初からわかっているので、あっさりと彼女を掴んでいた手を離す。
「触れるなと、言ったはずだ」
「こうでもしなければ、あなた出てこないでしょう」
「こうすることによって、サーシャに負担になるのはわかっているのか」
「わかっていますとも」
倒れてしまうだろう。きっとこの後彼女の体には多大な負担が圧し掛かるだろう。
それは水竜自身だってわかっているはずだ。それなのに出てきた。
ということは、彼女の命に危険が及ぶ事はないと判断したからだろう。
あからさまな敵意を向ける水竜を受け流し、まずはソファに座るように促す。
どのような事が彼女の体に負担になるのかわからない。少しでも目を覚ました時の負担を減らすようにしなくては。
こちらを苛立たせようとしているのだろう言葉はいくらでも聞き流せる。
が、自分のだと主張するように彼女に触れるのはやめろ。
それはお前のモノなんかじゃない。この化け物がっ。
挑発する態度に怒りを感じないように、冷めたお茶を口に含んで飲み干す。
俺は、ご神託を持って帰らなくてはならない。
「単刀直入に聞く。あんたは全てわかっていたのか」
「何のことだ」
わかっているだろうにはぐらかす水竜が、無駄に時間だけを浪費しているように思えて焦りを覚える。
恐らく水竜と直に話す機会など、ごくごく僅かな時間しかないはずだ。
少ない時間で求む言葉を受け取らなくてはならない。
「こうなることを見越していたのか。前王陛下の苦慮も、現王陛下の焦りも」
「何をバカなことを言っている。止めるのは貴様らの役目だろう。ボクは政事には関わらない。何度も言わせるな」
一笑に付す水竜は、本当に馬鹿げているといわんばかりに俺をせせら笑う。
だが、全く無関係だと言い張る事など許される事ではない。
建国王と、人々が住みやすい大地を提供すると契約したのではなかったのか。水竜の巫女と水竜の神殿と引き換えに。
それなのにさもこちらに非があるように言いやがって。
「では国は。大地は。それはあんたの責任だろうが」
くすくすっと笑う水竜に怒りを覚える。
火の山が火を噴き、大地が割れ、家や家族や生活の基盤を失ったものも多い。
それを無関係を装って放置するとは。それが「神と呼ばれしモノ」がする態度かっ。
「世界が朱に染まる時、ある者は歓喜の、ある者は悲しみの涙を浮かべるだろう。朱に大河が染まる時、大地は沈黙し、眠りへといざなわれるだろう。だから、わざわざ警告してやっただろう。ボクは親切だからね」
何だと?
戦は確かに兄王の判断で始めたものだ。だが大地の鳴動は。炎の山は。日照不足で実る事をやめてしまった作物たちは。
その責任の全ては貴様にあるんじゃないのか。
あの大祭での神託が全てだというのだろうか。それ以上の神託は無いと。
怒りで全身が総毛立つという言葉の意味が、身をもってわかる。
こみ上げてくる怒りで、目眩がするほどだ。
「いいか。忘れるな。引き金を引いたのは、貴様ら王族だ」
「建国王との契約を破るのか」
「先に禁を犯したのは誰か。他人のせいにする前に考えるんだな」
他人のせいだと?
俺らが水竜に何をしたという。戦をしたことが引き金だったとでも言うのか。ならば止めれば良かったじゃないか。
「祭宮。あとは自分で考えろ。何が貴様に出来るのか」
強い視線が俺を射抜く。
俺に何が出来るのかを考えろだと? だから今出来る事をしているじゃないか。
ならば神託をと口にしようとした俺に、水竜が思いもかけないようなことを口走る。
「そうそう。結婚するんだって。お幸せに」
は? 誰が結婚?
