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「これは確かに素晴らしい出来ですね」
王立医学院長の感嘆の声に少し眉を潜める。好ましくないものに対しての嫌悪がそのまま顔に出てしまった。姫を惑わすものなのに、と。
「おそらく北方の栽培所ではなく、どこかで組織的に作られたものでしょうね。個人の技量だけでは、これを大量に作る事は難しいでしょう」
鼻に掛けた丸眼鏡を押し上げ、院長は口の中でブツブツと呟きながら指を折る。宙を見たり、指に目を向けたり、薬を舌で舐めたりを繰り返し、コホンと一つ咳払いをする。
その様子がやけに芝居がかって見えるのは、穿った見方をしすぎだろうか。
紙を取り出し、サラサラと文字を綴り、ひらりと目の前に差し出す。
「地方の分院にいる者、かつてここで学んだものの中で、コレの製作指導が出来る程度の技量があると思われるのはこの面々ですね」
幾人かの名前が羅列されているのに目を通し、頭の中に記憶してルデアに手渡す。
手渡されたルデアは表情を数に淡々と目で追う。
紙が再び院長に手渡され、再び院長はペンを手に取る。
「失礼ながらこれを殿下にお渡しした者は、この中に含まれておりますでしょうか」
「ん?」
「この中にいないということでしたら、薬や毒を扱う、こことは別の専門機関に属している者ではないかと」
何でそんな事をという疑問を口にするより早く、院長が神妙な面持ちで懸念を告げる。
公式にも、確固たる事実としても、この王立医学院が医学薬学の専門機関。医学に携わる者たちの最高峰。その中でも薬学に特に長けている数名の名を挙げ、その中で該当の名が無ければ別の組織が秘密裏に動いている可能性があり、王立医学院の存在を覆しかねないというものだ。
つまり、これは姫を貶める為だとかという小さなものではなく、国の根幹を揺るがしかねない問題だと。
確かにその可能性は否定できないな。
また、真っ先に第一発見者を疑うのは当たり前の発想だろう。
同じように考えたからこそ、自分は「助手」の言葉に従いここを訪れた。助手は本当に信用に足る人物なのかを確認する為に。
裏に王立医学院が絡んでいる可能性を考慮しつつも。
誰が黒幕なのか。
普段はあまり積極的に動く事はしないが、この件だけは自分で真実に辿り着かなくてはならないような気がしている。
この目で、この手で全てを確かめなくては。
漠然とではあるものの、大局の流れの中で起きた事件であり、自分のせいで姫が巻き込まれたように感じているからかもしれない。
罪悪感。
ふいに一つの言葉が頭の中を占めるが、俺がどのように感じているかなど、事件の全貌の前ではどうでもいいことだ。
腕を組みルデアに視線を向けると、こくりと首を縦に振る。
「王立医学院出身。本人いわく外科医療を専門に学んでいたようです」
ルデアの言葉に院長の眼鏡の奥の目が輝きを放つ。
自らの懸念が懸念で終わった事への安堵か、はたまた自分の許で育てた者の成長を喜ぶ思いか、表情からは読み取る事は出来ない。
ただ、複数あるあまり良いとは言えない想定の中の一つが消えたことに対して、ほっとする思いがあったのだろう。
「名は」
短い問い掛けにルデアが首を横に振る。
「偽名を使っている可能性がありまして」
王立医学院時代に使っていた名はわかっていたが、今の素性を隠す為の配慮かルデアは「助手」の名を濁す。
「ふーむ。ではどのような容貌の者でしたか。心当たりが全く無いわけではないのです。殿下がこちらにいらっしゃったということは、若い医師ではありませんでしたか」
問いかけられたルデアが首を回して俺を見る。
助手の情報は既に精査済み。問いに即答できるだろうに、まるでいかがなさいますかとでも言うように。
「その心当たりの者は院長の覚えもめでたいというのに、医学院で研鑽を磨くことなく野に下ったのか」
恐らく院長の心当たりの者は助手で間違いないだろう。異例の若さで医学院に入ったというのは調べ済みだ。しかし裏で院長と助手が繋がっている可能性や、助手が何らかの勢力と関わりがある可能性も否定できず探りを入れる。
何故医者としては若すぎる位なのに、助手はここを出たのだろう。
「あの者は」
すっと院長の目が細められる。同時に口調が柔らかなものに変わる。
「ある方からのお預かりものでしてね。元々こちらでの時間は二年間と決められておりました。非常に優秀な生徒でしたから引き止めたのですがね。こちらに残るようにと」
