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王子様の恋  作者: 来生尚
巫女こもごも
18/48

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 全く開こうともしない硬く閉じられたまぶたに、暗い予感が胸を過ぎる。

 ほんの数時間前の「憑依された人間は死ぬ事が多いそうですよ」というルデアの言葉が思い出され、冷え切った彼女の体をぎゅっと抱きしめる。

 このまま奪われてしまうのか。この世でただ一人愛しいと思う彼女を。

 嫌だ。そんな事は耐えられない。

 ウィズと呼んで俺を真っ直ぐに見つめる瞳。たった一人、王子でも祭宮でもなく、ただのウィズとして俺を見てくれるのに。

 一生するはずの無かった恋を、彼女が教えてくれたのに。

 王冠よりも欲しいのに。

 違う。憑依なんかじゃない。このままその命の灯火が消えたりなんかしない。

 言葉もなく壁際で立ち尽くしている神官たちに声を掛ける。

「君たち、何をしている。早く医師を呼ぶんだ」

 まるで抜け殻のように呆然としている神官長では話にならない。適切な判断が出来るとも思えない。

 俺が動かなかったら、彼女が永遠に失われてしまう。

「何をしているんだ、早く!」

 いつまで立っても動き出そうとしない神官たちに怒鳴り、腕の中の彼女に再び目を向ける。

 冷たい体。青褪めた表情。紫色の唇。

 その全てが死に直結するもののように思えてくる。

 古い民族衣装でもある巫女の正装は薄く、細い肩や首筋が露になっている。これでは余計に体が冷えてしまう。

 両腕で彼女を抱え上げ、先ほどまで座っていたソファに彼女の体を横たえる。

 床に落ちた外套を拾い上げて彼女に掛けようと思ったが、それもまた冷え切っていたので、上着を脱いで彼女に掛け、その上に外套を掛ける。

 膝を折り、瞳を開かない彼女の両手を握り締める。冷たい感触が掌に伝わってくる。

 頼むから死なないでくれ。

 ばたばたと神官たちが部屋に雪崩れ込んでくる。慌てて入ってきた神官たちの中に、先の神官長付だった老神官もいる。

 老神官と目があうと、老神官はこくりと頷き返す。

 王宮にいた頃から神官長の主治医をしていた医師が彼女を診察する為に近付いてきたので、場所を譲って立ち上がる。

 誰もが固唾を呑んで見つめている中、神官長だけが心ここにあらずの状態で椅子に座っている。その姿はまるで抜け殻のようだ。普段の凛とした神官長の姿も、恋する少女のような浮ついた様子もない。

