39 選ばれし者
神は僕に味方した。
ある日差出人不明の迷惑メールが届いた。
内容は文字化けしていて何だかよく判らなかったが、あの女が言っていた通りに最後までスクロールするとリンクが貼ってある。
ウイルスに感染する恐れもあったが、好奇心が勝り僕は何となくそのリンクを踏んだ。
飛んだ先は何の変哲もない真っ白いページで拍子抜けしたのを覚えている。
そしてその日の夜に、僕は神の声を聞いた。
真っ白な空間は広くて何もない。
大きな箱の中に入っているような感覚を抱きながら、僕はおかしな夢だと地面を蹴る。
つるりとした石床は丁寧に磨かれていて父さんが見たら欲しがるだろうなと思った。あの人は自分が気に入ったものなら金を惜しまない人だ。
母親もそうやって手に入れてきた。そして、僕にもそれが当然だとでもいうように教えてきたが、生憎僕はあの男と同じような感性は持ち合わせていない。
強引に手に入れて何になる。結局母さんは僕を産んだ後に死んだじゃないか。
どうせなら僕も殺してくれれば良かったのに、とは今でも思う。
写真の中で時間を止めている母さんは、確かにあの男が言うように美しくて優しい女性だった。
けれど自分の妻が死んだというのに、父さんはそれほど悲しむ事もなく次の妻を迎える。
母さんとは正反対の女は、跡継ぎである僕にも媚びた目をして不愉快だったのを思い出した。
目の前には僕の回想が形になって現れる。
そういう場所らしいのだから当然だろうと思う反面、美しいままの姿で僕を優しく見つめている母さんに心が強く揺さぶられた。
僕は誰よりも何よりも母さんが大好きだった。大切だった。
母さんが例え僕を愛してくれなくても、幼い頃に注いでくれた愛情が嘘でも、それでも大好きだった。
だから、母さんに酷い事をしたと知ったあの男のことは昔から嫌悪していた。
もう少しその事実に気付くのが早ければ、母さんは己の身を悲嘆して自ら命を絶つようなことはなかったのかもしれない。
いや、無理か。
あの頃にその事実に気付いたところで、無力な僕には何もできなかったんだから。
できるとすれば「僕も一緒に殺して」とお願いするくらいだ。
いいや、それも無理か。
優しい母さんが僕を殺せるわけがない。だったら、あの時に僕は誰よりも先に母さんを見つけ出して、一緒に逝ってあげれば良かったんだ。
跡継ぎなんて別に僕じゃなくても作れるというのに、あの男は長男としての僕を手放そうとはしなかった。過干渉じゃないだけ良かったが、あの男の下で飼い殺しされながら過ごす日々は苦痛でしかない。
隙を見て僕を襲おうとする愛人たちも鬱陶しいものだ。
「イイモノが見れるって言ってたから期待はしたが、くだらないな。あんな女の言葉を少しでも信じた僕が馬鹿か」
分かっていたが、暇だったというのもあって試してみたくなっただけだ。
陶酔するような目をした女が言っていた通りの現状には少し驚いたが、それだけだ。「見れば分かる」と言っていたが何も変わった事は無い。
ただ、僕の過去を映し出して劇のように見せられているだけ。
夢にしては鮮明で、頭はすっきりとしている。
「務」
ずっと焦がれていた声に名前を呼ばれた僕は弾かれたように顔を上げ、全身を震わせた。
こちらを黙って見つめていた母さんが、ふわりと微笑んで僕の名前を呼んだ事に気付いたからだ。
夢なのにその声は耳を擽り、心臓をぎゅうと掴むような苦しさを与える。
懐かしくて仕方が無くて、ずっと焦がれていた光景に僕は言葉が出なくなった。
例え目の前の母さんが虚像でも、今まで一度も夢に出てくれなかった母さんがこうして存在してくれるだけで嬉しい。
軽く両手を広げて僕を見つめる母さんに、僕は今までに無い昂りを感じていた。
「母さん……母さん」
「大きくなったわね、務」
ふらふらと母さんに近づこうとした僕は、唇を噛んでその場で立ち止まった。
戸惑った様子でこちらを見る母さんは不思議そうな顔をしている。
僕は汚い。
母さんが望まずに孕み、産まれた存在だ。
そして、母さんが毛嫌いしているだろうあの男の血が流れている。