「預かりもの?」
「ええ。祭宮様がよくご存知の場所からの推薦状を携えてやってまいりました」
「ああ、あそこね」
仄めかした事を理解したと暗に伝えると、にこりと医学長が笑みを浮かべる。
「医師の道を究めて名声を馳せるより、歴史の中に埋もれる一民衆であることを望んだ者です。己の高い志はすべてある組織の為だけに使うと」
「それほどのものには思えないんだかね、あの組織」
富も名声も、自ら研鑽する機会を失ってまで、尽くす必要があるのだろうか。首を捻って率直な感想を告げると、医学長は眉尻を下げる。
「同じように思い、その事を本人にも問いただしました。しかし自ら組織の門を叩いた者には、あの場所こそ、あの場に座すモノこそ至高の存在なのでしょう」
「あー。そういえば信心が足りないと言われた事あるなあ」
ちらりとルデアに視線を向けると、ルデアの嘆息が漏れる。ああ、よくわかってるよ。俺が信心が足りない上に勉強不足だって事は。
「祭事を司っておられるのですから、対外的には信仰心が厚いフリをなさっていただけると非常に助かりますが、殿下」
小気味の良いルデアのいつもどおりの小言を苦笑で受け流し、院長に向き直る。
助手からの受け取った一枚のメモを医学長に手渡す。
さっと目を通し、院長は窺うような視線を送ってくる。
「俺にはこれが何の事だかさっぱりわからなくてね。全てを任せても構わないかな、院長」
表と裏の二つの意味を汲み取って貰えるだろうか。
しばしの沈黙は、お互いの腹を探る駆け引きの時間のように思える。
神官長たる姫の薬の問題を解決するには、国の医療を束ねるこの組織の力を借りる事が早道だ。仮に他に人知れず薬を精製密売するような組織があるとしても、それがどの程度の組織でどのような薬を扱っているところなのかを解明するにしても、王立医学院と連携を図る必要があるだろう。
様々な可能性を考慮した場合、この組織を手の内に入れておく必要がある。
しかし、他の陣営の支配下にあるならばそれは難しい。
助手という接点など、極めて些細なものでしかない。
「正直に申しますと」
控え目ながら、確固たる医師を感じさせる返答に耳と心を傾ける。
「これの出所、わからないわけではないのです」
テーブルの上に置かれたままの薬を見つめて答える院長の言葉に目を見開く。こんなにあっさりと答えに辿り着くとは。
「仮に他国や私の預かり知らぬ組織が関わっている場合を除きますが」
付け足しの言葉に頷く。
そのような非常に厄介な問題が発端ではない限りは、この薬を精製している場所に思い当たるところがあるのだろう。
「どのような薬も使い方を違えれば毒にもなりえる。これはその最たるものです。処方している者は薬として用いており、毒として用いようなどとは思っていない可能性もあります」
頷き、院長に言葉を促す。
「思い違いでなければ、これは薬として用いたものでしょう。もしもわたしの知らない、さきほど挙げた幾人かが何らかの意図を持つ者からの命を受け、毒として精製しているのならば話は別ですが」
「それに関してはこちらで調べよう」
今度は院長が頷き返す。
「おそらくリーエル伯は既にこの件の調べは終わっていらっしゃるのではありませんか」
公にはリーエル伯爵と呼ばれるルデアは表情を変えず、ふっと溜息のような短い息を吐き出す。
「出所に関しては」
えらく短い返答に、既にそこまで掴んでいたのに何故報告が一切無かったのか。出来うる限り表情を変えず、こちらを窺う院長に頷き返す。
「ではそのメモの品物が揃い次第、神殿に送ってくれるかな」
話題を変えて切り出すと、院長は少し眉を潜める。
「俺を通す必要は無いよ。直に神殿に送りつけてやってくれ。きっと首を長くして待っているだろうからね」
俺と助手の契約の証。そして助手の裏はすべて押さえているという証として。決して裏切る事の無いように釘を刺す為にも、これは王立医学院から送るほうがいい。医学院を手の内に収める第一歩としても。
兄貴と本気で向かい合うなら、可能な限り駒は多いほうがいい。そしてまだ誰もここには手を出していないのならば、確実に手中に収めたい。
敵は少ない方がいい。そして味方は多いほうがいい。
にっこりと笑みを作った俺に、院長も笑みを返す。
食えないおっさんだな、この笑い方。直感的に思った。
「一度のお使い程度、お断りする理由はありませんよ」
あえて「一度」と強調し牽制してくるのが、かえって可笑しかった。
