55 少女と鳥
いつもと同じように、鼻歌を歌う少女は描き上げた絵を見てにっこりと笑った。
満足そうに頷いて周囲を見回せば、床を埋め尽くすような絵の数々。
「たくさん描いたな」
「うん。いっぱいかいた。もっともっと、かくよ」
「あまり描きすぎるなよ。収拾がつかなくなる」
「でも、かかないとせかいはせまいままだもん」
落ち着いた男の声が響き、少女の前に一羽の鳥が舞い降りた。知り合いなのか、白い鳩を見つめた少女は「ふふふ」と笑う。
白いワンピースを揺らし立ち上がった彼女がゆっくりと瞬けば、床に置かれていた画用紙が宙に浮く。
クルクルと回転しながら球体を作ったかと思えば、今度は等間隔に並んで少女と鳩を囲むように回った。
「余計な介入までして……」
「だって、あのこなにもないよ? くりかえしたのはあなたのせいなのに」
「う……」
「あいつの様子はどうだ?」
「きづいてないよ。なにをさがしてるのかも、もうわすれてる」
少女が描いた絵が、少しずつ鮮明になり実際の光景と重なってゆく。
画用紙は薄いモニターのようになり、描かれているものを眺めていた鳩は溜息をついて「また、次か」と呟いた。
女が刺し殺されてる絵。絞め殺されている絵。必死に逃げてる絵に、車に轢かれる直前の瞬間を切り取ったかのような絵。
そして、夕日をバックに立ちすくむ少年の絵。
何度も何度も自分を殺す少年の様子と、黒い涙を流し続ける絵。
「あの子はどうなった? 鍋田安江」
「こころはおちついたけど、こわれやすいからむかない」
「遠藤って子は?」
「あれはておくれ。あそこまでいったら、またやりなおさないかぎりはむり」
「自分で手ぇ出せないからって、そういう手を使ってくるなんて酷いよなぁ。ある程度は抑えたはずなんだけど」
「……わたしもばらばらだから、かんぺきにはむりなんだよね」
絵、が現実と重なってゆく。
鳩が見つめる先の画面には、榎本稔に背後から刺されそうになっている由宇がいた。
彼の表情は苦痛に満ちており、その後の展開なんて見なくとも想像できてしまう。
今までも何度も見てきた彼女の終わり方だ。
「あいつらは、もうどうにもならないのか」
「ならない。こていかしちゃったから。かれらはもう、じぶんでそのみちをえらんでる」
「だからって夢の中まで操作したら、現との境がつかなくなるだろう?」
「そのくらいのていどはわきまえてまーす。なにもしなかったら、いつもとおなじになるだけでしょ」
「しかしなぁ。余計混乱するような気がするんだが」
「もんくいうなら、なんとかして」
ムッとした少女が両頬を膨らませ鳩を睨み付ける。
片方の羽で頭を器用にかきながら、鳩は視線を逸らした。
「いやぁ、だって俺はただのハトだしなぁ」
「とりあたまだもんね」
「誰がだ。優秀で美麗な鳩様だぞ」
もっと敬えと告げる鳩を無視して、少女は手にしたクレヨンで画用紙を染めてゆく。
床にはみ出すのも気にしないで、少女は描いた女の子と男の子に大きな花丸を描いた。
「直人の面倒見んのも大変なんだぜ? 大体、やっとの事で登場できたってのに、状況は悪化するばっかりだからな」
「あのこはきぼう。そして、すくうものだからあなたがむしろじゃま」
「オイ。というか、何で俺が由宇んとこじゃ駄目なんだよ」
「あのこのとこにはあのこがいるもん」
「だから心配なんだろうが」
自分の役目も忘れてフラフラとしているあの存在が、本当に安全だとは言い切れない。面白くないとばかりに鳩は近くに転がっていたクレヨンを蹴り飛ばした。
「たぶん、あのこはだいじょうぶ」
「何でだよ」
「おんなのかんってやつ?」
「はいはい」
少女にしては似つかわしくない落ち着いた声と表情に、鳩は大きな溜息をついて床を歩く。
去ってゆくその様子を見ながら少女は再び画用紙に絵を描き始めた。
歌い始めた少女の声に反応するように、宙に浮いていた画用紙はゆっくりと落下し床に吸い込まれてゆく。