優しかったと思っているのも、僕がただそう思い込みたいだけかもしれない。
「務?」
「ごめんね、母さん。僕はとても汚いんだ。貴方を無理矢理自分のものにした、醜い男の血が流れてる。だから近づいたら駄目なんだ」
「そんな事ないわよ」
「違う、違うんだ。母さんを汚した男の血が、僕にも流れてるんだよ? 腹が立ってどうしようもなく、母さんが自殺してしまった原因のあの醜い男の血が」
僕も何度死のうと思ったか。
きっと、母さんが死んだ時に一緒に死んでいればこんな苦痛は感じなかったんだ。
でも時機を逃してしまったから、母さんの無念を晴らすために生きる事にした。僕があの男から全てを奪って、母さんの代わりに復讐するために。
分かってる。母さんは優しいからきっとそんな事は望んでいない。
でも、僕は許せない。
母さんを追い詰めたあの男が許せない。そして、自分の存在も許せない。
「務。過程はどうであれ、私は貴方を産んだことを後悔なんてしていないわ」
「嘘だ! 嘘だ、嘘だよ母さん。母さんは本当の母さんじゃない。僕が思い描く理想像なだけだ」
「……可哀想な子。随分と追い詰められてきたのね」
誰も責める事無く抗えなかった自分を責めて押しつぶされた母さん。優しくて美しい姿はそのままに、僕を同情的な目で見る。
甘くて逆らいがたい僕が生み出した幻影。
頭ではそう分かっているのに、飛びついて抱きしめて欲しいと心が叫ぶ。
穏やかな声は優しく肌を撫でるような感覚を与え、僕は耳を塞いでその場にしゃがみこんだ。
「やめろ! ヤメロヤメロ!」
甘く柔らかで美しい思い出の中の母親を、自分が望む姿のままで投影されている存在は僕がずっと求めていた最愛の人なんかじゃない。
これは悪魔の誘惑だ、と自分に言い聞かせながらこんな場所があると吹き込んだ女を恨んだ。
僕が望んだままの人が目の前に現われるなら、僕の心が反映されてしまうなら何も考えなければいい。
そうすればこの逆撫でされるような感覚から逃れられる。
「落ち着いて、務」
「っ!」
そう思っていたのに。
静かに近づいてきた足音と、僕に触れた温もりは生者のようで驚いたあまり飛びずさってしまった。
恐怖からか腰が抜けてしまって動けない。
そんな僕を母さんは、困った子ねと言わんばかりに苦笑してゆっくりと近づいてきた。
衣擦れの音も、足音も明瞭に響いて僕の名前を呼ぶ柔らかな声に心が震える。
しなやかな指先が震える僕の頬に触れそうになった瞬間、僕は怖くて思わず目を瞑ってしまった。
「え?」
「可愛い私の務。私の希望」
「かあ……さ、ん?」
柔らかな感触がして抱きしめられたのだと知った。
鼻腔を擽る懐かしい母さんの匂いに僕は思わず抱きついてしまっていた。
幼子のように泣きじゃくって、何度も母さんの名前を呼ぶ。
母さんは子守唄を歌いながら僕を宥めるように何度も頭を撫でてくれた。
「まだ妄想の産物だって思っているの?」
「非科学的だよ。現実的じゃない」
「ふふふ。そういう所はあの人には似なかったのね」
「やめてよ。あんな男」
もう、自分の想像が生んだ虚像だろうがどうでも良かった。
求めていた温もりがここにある。甘えても拒絶されるんじゃないかという恐怖もなく、母さんは優しく僕を抱きしめてくれたままだ。
僕はもう高校生になるんだから、と唇を尖らせて母さんの腕を軽く振りほどけば寂しそうな顔をされた。
「私はずっと、貴方を見守ってきたのよ。そして、貴方は今大いなる使命の元にこうして私と再会したの」
「……え?」
胡散臭い宗教の勧誘のような事を言う。
少なくとも生前の母さんはそんな怪しげな宗教にはまっているような事は無かった。
僕の妄想の産物にしてもこんな母さんを思い描くわけが無い。
「ごめん、母さん。頑張ったんだけど、悉く逃げられたよ。いっその事、襲撃した方が早いと思うな」
「だめよ務。急いでは駄目。それに、彼女は手強い存在に守られている」
初めて夢の中で母さんに再会したのをきっかけに、それから僕はよく母さんとあの白い空間で会うようになっていた。無機質で面白みの無い場所に文句を言えば、場面は一瞬で美しい庭園へと変わる。