「医療とはすべての人に公平にあるべきだ。王宮であろうと、軍であろうと、神殿であろうとも。俺はそう思っているよ」
笑みを付け足すと、院長は冷ややかな視線のまま口角を上げる。
「何やら矛盾を感じなくは無いですが、この件はお受け致します」
メモを目の前に掲げて院長が告げる。他の件も動いてくれるようになると嬉しいが、今日はこの辺にしておこう。
ルデアと院長との間に交友と言って適切であるかはわからないが、何らかの接点もあるようだし、この件はルデアに任せてもいいかもしれない。力ずくで周囲に人を増やそうと思ってもいないしな。
「頼むよ。では失礼する」
腰を上げると院長も連れて椅子から立ち上がり、深く頭を垂れる。
ゆっくりと顔をあげ、丸眼鏡を指でずり上げた院長の視線がぶつかる。
しかし互いに何も口にする事もなく、そのまま王立医学院の院長室を後にする。
扉の向こう側で待っていたギーが合流し、祭宮用の青を基調とした装飾が施された馬車に乗り、先程の疑問をルデアにぶつける。
「何故何も」
言いかけて、止めた。
ルデアにはルデアなりの考えがあるのかもしれない。
それに、ルデア無くては祭宮の全業務が滞るのではないかと思うほど、多岐にわたって業務をこなしている。その中でもどちらかと言えば隠密的行動を伴う今回の調査について、こちらから進捗を訪ねるようなことをしなかったのは俺自身だ。ルデアを責めるべきではない。
言いかけて止めた俺に対し、ルデアはいつもと同じ淡々とした表情と声を俺に向ける。
「きちんとすべてを解明してからご報告するつもりでした。報告が遅れ、申し訳ありません」
「手が必要なら俺が手伝うが」
無骨なギーの言葉に、ルデアは首を振る。
「武官に文官の仕事までさせるわけにはいきません。これはオレの仕事ですから」
ギーの申し出を断り、何も無かったかのような声音で「毒であり薬であるもの」の出所に関しての説明を始める。
王立医学院の中でも特に薬学に秀でた者を集めた薬師たちのギルドが存在する。
そんなもの初めて聞いたが、どうやらその連中が効果の高い薬の精製を行っているそうだ。勿論通常出回っているものよりもかなり高価なので、一般庶民の手が届くような代物ではない。
医学院から独立した組織であり、医学院との繋がりも深いその組織は、王侯貴族ご用達といったところだろう。
「そんなの初めて聞いたな。薬なんかめったに口にしないからか?」
「殿下は頑丈ですからね、色々と」
通常通りのルデアの含みだらけの言葉を聞き流し、ふぅっと溜息を吐き出す。
「となると、問題は誰がそれを姫に渡したかということだな」
「殿下」
ごくりと唾を飲み込んだのか、ルデアの喉が上下に動く。
「陰謀説を取るならそうですが、しかしもしも姫の主治医がより効果の高い薬を求めてギルドに声を掛けたのだと仮定した場合、人の思惑以上に薬が効き過ぎてしまったという可能性も無いわけではないのですが」
ルデアの言うとおりだ。
これはもしかしたらただの「事故」なのかもしれない。それが真実だとするならば、姫の主治医が平然としていられるのも納得出来る。
だが、ならば何故助手は警告したのか。それが「毒」である可能性があると。
以前より放っている「影」が焦ったように現物を携えて報告してきたのも、薬だと認められないからではないだろうか。
「そういう考え方があるのもわかる。だが何らかの陰謀である可能性も現状否定できない。大変だと思うが、引き続き調査を継続して貰えないか」
「畏まりました」
ルデアの負担になる事はわかっていたのに、それでも様々な可能性を考慮した場合、ここで調査をやめるわけにはいかない。
それに、姫は本来薬に溺れるような人ではない。だからこそ……。
「殿下」
業務を終えて私室で酒を口にしていると、静かに図体のでかい男が部屋に入ってくる。
王族の私室に入れる者など、ごくごく僅かな者だけだ。
「お寛ぎのところ申し訳ございません。少々お時間をいただけますでしょうか」
畏まった挨拶に、氷と酒の入ったグラスを片手に持ち上げて笑みを作る。
「一人で飲むのはつまらない。付き合えよ、ギー」
くすりと笑みを浮かべて頷き、ギーは控えていた侍女たちに何かを告げて退室を促す。
王族を母に持つギーの言葉に異を唱えるなど、一回の侍女に出来るわけもない。ギーの耳打ちから暫くすると、数人控えていた侍女は跡形も無く姿を消す。
普段の近衛の制服ではなく、仕立ての良い上品な服に身を包んだギーがカチャリと扉の鍵を閉める。
「やけに厳重だな」
濃い酒をちびりと飲みながら軽口を叩くと、ギーはコホンと咳払いをする。