 付き従う神官が何か話しかけているけれど、まるで壊れた人形のように虚ろなままだ。巫女も心配だが、神官長も違う意味で心配だな。

 再び彼女と医師のほうへと視線を戻すと、医師がこちらを振り返る。

「お命には別状は無いようです」

「では、ただ気を失っているだけなんだな」

「はい。さようでございます。ウィズラール殿下」

 医師を信頼していないわけではないが、確認する為に膝を折って彼女の顔を見つめる。

 先ほどは焦って確認する事も忘れていた規則正しい呼吸音が耳に届き、彼女の命に別状が無い事がわかると、自然と頬が緩む。

 少し乱れた髪と額、それから頬に触れると、冷え切った体に少し体温が戻ってきている事がわかる。

「きちんとお調べしたわけではありませんので、原因まではわかりかねますが、例えば高熱で倒れられたというような類のものではなく、眠っている状態に近いかと」

「そうか」

 良かったという言葉を飲み込んだ。

 もう一度だけ彼女の髪を撫でてから立ち上がる。

 目が覚めるまで傍にいたいと願っても、ここに俺がいて何か出来るわけではない。寧ろ俺が居る事によって、神官たちも動きにくいだろう。

 祭宮はこの一室以外、神殿内への立ち入りを禁じられている。

 いつまでもこんなソファに彼女を寝かしておくわけにも行かない。

 離れがたい気持ちをひた隠し、神官たちに彼女を託して神殿を後にする。

 その意識が戻れば連絡が来るだろう。もし異変があれば、それもまた連絡が来るだろう。何も無いことを信じるしかない。どうか無事であって欲しい。

 あれが憑依なのかどうかはルデアの意見を求めてみればいいだろう。

 認めたくは無いが、確かにあの瞬間目の前にいたのは水竜だったように思う。

 もし本当に彼女に憑依したのだとしたら、その命が遠からず失われてしまう事になるのだろうか。その辺りもルデアに意見を仰ごう。

 それも問題だが、神官長の件も見過ごせない。

 身体的に限界が近いというのは主治医からの報告で聞いていたが、あのような精神状態に陥っているとは思わなかった。

 何らかの手段を講じ、神官長を一時期でも神殿から遠ざけたほうがいいのかもしれない。このままでは神殿内に混乱をもたらす恐れがありそうだ。

 やはり本人が望んでいたとしても、巫女を辞めた直後に神官長になるという選択をすべきでは無かったな。

「これ以上ここにいても、皆さんのお邪魔になるだけでしょうから、わたくしはこれで失礼致します」

 本当は目を覚ますまで傍にいたい。

 このまま傍で見守りたい気持ちを振り切るように立ち上がり、神官長へと声を掛ける。

 正気に戻っているといいのだがという願いを込めて。

「このお天気ですから、どうぞお気を付けてお帰りくださいませ」

 こちらを一瞥しようともせず、棒読みの心の篭らない言葉に一瞬眉を顰めるが、溜息を押し殺してもう一度神官長へと話掛ける。

「では失礼致します。巫女様はこの国にとって大切な方。何かお変わりがあれば、ご連絡をいただけますか」

 答えは無い。

 一瞬、部屋の中がしーんと静まり返る。

 聞こえているのか、俺の声は届いているのかと懸念したくなるほど、神官長の横顔は変わらない。

 これは、ダメか。

「ええ。かしこまりました。私共が全力でお守り致しますから、どうぞご心配なきよう」

 神官長の代わりに長老が答える。

 神殿内で実質実権を握っているのはこの老神官だという報告を受けている。

 任せても間違いないだろう。

 逆に糸の切れた人形のようになってしまった神官長と比べ、きちんと巫女である彼女に今後適切な対応を取っていくに違いない。いや、そうあって欲しいと願わずにはいられない。

「頼みます」

 俺の最も大切な女性を。

 後ろ髪引かれる思いを断ち切るように、彼女を振り返らずに部屋を後にする。

 もし振り返ってしまったら、もう一度この腕の中に抱きしめたくなる。ちゃんと息をしているのか確認せずにはいられない。そして腕の中から離す事が出来なくなる。

 目覚めるまでこの腕の中で、それが叶わないのならすぐ傍で見守っていたい。そうでなくては安心出来ない。

 知ってしまった。

 どうしようもなく彼女が愛しいのだと。

 だから上手く祭宮の仮面が被れなくなってしまう。

 ここに居続ければ、祭宮ではなく「ウィズ」が彼女を求め続けてしまうから、王家の祭事を預かる直系王族に相応しい振る舞いをする事が出来なくなってしまう。

 本当は不安で不安で仕方が無い。

 ちゃんと目覚めますように。

 その日、生まれて初めて水竜に祈った。彼女の命を奪わないで欲しいと。


 このままとんぼ返りでは兵たちの負担になるのでと言い訳をし、水竜の神殿から数時間の距離にある祭宮の居城に逗留する事にする。

 水竜の神殿にいる事は出来なくても、せめて少しでも彼女の傍にいたかった。

 そんな風に思ってしまうなんて、本当に恋ってヤツは。

 けれど心配で胸は張り裂けそうだし、気がつくと溜息ばかりが零れ落ちる。

 書類を前にしても内容が頭に入ってこない。その事に関してルデアに嫌味を言われるけれど、それもまた右から左へ聞き流してしまう。

 彼女は大丈夫なのか。それだけで頭が一杯だ。

 腕の中のとても軽くて細かった彼女の体が思い出される。そして同時に冷たく血の気の引いた体温も。

 どうか……。

 祈るような想いを打ち消す事なんて出来ない。その想いから逃れることが出来ない。

 コン。

 無機質な音が突然頭に響く。

 書類だらけだったはずの机の上に、グラスが一つ置かれている。

 いつの間にか真っ暗になっていた部屋の中、瞬きをして周囲を見渡す。

 今のはグラスを置いた音か?

 首を傾げてグラスを眺めると、目の前にルデアの姿が浮かび上がる。

「ああ、ルデアか」

「ルデアかじゃありませんよ。そんなに熱心に読むほどその書類にご興味が?」

 感情の篭らない声で呟き、ルデアがこほんと咳払いをする。

「酒でもどうです。この辺りはブドウ酒の名産地なんだそうですよ。せっかくだから飲みましょう」

 両手に酒瓶とグラスを持って、ルデアが対面に置かれている椅子に腰を下ろす。

 ポンという音を立てて酒瓶の口を開け、俺の前に置かれたグラスとルデアの前に置かれたグラスに真紅の酒が注がれていく。

 ゆっくりと注ぎいれられるのを見つめながら、ふっと思う。

 彼女の暮らしていた村も酒の名産地だと聞いていたな。彼女もこれを普段飲んでいたのだろうか。

「心ここにあらずですね。どうしました」

 ルデアの声ではっと我に返る。

「ああ」

 そう答えたものの、何をどう説明したらいいのか。事実をありのままに伝えれば、ルデアはきっとそれに対する自分なりの意見を述べてくれるだろう。けれど、それを口にするのは躊躇われた。

