35 放課後の教室
私の転落事件は、示談が成立する事になった。
最初は意味不明に喚き、自分のやったことを正当化していた鍋田さんも、とうとう己の罪を認めた。その後は取調べにも素直に応じ思っていたよりすんなり終わる。
釈放された後、彼女の両親は毎日と言って良いほど家に謝罪に来た。
涙ながらに土下座をして謝罪する声を私は部屋で聞きながら、どうして彼女があんな性格になってしまったんだろうと不思議に思う。
批難されるのを覚悟で毎日訪れる彼女の両親の声を聞いている限り、普通のまともな人達だ。
完璧な演技をしているだけという可能性もあるが、それは無いような気がした。
謝罪に来た時には驚いたが、丁度家に来ていた弁護士さんが今後は自分を通してくれと告げたので何度も謝罪しながら彼らは帰っていった。
「まともな両親からあんな……うん、あんな娘か。子育ては難しいって事?」
ご近所さんたちが、野次馬根性丸出しの表情をしながら家の様子を窺い、同情するフリをして情報を聞き出そうと母さんに声をかけている。
それを何となく眺めていれば、そのご近所さんと目が合って勢いよく逸らされた。
軽く頭を下げて愛想笑いを浮かべた私に罰の悪さを感じた近所のおばさんは、慌てるようにして会話を切り上げ自宅に戻ってゆく。
「あ、こけた」
これ幸いと更に深く自分の欲求を満たそうとはしないタイプらしい。
心配して駆け寄る母さんと何かを話しておばさんは自分の家に入ってしまった。
振り返り、私を見つめる母さんに首を傾げられたので私も同じようにして返す。
「私のせいじゃないんですけど」
事件後、劇的に生活が変わったというわけではない。
腕の良い弁護士さんのお陰でいつも通りの生活を送れたのでどこか他人事のように思ってしまう。
ただ、騒ぎをどこからか聞きつけてきたらしい顔も知らない学生に声をかけられては、同情されるのが鬱陶しかった。
酷い目に遭ったねと言いつつも彼女達の目は近所の噂好きなオバサマ方と同じもの。
適当にあしらいつつ受け答えはしていたが、それでもしつこいようならモモや美智が軽く睨む。
それだけで相手は引き攣った笑顔を浮かべ逃げていくのだから、最初から近づいてこなければいいのにと思う。
「戸田さんには本当にお世話になって……宇佐美さんにもお礼言っておかなきゃ」
何も困る事無く事件後も過ごせているのは弁護士である戸田さんのお陰だった。
事件を聞いて自分の知り合いの弁護士を紹介してくれた宇佐美さんにも感謝しなければいけない。
お喋りな叔父さんにちょっとイラッとはしたものの、それだけ心配してくれたのだから仕方がないと今になって思う。
それに、それがなかったらここまで鮮やかで穏やかに終わるとも思えなかった。
信じていなかったわけではないが「腕利きですから、安心してくださいね」と言っていた宇佐美さんの言葉通りの働きをしてくれた戸田さんには頭が上がらない。
報酬があれで良かったのかと母さんと兄さんは二人で困ったように言っていた。
宇佐美さんの大切な知り合いだから、という事で随分よくしてくれたのだ。
時間と手間を取らせたあげく、利益も然程無いような案件で申し訳ないと家族一同思っている。
それを察しているように戸田さんは「仕事ですからお気遣い無く」と優しい笑顔で言ってくれた。
「働く男の人って格好いいなぁ。男の人に限らず、だけど」
連絡先も交換していたが、一段落ついてしまえば縁も遠退いてしまう。
仕事も忙しいだろうし、無駄な時間を取らせるのも嫌だなと考えながら感謝の気持ちをメールに込めて送った。
返信なんて来ないのが当然だと思っていたけど、意外にも早く返事が来て驚く。
丁寧だけれど、気遣いを感じさせる文章を読んでいて人柄というのはこういう所にも現われるものかと感心してしまった。