「誰が敵かわかりませんから」
さらりと告げ、慣れた風情で目の前の椅子を引いてどかっと腰を下ろす。
「お前がここまで来るのは珍しいな。普段はそういう貴族然とした格好だって嫌がるのに。どうした?」
「殿下に言いたいことがあっただけですよ」
業務中なら「申し上げたい事がございまして」と畏まるところだろうが、この部屋の中ではそのような形式は必要としていない。外戚の一人としてか、もしくは幼馴染としてか、少し踏み込んだ話をしたいということだろう。
自分で棚から取ってきたグラスに酒を注ぎ、ギーがそれを一気に飲み干す。
あまり量は入れていないとはいえ、かなりきつい酒だ。それにギーは我を忘れるような酒の飲み方はしない。
常とは異なる態度に首を傾げるしかない。
ついっと向けられた視線と深い溜息に、何やら言いにくいことでもあるのだろうなと察する。常日頃からギーやルデアには小言を言われっぱなしで、細々とした忠告は受けているつもりだが。
こんな王宮の奥深いところまでギーが赴いたということは、それだけの案件だということだろう。
「それは友人として? それとも大公の子息として?」
「……殿下の部下として」
一拍の間の後、溜息交じりに吐き出したギーの目には迷いが無い。
無骨なばかりの男ではなく、機微のわかる男で人脈もかなり広い。海軍に所属していた過去、貴族の最高峰である公爵の跡取り息子としての顔、そして祭宮付きの近衛兵としてのツテ。その性格によるところも多分にあるが、俺が情報を収集するようになり、その情報収集能力の高さには舌を巻いた。
そんなギーが、何かしら人知れず報告すべき情報を掴んだのかもしれない。
「王立医学院の件ですが」
「院長が信頼に足る人物では無いとか?」
「いえ、そういう類のものではありません」
ごくりとギーが唾を飲み込んだのがわかる。そこまで緊張しているのは何故だろうか。膝の上で組んでいた両手をぐっと握り締めたのがわかる。
下唇を噛み、ふーっと大きく息を吐ききったかと思うと、今度は真っ直ぐに迷いの無い目を俺に向ける。
「あの薬の出所。ギルドではありません」
「……は?」
素っ頓狂な俺の声さえも気にせず、ギーの瞳には憂いの色が広がっていく。
「精製したのはギルドで間違いないでしょう。ただその後どこに流れたかという問題になりますと、非常に複雑で」
いつに無く切れ味の悪い語り口調がらしくない。単刀直入に要点だけを話すか、嫌味を垂れ流すかの二者択一がギーの持ち味、いやルデアも同じようなものか、なのに。
「まどろこしい事は無しだ。結論から話せ」
視線がぶつかり、沈黙が流れる。
長い長い沈黙の間、空になったグラス二つに酒を注ぐ。
琥珀色の液体がゆらゆらと蝋燭の明かりで揺らめく。光を反射して輝く液面が、グラスを傾けることによって不思議な色合いを醸し出す。
くるくるとグラスを回し、何を考えるでもなく琥珀色の液体を見つめている。その間ギーはというと、決してグラスに手を伸ばす事も無く、一人、自分の世界に入り込んでしまったかのようだ。
「殿下」
目が合った時には、すべての覚悟を決めていたようだ。
「今回の件、国王陛下か先王陛下のいずれかが裏で糸を引いております」
「兄貴か父上が、だと? それはどの筋からの情報だ」
ふうっと大きく息を吐き、ギーが目を伏せる。
「……何度調べてみても、スージに行き当たるのです」
酒がめっぽう弱く、いかにも貴公子然とした幼馴染で部下の男の顔が頭を過ぎる。
スージが絡んでいるから、ルデアもギーも口が重たかったのだろう。ルデアが切れ味悪く、陰謀では無い可能性を示唆したのもスージがそれ故か。
「ジルレイ公爵の子息か」
その名の示すところに、思い当たる事が無いわけではない。
「ジルレイ公が動いているわけではないのか」
「はい。『闇』を動かしている気配はありません」
「そうか」
舌打ちし、腕を組んで考える。歴代ジルレイ公は国の暗部において活躍している。『闇』と呼ばれる国の諜報部門を統括している。それを知るのは王家に連なる者のみ。
ジルレイ公自ら動いているのではなく子息であるスージが動いているのだとしても、恐らく『闇』への依頼があったからだろう。
現在『闇』に依頼できるのは、先王である父上、国王である兄貴のいずれかだ。ギーの推測は正しい。
しかし何故、姫の周囲で『闇』が動いているのか。そしてそれはいつからだったのか。その根幹にあるものは何なのか。俺にはわからないことばかりだ。