僕の五感はまるでその場所が現実であるかのように働き、僕も母さんとの幸せな時間を壊したくないからその存在も不思議な光景も否定する事は無かった。
再会した次の日に、母さんから言われた通りの場所を探して僕も知らない母さんの手記を見つけた。
母さんが愛用していた裁縫道具箱の底が外れる仕組みになっており、いつも肌身離さずつけていたペンダントが鍵となっていたのだ。
手記は読んだ後に隠滅するようにと言われたので、学校の焼却炉に投げ捨てた。
母さんの手記は僕にとって大きな転機になったのは言うまでもない。
だって、僕はあの男の穢れた血を持った子供じゃなかったんだから。
結婚する前に母さんには結婚を約束していた人がいたらしい。求婚されてそれを受け、幸せの絶頂にいたところであの男に全て壊されたと書かれていた。
母さんが妊娠に気付いたのはあの男と結婚してから。
最初はどちらの子なのか分からなかったが、産まれた僕の姿を見て婚約者の子だと実感したらしい。
幸か不幸か元婚約者もあの男も同じ血液型だったので、あの男は一切疑う事をしなかったと書かれていた。
何よりも僕が母さん似だったからというのも幸運だったのかもしれない。
それではどうして自ら死を選んだのかという僕の質問に、母さんはあの男に二人目を求められたが触れられるのもあの男の子を産むのも嫌だったので考えに考えた結果だったのだと言う。
確かに、死以外で逃れる方法など思いつかない。
あの男は欲しいものは何でも手に入れる。そして、逃げを許さない。
仮に逃げられたとしてもあらゆる手を使って探し出すだろう。僕は何度かあの男がそんな事をしていると聞いた事がある。
大した事が無い奴なら放っておけばいいのだが、あの男はそれを許さないのだ。
追い詰めて、恐怖に怯える姿を眺め、自分に逆らうとどうなるかを教えた上で満足そうに笑う。
無駄に金をかけたかくれんぼのようなものだ。もっとも、鬼に見つかった場合に待っているのは死だけだが。
「羽藤由宇……あの女がいつも邪魔をするんだ。僕だって、手荒い真似はしたくないのに」
「しょうがないわよ務。お友達なんだもの。乱暴は駄目よ、きっと話せば彼女も判ってくれるわ」
「分かってるよ母さん。北原さんが落ちたら、薬を打ち込めばいいんだよね」
「ええ、そうよ。少量の麻酔薬だから体に負担も少ないわ」
母さんに指示された通りに作った麻酔薬はいつでも取り出せるようにしている。保管場所、隠し場所も全て母さんの指示によるものだ。
学校での持ち物検査がある時も母さんの言う通りに行動すれば、見つかることは無い。
「でも、驚いたよ。まさか北原さんも僕と同じ“選定者”だったなんて」
「ふふふ。若い頃の私に良く似ているわ。務と一緒に並んだら可愛らしいカップルになるでしょうね」
「やだよ、僕。母さんみたいな女の人がいいんだから。でも、母さんの若い頃に似てるなら……考えなくもないかな」
「あらあら、この子ったら」
ある日聞かされたのは同じ学校に通う北原百香という女生徒もまた、僕と同じ選ばれた者であるという事だ。
母さんはその人生を哀れんだ神により、魂を拾われてその手伝いをしているのだと言った。
世界をより良いものにし、全世界の人々が幸せに暮らせるようにするために日々頑張っているのだが自分だけの力では限界があると。だから、僕に手伝ってくれないかと言ってきたのだ。
正直、胡散臭さを拭えなかった僕も本当に神は存在するのだという事を知って、母さんの手伝いをするようになった。
現世では動く事ができない母さんの為に、天の声を聞きそれを実行する役目の存在を“選定者”と呼ぶのだと言う。
そして、学校で知らないものはいないという程に存在感がある北原さんもまたその候補らしい。
潜在的な資格を持っているが、本人に自覚が無いので当然“選定者”としての自覚も無い。だから、母さんの元に連れてきて目覚めさせてあげる必要があると言っていた。
それにどうやら、北原さんとは波長が合うらしく上手くすればその体を一時的に借りる事で母さんが現世に来れるのだという事も知った。