それっきり縁は遠退いたものだと思っていたのに、間を置かず今回の件だ。
巻きこまれたのは私ではなく、モモだけれど心配して戸田さんから連絡を貰ったときには驚いてしまった。
その肝心のモモからは『少し、時間をください』というメール以降連絡が無い。
学校も休んでいて、美智とユッコも心配している。
詳しい事情は話さずに、喧嘩に巻き込まれて精神的にショックを受けているらしいとだけ告げておいた。
二人は意外そうな顔をしていたものの「モモも、女の子だもんね」と本人が聞いていたら怒りそうなことを呟いて納得してくれる。
このまま退学してフェードアウトということは無いと思うけど、早くいつものように元気な姿を見せて欲しい。
「いつまでそこで突っ立ってるの? こっち来て、ここ座ったら?」
懐かしさを感じる教室内の中央で、机と椅子が二つずつ向かい合わせになっていた。
他は掃除の時間のように教室の後ろに寄せられて、綺麗な窓ガラスの向こうでは橙色に燃える太陽が空を焦がしている。
僅かに空いた窓から吹く風にカーテンが揺れ、ノスタルジックな気分になった。
ここは私の通っていた学校ではない。
時間割もクラス目標も違う。
けれども身に纏う制服は中学時代のもので、こんなに小さかったのかと苦笑してしまった。
横に広がったわけじゃない。スカートのホックがきついなんて思ってない。
袖丈が窮屈だとは思ったけど。
それでも意識すればその苦しさも無くなる。便利な空間だと思いながら私はさっきからずっと動く気配の無い影に声をかけた。
「聞えてる? 鍋田さんでしょ?」
トントントン、と私が座っている席と向かい合わせになっている机を手で叩く。
どこからか聞えてくる運動部の声や、吹奏楽の練習している音に溜息をついて私は俯いたままの彼女を見つめる。
背は私より低く、小柄。
サラサラとした髪の毛は背中の真ん中くらいまでの長さだ。俯いて顔は見えないがきっとマジックミラー越しで見た時よりも良いものに違いない。
「廊下出ても、グルグル同じとこ回るだけよ。私も試したから」
「……」
軽く肩を竦めて私はここから脱出するのが不可能らしい事を告げた。
普通に眠ったら何故かここにいたので起きれば覚めそうなものだ。
ちょっと、既視感があって嫌な気分はするけれど彼女も夢の住人なら怖いものは無い。
「お母さんはお元気?」
私の問いかけに彼女はビクッと体を震わせて静かに頷いた。
「そう、良かった」
安心したように呟けばゆっくりと顔を上げた彼女が戸惑うように私を見つめる。
あどけなさを残した彼女の顔は、普通に可愛い部類に入るだろう。
あの酷い顔が短期間でこれほどまでに良くなるとは思えない。
ならばこれは夢がなせる魔法のようなものなんだろう。
「わ、わたしは……悪くない」
「そういう事が聞きたいんじゃないんですけど。そもそも、私の夢の中まで貴方に会いたくなんてないんですけど」
何故、自分を突き落とした相手が心地よいはずの夢に登場してくるのか。そんなのは悪夢でしかない。
例え彼女が本物でないにしても、と思っていたが歯を食いしばりながらこっちを睨んでくる様子を見ていると本物ではないかと思えてきた。
いや、これもすべて夢。夢なんだから何でもありなんだと思っていると耳に痛い声が聞こえてくる。
「わたしは悪くない! 悪くない! 悪いはずがない!」
「……何が?」
「私が夢にまで見た理想の世界だもの。本当のヒロインなんて尻軽でどうしようもない性悪女だから、それを懲らしめるのが私の役目」
示談を成立させるために大人しくしてたけど、やはり本心は違うんだろうか。
それにしても彼女が何を言っているか分からない。
夢にまで見た世界?