にやにやと笑う水竜の顔で察した。ああ、彼女がそう誤解しているっていうことか。
何をもってそう思ったんだ、一体。
結婚なんて予定も無い。全く無い。一番結婚できそうな相手は水竜の神殿の神官長だ。ちなみに暗に「お呼びでない」と言われているのが現状だ。
もっとも俺は神官長と結婚する気など毛頭ないのだが。
「……あんた、訂正くらいしておけよ」
「ボクが? 何でだよ。行く末を見守らせてもらうさ。現世のことは、ボクは介入しないって決めてるんでね」
さも面白いおもちゃでも見つけたかのように笑う水竜は、先ほどまでの神託に関わった時のような鋭さは無い。
素の水竜とはこういう生き物なのかと、興味深ささえ覚えてしまう。
と、突然彼女の体が軋んで、ぐらっと体勢が傾く。
「……頼む」
「ああ」
言葉と同時に、彼女に向かって手を伸ばす。
水竜の「いなくなった」彼女は青褪めた顔で意識も途切れている。
腕の中に抱きとめた体をぎゅっと抱きしめる。触るなって言われているけれど、こういう非常事態なら問題ないだろう。
熱が冷めたかのような冷たい水のような体。
四肢の先まで力が入っていない。まるで人形のようにだらりと脱力してしまっている。
「俺、多分これで嫌われるんだろうな。ごめんな、ササ」
抱きしめた彼女に、俺の声は届かないだろう。
しばらく様子を見ていたが、腕の中の彼女が動く気配は無い。
それどころか冷たかった体が逆に、徐々に熱を帯びて吐息が息苦しそうなものに変わる。
憑依したものは、命を落とすのだそうですよ。
ふいにルデアの言葉が頭に蘇ってきた。
即死するなんて、一言もルデアは言っていなかった。
急に自分の中のスイッチが切り替わった。
もしも、彼女が……。
暗い予感に体が震えてくる。
もしもこのまま目を覚ます事が無かったら。
そんなのは、嫌だっ。
「あなたは一体何をしたんですっ」
神官長の執務室と外とを繋ぐ回廊で、俺の「影」の一人である助手が掴みかかってくる。
ぐいっと捻りあげられる首元をそのままにして、激昂する助手と対峙する。
ガンっと頭を廊下の壁にぶつけられるが、それさえ痛みを感じるようなものではない。
こんなの何てことは無い。目覚めない彼女の体内で起こっている事を思えば。
目を逸らした俺の体をゆさゆさと掴み上げた二本の腕で助手が揺らす。
「黙ってないで答えろって言ってるんだよ。答えろっ」
視線が合うと、助手がギリっと睨みつけてくる。
怒りのあまり敬語を使う事すら忘れたようだ。そのくらい、神官にとって巫女とは至高の存在なのだろう。
こんな時になって神官たちの巫女への信仰心を知る。
「切ったわけではないのは見てわかった。あとは毒以外考えられない。毒を嫌うお前が毒を盛ったのか? 巫女様にっ」
「……毒を盛ってはいない。俺は彼女を殺そうなどとしていない。いや……」
死んでも構わないと思っていたのかもしれない。国を立て直す為ならば。
いや、違う。
彼女が死ぬような事はないと確信していたから出来た賭けだ。
「こうなる可能性が多少あることは知っていた」
呟いた俺の頬に助手の拳が飛んできた。
その痛みに、俺は現実を知る。彼女が今、生死の境を彷徨っているという事実を。
「……で、何やった」
燃えたぎるような目で、まるで射殺さんばかりに助手が俺を睨んでいる。その手を払いのけ、切れた口元を拭いながら溜息を吐き出した。
「信じる信じないはお前の自由だ。だがこの原因がわからなければ医師のお前は手の尽くしようが無いと思っている。そうだな?」
「そうです」
ぴくっと助手の顔が痙攣している。
俺に敬語を使うことなど許しがたいと思っているのかもしれない。が、若干冷静になったのか分を弁えて接している。
「ならば真実を。俺の目の前で起きた全てをお前に言うよ」
先ほど起こった事のあらましを聞いた助手は、怒りも冷めて青褪めてしまった。
「……毒ならばともかく、そのような理由では自分に出来る事はありません。が、手を尽くします。必ずお助けします。しかし祭宮殿下の為ではない。巫女様の為です」
「ああ。頼むよ」
俺の言葉にふんっと鼻を鳴らし、駆け足で暗い回廊を助手が去っていく。
願うものは何も手に入れられていない。逆に大切なものを失うかもしれない。
俺は、本当に俺がすべきことはこんな事だったのか?