それなら僕を使えばいいじゃないかと言ったけど、同性じゃないと上手くいかないらしい。
「でも、何度言っても聞かないよ」
「ゆっくりよ。焦る事は無いわ、ゆっくり見定めればいい」
そう言っていた母さんから計画中止が言い渡された時はどうしてかと思ったが、僕は何も言えなかった。
母さんが辛い顔をして僕を見つめているのなんて見たくないからだ。
きっと、母さんも歯痒くてしょうがないのだと僕には良く分かった。
だから久しぶりに母さんからその名前が出た時に、やっとその時が来たのかと嬉しくなる。
それなのに、今回も上手くいかず僕は怖くて仕方が無い。
母さんを失望させて、僕なんかいらないと思われてしまうんじゃないかと。
「母さんに言われた通りに行動したのに、いなかったんだよあの女。この前だってずっと警察といて無理だった」
「焦っちゃ駄目よ、務……っ」
「母さん!」
眠らずとも瞼を閉じればそこに広がる光景がいつも母さんと会う場所になる。
起きている時でも母さんとやり取りができるようになっていた僕は、苦しげに呻いて床に膝をつく母さんに何もできない自分がもどかしかった。
もし眠っていたら駆け寄って支えられたかもしれない。けれど、起きている今はそれができないのだ。
「母さん、やっぱり手段なんて選んでられないよ。だって、あの女は死ななかった」
「務、殺すのが目的ではないでしょう? 駄目よ、そんな事を言っては」
そう言って冷や汗をかきながら笑顔を浮かべる母さんに、僕は焦燥感を抱いていた。
母さんを二度も失くすなんて嫌だ。
でも母さんは手荒な真似は駄目だって言う。
「北原だけを狙うわけにはいかないの? 本当に無理なの?」
「無理よ。羽藤さんがいる限り、あの子が一緒にいる限りは距離的にどれだけ離れていても無理なの」
「でも……排除できない。僕が未熟だから」
「違うわ。務は母親思いのとってもいい子よ。私の言う通りにちゃんと動いてくれているもの」
「でもできないよ」
「それは、私の力不足なんでしょうね」
機会はきっとあるから大丈夫だと言って微笑む母さんに、その日はいつもより早く就寝して会いに行った。
暫くしてまたチャンスがやってきたと思えば、やっぱり空振りに終わる。
どうしていつも上手くいかないんだろうと思いながら、母さんに謝ると頭の中に「大丈夫よ、大丈夫」という母さんの優しい声が聞こえてきた。
いつもよりも元気が無くて、無理をしていそうな声なのに僕を心配させないように強がっている。
「荒くてもいいよ。そうじゃなきゃ、母さんが……母さんが」
一度、我慢できずに荒事をしてしまった。だが、結果は邪魔が入って失敗に終わる。
馬鹿で単純な奴らは使い勝手がいいと思っていたが、やっぱり馬鹿は馬鹿でしかなかったという事だ。
中学時代北原に劣等感を抱いて一方的に恨んでいた女を見つけた時には、ツイてると思ったんだけどな。
やっぱりプロに任せた方が良かったのか?
いや、そうなると流石にあの男が黙っちゃいないだろうし面倒な事になりそうだ。
万が一、北原に目をつけられたら? 最悪母さんのような事になる。
機会はまだあると母さんは言っていた。だったら、今日はもうさっさと帰って寝てしまおう。
そうだ。早く寝て母さんに会いに行こう。
綺麗な庭園でお茶を飲みながら、母さんと二人これからの作戦を立てるんだ。
「かあさ……っ!?」
目を瞑った先に見えた光景では母さんがにっこりと微笑んで僕を見つめている。
思わず笑みを浮かべた僕は、背後からの衝撃に目を見開いてよろめいた。
どうしてだろう、腰の辺りが焼け付くように痛い。
でも、上手く言葉にできない。
「あんたのせいで、あんたのせいで! アンタが言うから私はその通りにしたのに!」
「お前……」
切り裂くような甲高い悲鳴が聞こえたのと同時に僕の体が地面に倒れる。手で押さえた腰からぬるぬるとした液体が溢れて笑いが出た。
霞む視界の向こうに心配そうな顔をしている母さんの姿が見える。
「かあさ……ん」
僕はゆっくりと手を伸ばして、母さんの傍に逝けることだけを願いながら闇に落ちた。