確かにここは夢の世界だ。
けれど、本当のヒロインだとか尻軽で性悪女だとか一体何を言っているんだろう。
「私の生み出した彼女って、こういうキャラ付けって事?」
「何言ってるのよ! ひ、人の夢の中にまで土足で入り込んで!!」
彼女が私の夢の中に登場しているのではなく、逆?
つまり、そういう設定の夢という事?
これはまたややこしい夢だなと思いながら、夢とはそういうものかと変に納得してしまった。
「私は選ばれたの。選ばれたから楽しむ権利があるの。それが許されたのは私だけ!」
「私の夢か、彼女の夢か。えぇ、混乱する」
「わたしの夢だって言ってるじゃない!」
私の夢なのか、彼女の夢なのか。
彼女の夢に入り込んだという設定になっている私の夢というのが一番だけれど、頭が混乱して痛くなってくる。
『君と彼女の夢だよ』
ふと、どこからか微かに聞えた気がした声に、あぁなるほどと思う。
私と彼女が同じ夢を見ていたとしたらそれはそれで面白い。
これまた面倒な夢だけれど、暫く彼女の戯言に付き合ってみようか。
現実の彼女とはかけ離れているにしても、退屈はしなそうだ。
「あぁ、うん。じゃあそういう事にしよう」
「何よ! 何なのよ偉そうに」
「えーと、モモが小悪魔ちゃんなのは否定しないけど、頭おかしい事言ってるって自分で気付いてる? 鍋田さん」
「なっ、わたしはおかしくない!」
目が血走って睨みつけられるが、所詮夢の中なのでちっとも怖くない。
密室で二人きり。
脱出は不可能。
最悪、殺されかねない状況だというのに夢というだけでこれだけ落ち着いていられるのだから面白い。
例えこの場で殺されたとしてもループする事は無いだろうと思えて、私は苦笑した。
確証は無いのに変な安心感がある。
油断した途端に、目覚めたら病室かと軽く思ってしまう時点で油断しているんだろう。
笑い声が気に障ったのか、彼女はズンズン近づいてきて私の席と向かい合わせになっている席の椅子を蹴り飛ばした。
私よりも小柄で力があるとは思えない彼女の蹴りに、椅子が派手に飛び窓にぶつかった。
変に弾力があるガラスにバウンドして床に転がる椅子も綺麗なままで驚く。
「おかしくない! あんただってそう。あの女の友達になってオコボレに与ろうと思ってたんでしょ? 浅ましい」
「おこぼれとか……。そうなりたかったのは、貴方じゃないの?」
「何でわたしがっ!」
「羨ましくて仕方ない。妬ましくてどうしようもないって、顔に書いてあるじゃない」
黒と赤の油性ペンで書きなぐられたように、彼女の顔には羨望や嫉妬の言葉が浮かんでいる。
綺麗に磨かれた窓ガラスを見た彼女は、自分の顔に書かれている文字を見て引き攣った声を上げた。
両手で必死に擦ってもその文字は消えない。
「私がヒロイン、愛され、溺愛、逆ハーレム……。はぁ、なるほど」
「何なのよこれ! 何なのよ! 何したのよあんた!」
「分が悪くなると他人のせい? 私が貴方の本心覗ける訳無いじゃない。エスパーじゃあるまいし」
「だったら何であんたは普通なのに、わたしばっかりこうなってんのよ!」
「そう言われても、分かりません」
鍋田さんの言葉で私の顔には何も書かれていない事が分かって一安心した。
椅子を蹴っても動じない私の態度に苛々している彼女は、転がっている椅子を手にするとそれをこちらに投げてきた。
椅子は私の頭上を掠めて黒板にぶつかる。
「わお」
「むかつくのよあんたも! あの女も! 添え物でしかないのに出しゃばって邪魔するなんて!」
「モモは誰もが頷く美少女だものね。貴方が歯軋りするくらいの存在が目立ってたらそりゃ腹が立って当然よ」
「なんだ……あんたも馬鹿じゃないのね」