そして、場は再び少女の歌声に満たされた。
変な夢のことをイナバに話した。また軽く馬鹿にされるのかと思っていたけれど、黙ってしまったのが気になる。
よく分からないとか言いながら、空白の部分が埋まったような気がすると呟いていた。
欠落した部分が埋まればイナバの事が詳しく分かるからいいけれど、もしかして言わない方が良かっただろうか。
それが良い方向へ向かうのか、それとも悪い方向へいくのかが分からない。
自分で自分の首を絞めているような気もしたが、今更かと苦笑した。
「あー、眠い」
それにしても眠い。
睡眠時間は充分に足りていて、多すぎるというわけでもない。
けれども最近は常に睡魔が襲ってくるので格闘するだけで大変だ。
家にいる時ならまだしも、授業中やバイト中では洒落にならない。
小さく欠伸をしながら腕時計を見る。
今の授業が終わるまであと一時間はあった。
十五分くらい眠れば頭が少しはすっきりするだろうかと周囲を見回す。
私がいる場所は、食堂の中でも人が少ない所だ。周りにはちらほらと学生はいるが、それぞれ本を読んだりスマホをいじったり、勉強をしている人もいる。
賑やかな声が聞こえてくるエリアから離れているので、ここで昼寝をした所で目立ちはしないだろう。
そう思っていたのに。
「当然のように、隣に座られるとびっくりするんですけど」
「あ、ごめん。何だか真剣な顔してたから声かけて邪魔するのは悪いと思って」
にっこりと爽やかな笑顔さえ浮かべれば良いと思っているんだろうかと、本気で疑問に思う。
気配もさせずにいつの間にか座っていた恐ろしい男は、笑顔でそう誤魔化した。
普通、座る前に座ってもいいかと聞くものではないだろうか。
無断で座った所で罪に問われるわけではないけど、普通はそうするだろう。
「だったら普通は避けません?」
「いや、逆に心配になっちゃってさ」
間近で見れば見るほど、整った顔には憎しみすらわかない。
この外見と雰囲気で今までどのくらい特をしたんだろうと考えてしまう私は夢が無いんだろう。
彼の言葉に苦笑しながら私は軽く首を振った。
「大した事じゃありませんよ」
「えー、そんな風には見えなかったけどな?」
随分と食い下がる人だ。
にこにこしながら「へーそうなんだ」とでも言っておけばいいだろうに。
そもそも、ここにいるのが間違っていると思うけれどそれを言ったところで彼に通じるか不安だった。
「えーと……最近、そんな風にイヤホンしてる子多いなぁと思って」
「ああ。たぶん、みんな今流行りの音楽聞いてるからだと思うよ。すごくノリが良くて、ずっと聞いていたくなるんだ」
何となく最近気になっていた事を言って正解だったらしい。
誰が何を聞いていようがそれは個人の自由なので好きにすればいいと思う。しかし、最近は特にイヤホンやヘッドホンをしている人達が増えたような気がした。
引っ掛かりを感じたのは、友達と話しながらや講義を受けながらイヤホンをつけている人が増えてきてマナーが悪いなと思ったからだ。
そう言えば、ユッコも最近はまってる音楽があると言っていたがもしかして同じものだろうか。
最近忙しそうで授業が終わるとすぐに帰ってしまうけれど、今度会ったら聞かせてもらおう。
「へー。中毒ってやつですか」
「いやいや、エンドレスループだけど中毒じゃないよ」
「……充分だと思います」
爽やかな笑顔で言われても中毒は中毒だ。
常時イヤホンが離せなくなるくらいに夢中になってしまう音楽とは興味がある。
こんな展開は初めてだ、と不謹慎にも胸を躍らせて私はスマホを操作した。
ロックを解除すると、話を聞いていたらしいイナバがウェブのページを開いてくれる。
検索サイトの結果を見ていると、皆同じ音楽について熱く語っている様子だった。
「へぇ、有名人もこぞってですか」
「ま、流行は作られるからね」
「私みたいに取り残されてる人もいますけどね」
「それはしょうがないよ。試しに聞く?」
「え?」