 口にすれば、それを認めてしまう事になるような気がして。目の前で起きた奇跡を。

 何も答えない俺の様子に肩をすくめ、ルデアはふうっと溜息を吐き捨てる。

「宝石の人と呼ばれる方。本当にあなたの青い石の片割れはあの白亜の城の貴人なのですか」

「ルデアのところに、報告はきているのだろう」

「ええ。知っていますよ。けれどあなたがお持ちになっている輝石と、貴人がお持ちの輝石が同じものなのかは知りません。ただ、あなたが貴人に宝石を贈ったという事実は存じております」

 さらっと言いのけ、ルデアはぐいっとグラスを傾ける。

 肩肘をつき、窓の外を眺める。

 見通しの良い場所にある城からは、水竜の神殿が良く見える。雪もやみ、宵闇の中で白くまるで輝くように鎮座している。

「今日だけは、あそこにいたかったな」

 ぽろりと本音が漏れる。

 誰に言うでも無く、ただ本心が零れ落ちた。そのような事は出来るはずもないと知っているのに。

 聞こえているだろうけれど、ルデアは何も口を挟まず、淡々とグラスを傾ける。

 長い長い沈黙。

 何か言ったほうがいいのかもしれない。ルデアもそれを待っているのだと思う。けれど適切な言葉が浮かんでは来ない。

 何を伝えたらいい。

 この心の中にある想いなのか。それとも今日目の前で繰り広げられた光景なのか。

 まぶたの裏には、はにかんだ彼女の笑顔と同時に威圧するような蒼の瞳が浮かぶ。そのどちらも彼女である。けれど決して同じものではないとわかっている。

 そしてそれを認めてしまえばいいのだということも。

 認めたくないのは、彼女が類稀な存在だという事ではなく、近い未来命が奪われてしまう可能性があるという事なのか。それとも水竜に気圧されたという事実なのか。

 両手で頭を抱え、ぎゅっと髪の毛を握り締める。

 全然違う髪質。柔らかくてふわっと香水の香りが漂った長い髪。

 ものすごく鮮明に覚えているのはどうしてなのだろう。

 この体の全てが彼女の形を覚えている。髪の一房さえも記憶している。

「ルデア」

 顔を上げ、何も言おうともせず無表情に徹している部下であり友である相手に声を掛ける。

「何でしょう」

「秘密を共有してみる?」

「……ギーでは無く、俺が、ですか?」

 細切れに区切りながら、しかしはっきりとした声でルデアが言う。

 四人の幼馴染の中で最も近い存在であるのはギー。それは自他共に認める事実である。だからルデアは俺の発言に疑問を持ったのだろう。

 けれど、今、誰かに心中を吐露せずには居られなかった。

 そして今日の出来事に関して言えば、最もそれを共有するのに相応しいのはルデアであると思う。

「別にギーだけが特別だって訳じゃない。お前だってスージだってライだって、皆俺にとって特別だよ。それに今日はルデアの知恵を借りたいんだ」

 一部始終、なるべく主観は排して神殿での出来事を話すと、ルデアの顔が一気に険しくなる。

 途中で口を挟まずに聞き続けていたルデアは最後まで聞くと、短く「わかりました」とだけ答える。

「とりあえずは神殿からの報告を待ちましょう。本当に今の方が特別な才能をお持ちなのかどうか、影たちの意見も聞いてみたいですし、今、何かを即断する事は出来ません」

 それと、と付け加えるように呟いたものの、ルデアは口を閉ざしてしまう。

 何か考え込むように宙を仰ぎ、ふーっと大きく息を吐き出す。知識豊富なルデアだけに、色々思うところもあるのだろう。

 窓の外を眺める。

 ここから見える水竜の神殿はとても近く見えるのに、とてもとても遠くて近付けない。

 たった一人の祭宮なのに、俺は神殿に居る事さえ許されない。それが神殿開闢以来の不文律だという事はわかっているのに、どうしても求めてしまう。彼女の傍にいたいと。

 彼女、ササは目覚めただろうか。命に別状は無いだろうか。体調不良などの異変は無いだろうか。

 目を瞑ればまぶたの裏側には蒼の瞳。そして冷たくなった彼女の青褪めた横顔。

 一分一秒が長く長く感じるほど、神殿からの報告を待ちわびている。大事無かったという報告を。

 それは祭宮という公人の感情ではなく、カイ・ウィズラール個人の感情に寄るものだろう。

「今日の件、口外致しません。この情報が外に漏洩しても良い結果をもたらすとは思えません。もし憑依したのが事実でお命に別状が無いということになると、歴代の巫女の中でも傑出した人物である可能性があります。それを王太子殿下や将軍閣下が知った時、利用しようとなさるかもしれない」

「……ああ」

「けれど巫女はあなたの運命なのですから、お二人が手を出そうとも最後はあなたの元に紡がれるでしょう」

「どうだろうな」

 未来は水竜にしかわからない。今回のことは既知の事実だったのか、それとも予想外の出来事だったのか。これも含めて運命なのか。

 唯人の俺には知る由もない。

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