「だって、自分が目立てないじゃない。逆ハーレムも全人類からの愛されも不可能。というより、それが現実であり得るなんて思ってる時点で頭おかしいわ。ぶっ飛び過ぎ」
何度もループしている私が言えるような事ではないと分かっている。
けれど私はここまで浅ましく愚かで醜態を晒し自己正当化する程、落ちてはいない。
「何ですって!」
「仮想と現実がごっちゃになって区別もつかないんでしょう? 頭の病院おすすめするわ」
「人を馬鹿にして!」
「おかしい人ほど、自分はおかしくないって言うものよ」
第一、彼女の言う通りだとしたらこんな事にはなっていないと思う。
自分を中心に世界が回り、誰からも好かれるような恐ろしい天性の魅力を持って産まれた人物が他人を妬み事件を起こして不登校になんてなるだろうか。
「貴方の言う通りだったとしても、真のヒロインも寵愛を受ける存在も、誰からも愛される人物も貴方じゃなかったじゃない」
「なに……を」
「モモが学校中の男を誘惑して学校を掌握しようとした? 援助交際してる上に、男性教師まで誑かして好き勝手し放題?」
若いからこそできた行動なのか、それとも本当に自分を中心として世界が回っていると疑っていないのか。
何一つ疑問を抱かず未だにそうだと思っているなら、どうしようもない。
暇潰しの相手にはなるだろうが、まともに相手をしようとしても無駄だろう。
「それを誰が信じてくれたの? 誰が貴方の言う通りだと賛同してくれたの?」
「それは……」
「誰もいなかった。言いがかりをつけてモモを貶めようとしたその言動のせいで、不登校の引きこもりコースじゃない」
「うるさい、うるさいうるさい!」
一番触れて欲しくない箇所を遠慮なく刺してゆく。
彼女は目を血走らせながら私に掴みかかってきた。
胸倉を掴まれて服が伸びる。
「適当な相手を悪役に仕立て上げて、自分を際立たせる為に悲劇のヒロインぶってるに決まってる!」
「で、貴方がその悪役なの? 今は引きこもりニートの穀潰しなのに?」
「うるさい!」
「でもって、久々に外に出たと思ったら傷害事件起こして母親を自殺まで追い詰めた馬鹿娘なのに? 自覚無いの? あぁ、自覚ないからこんな事してるのよね。ごめん」
掴まれている腕に手をかけて軽く力を入れただけで体が勝手に動いた。
鍋田さんの細腕を捻り、悲鳴を上げ苦痛に喘ぐ彼女を見下ろしながら溜息をつく。
このまま折ってしまってもいいが、夢とは言え後味が悪い。
机に押し付けられた彼女は上手く力が入らないらしく、パタパタと浮いた足が空しく宙を掻いていた。
「おかしいおかしいおかしい」
「なにが」
「だって、貴方の言う現実だったら何であの子ばっかりチヤホヤされるの? 何で何をしても許されるの? 何で何で私や他の人たちはあの子を引き立たせるような存在なの?」
「えーと」
「前世の記憶があるのは、それを活用する為にでしょ? だからあの子を罰するのが私の役目なのよ」
チヤホヤされるのはモモが可愛いからだろう。
それに何をしても許されてるわけではない。悪い事をすればモモだって怒られる。
あまりにも穿った目で見過ぎだろうと告げる私に、彼女は歯軋りをした。
「あ、やっぱり貴方頭おかしいわ。前世とか笑えるんですけど。本気でそんなのあるとか信じてるの?」
「貴方には判らないのよ。選ばれた者じゃないから!」
「へー。選ばれた者は穀潰しで母親を死に追いやってるんだ。まるで悪役みたいね」
何度もループしている。
この世界ではない世界で生きた記憶みたいなものがある。
そんな自分の事を棚に上げて、私は彼女をせせら笑う。
彼女に向けた言葉は彼女ではなく自分自身に言っているようにも思え、笑いが止まらなくなった。