左隣に座っている榎本君が右耳につけていたイヤホンを外して差し出してきた。
思わずぽかんと口を開けて凝視してしまった私は、どう反応していいのか判らず視線を逸らした。
聞きたい。聞いてみたい。その欲求はある。
けれど、一つのイヤホンを二人で使うなんてそれはまるでカップルのようではないか。
美形には慣れたとは言え、甘い空気や展開は画面の中だけで繰り広げられるものだと思っていたので対処に困る。
「いや、それは……」
流石の私でも照れてしまうと軽くお断りしていたら、左耳につけていたイヤホンが目の前に置かれた。
あぁ、勘違いですか恥ずかしいと思っていると、彼はプレイヤーを弄りながら「はい」と笑顔で言ってくる。
「でも……」
「言っておくけど汚くないからね」
「そんな事気にしてないです」
寧ろ、榎本君のものなら何でも欲しいと思うような方々に見つかったら私の命が危ない。
しかし、せっかく彼が聞かせてくれるというのだ。
失礼して榎本君のイヤホンを装着させてもらう。
「流行ってる音楽は幾つかあるんだけど、アングラ的に人気なのは多分これだと思うな」
「アングラ?」
「一般的に有名なアーティストじゃないってこと。知る人ぞ知る、みたいな感じかなぁ」
最初にまず榎本君が聞いていた曲を聞かせてもらう。
音楽に詳しくないけれど、リズムが良くてノリノリな曲だ。ダンスフロアでかかってそうな、そんな曲。
それから次々に曲が流れていき、その中には聞いた事がある歌もあった。
「じゃ、次が大本命ね。いくよ?」
「お願いします」
ボタンを押した榎本君を横目で見ながら私は窓の外へと目を向ける。
そうじゃないと、隣にいる榎本君がにこにこしながら私を見つめてくるからだ。
小さく息を吐いていればイントロが聞えてくる。
しかし、その途中で突然悪寒がして、気付けば私はイヤホンを外していた。
「羽藤さん?」
「榎本君……これ、消して。すぐに消して。いいから、何も言わずに消して。これ、駄目……ぜったい」
「え?」
戸惑う榎本君を見ながら震える声で続けた。
彼のイヤホンをプレーヤーごと放り投げてしまいたい衝動を抑えられただけマシだろう。
「分かってる。おかしい事言ってるのは分かってるけど、生理的に無理。体内に取り入れちゃいけない毒みたいなものだよこれ」
「……あぁ、やっぱり」
頭がおかしいと思われるに違いない。
近づいたら危ない人物だと思われるかもしれない。
けれど、本当にあの音楽は少し聞くだけで悪寒が駆け抜け、吐き気と眩暈が止まらなかった。
口を手で覆いながら、困惑する彼を想像していれば意外とあっさり頷いてくれたのでびっくりしてしまう。
「え? 信じるの?」
「羽藤さんが僕に嘘つく理由がないと思う」
少し困ったように眉を寄せて呟いた榎本君に、私は寒気を感じて距離を取った。
とは言っても窓際に座ってる私が逃げられる場所なんて限られてるので、本当に逃げたかったら榎本君に退いてもらうしかないが。
体力気力共にごっそりと失ったような状態の今は移動するだけでもつらい。
「それに何となくさ、流行ってるからって聞いてみたんだけどちょっと僕には合わなくて」
「……電子ドラッグ」
「あ……っちゃー。やっぱりそれ系か」
「でも多分、合法ってつくやつだと思う。私、そういうの駄目なんだ。駄目って言うか、拒絶反応が顕著っていうか」
「麻薬探知犬みたいだね」
プレイヤーを操作して削除する榎本君を見ながら、私は震えが一向に止まらない事に気がついた。
何となく嫌な予感がしてた時点でやめれば良かったのに、好奇心に負けたからこのザマだ。情けない。
「消して、いいの?」
「いいも何も、僕もそういうのは嫌いだから。もしかしたら、とは思っていたけどあんまりそんな話も出てないくらいに人気だったからね。流行に乗ってみようと思っただけだよ」
「多分、その内規制対象になるんじゃないかな」
「そうだろうね」
誰か他の人に相談してみようかと思って浮かんだのは、尾本さんの顔だった。
相手にしてもらえるか分からないが、連絡してみようと思う。
テーブルの上に伏せていたスマホは私が電源ボタンに触れる前に画面が明るくなった。
表示されたイナバの吹き出しには『メールを送信しておきました』と書かれていて、あまりの察しの良さに私は小さく肩を揺らした。
そう言えば、こんな身近に怖い存在がいたのも忘れていた。
「ええと、答えられなかったら答えなくていいんだけど、羽藤さんはそういうのを聞くと恐怖を感じるの?」
「うーん。恐怖もあるけど、それよりも、嫌悪感とか不快感が強いかな」
震えるのはドラッグによる中毒になる前兆だ。その時点で何とか対処できればいいが、できないとドラッグ無しでは生活できなくなってしまう。
直接体内に摂取するドラッグよりは大した事がないだろうと手を出す人が多いが、下手をすれば意識不明になったりするので危険だ。
けれど、どうして私はそんなに詳しく知っているんだろう。
拒絶反応を起こしたり、自分でも驚くほど電子ドラッグに詳しい。
という事は、前にそんな事があったという事か。
電子ドラッグが原因で死亡した時があったのかもしれないが、覚えていなくて悔しい。
「これはさ、聞く人を選ぶ音楽と騒がれてるんだ。だいたい、若い人にしか聞えないみたいだね」
「……音楽が、選ぶ」
「面白い話だったから興味があったけど、気軽に流行りに乗るもんじゃないね」
「はぁ」
「助けてもらったお礼に何かしたいんだけど、連絡先交換しない?」
イヤホンやヘッドホンを常時しているような人達は、みんな選ばれたという事か。
それにしても音楽が聞く人を選ぶなんて変な話だ。
そもそも、イヤホン等をしなければ不快な音しかしないというのも不思議だ。
「いや、別に私はそんな大した事してませんし」
「いいや。羽藤さんのお陰で僕は無事なわけだし」
「まだその曲がドラッグがどうかは分かりませんから」
感謝してくれるのはありがたいが、礼をされるほどではない。
恐縮してしまう私に榎本君は笑顔で首を傾げた。
「羽藤さんは、僕が苦手?」
「ええと、その。慣れないというか」
「あぁ、そっか馴れ馴れしくてごめんね。でも前にも言ったけど、僕とまともに話してくれる女の子って貴重だから、大切にしてるんだ。あ、勿論それ以外の女の子もね」
「はぁ」
それがどうして連絡先交換に繋がるのか。
疑問に思いながらも警戒を緩めないこんな私だから、ノリが悪いとか付き合いが悪いと異性は思うのかもしれない。
もっとも、それ以前に近づいて来る事もないが。
「電話番号なんていきなり失礼なことは言わないよ。フリーのメアドでいいから教えてくれないかな?」
「あの、ですからそこまでしなくても」
「僕の我侭、聞いてくれないかな?」
普通に考えればこんな美形に連絡先交換しようと言われて嬉しくないわけがない。
いくらイケメンを見慣れたとは言え、今は攻略モードに入っているわけでもないので心臓はバクバクだ。
これがループから抜け出す為の手段だとしたら、笑顔で交換していた事だろう。
度胸の無さに溜息をつきながら、私は彼と連絡先を交換した。
「ありがとう。強引に聞いてしまってごめんね?」
「いえ……」
周囲に人が少なくて本当に良かった。
そうホッとしていたのに、リュックからお洒落な雑誌を取り出して「ここのカフェ、緑がたくさんでいいと思わない?」とか聞いてくるのはやめて欲しい。
「そう言えば、北原さんも手厳しいけど面白いよね。メールも女の子らしく絵文字でカラフルなんだ。凄いよね、女の子って」
「え、もうそんな仲なんですか?」
モモからそんな事は聞いていないが、エア彼氏のサトル君は一体どうなったんだろう。
どれだけ榎本君が爽やか笑顔が素敵な美男子とは言え、サトル君には敵わないはず。
そもそも、異性との連絡先交換なんていうのは彼女が一番嫌がりそうな事だ。
一体二人の間に何があって仲良くなったのか気になって仕方が無かった。




