185 オジジ
ぱたん、と閉じた本の表紙を労わるように撫でる。
読み終わるのを待っていたかのように赤い目が私を見つめていた。
何も言わず、私が喋るのを待ち構えているかのようで笑ってしまう。
「で、私に何をしろって?」
「はてさて、何のことだがさっぱりじゃ」
「またそんな事言って。タイミング良すぎなのよ。全く関係ないものなら分かるけど、貴方の本棚にしまわれているのは、全部関係あるものばかりじゃない」
「はて、そうじゃったかのぅ」
ボケ老人のふりをするようにあくまでも誤魔化す本の妖精に、私は溜息をついて彼の顔を突いた。
擽るように指を動かすと、もにょもにょ言い出した彼が大きくくしゃみをする。
動作を予測してサッと無駄の無い動きで避けた私は、左手で飛んで来た物をキャッチした。正直素手で触りたくないがそんな事も言っていられない。
「ふが、ふがふが、ふがー」
「何言っているかさっぱり分かりません」
それはそうだ。私の左手にある入れ歯が抜けてしまってはまともに話すこともできないだろう。
それでも本の妖精は口を動かして何か話すのだが、私は首を傾げて目を逸らした。
彼の大切な入れ歯を左手で動かし、カタカタと鳴らす。
クラー程ではないが、中々いい音だ。
楽器の一つにあっても面白いかもなぁと思いながら、本の妖精と出会った場所を思い出す。
固定かと思えば神出鬼没のようで、彼曰く本と本棚がある場所ならどこへでも行けるらしい。
が、私がそれを信じられない理由はただ一つ。
この部屋には本棚や本が一つもなかったからだ。
先生と榎本君と無事に合流してから、今後の事を話し合った。
手掛かりがここに残されているはずという高橋さんの言葉で、その手がかりなるものを探していた最中だったのだがどうしてこんな事になっているんだろう。
また私だけ変な場所に飛ばされたのかと思っていれば、何も無かった場所に突如本棚が現れた。
曲線が特徴的なアンティークを思わせる深い色合いの本棚。
上部には立派なヒゲを蓄えたキャラクターの顔らしき彫刻が施されている。
目が赤く、ぱちぱちと瞬きをした時点で私はあの妖精かと分かってしまった。
どうせなら、違った方が良かったかもしれない。新鮮味という意味で。
「がほっ……ごほっ、げほごほ。乱暴なお嬢さんじゃのう」
「で、貴方の目的は何? 私に何をさせたいの?」
「そう生き急ぐものではないぞ」
「こっちは時間が無いのよ!」
この場所に時間という概念が存在するのかどうかは分からないが、焦りは抑えられない。
どうして私ばかりこんな邪魔や回り道をするような目に遭わなきゃいけないんだ、と心の中で愚痴っていればホッホッホと笑われた。
「再会したというのに、覚えておらんのではな。ワシも悲しいぞ」
「別に懐かしき再会ってわけじゃないでしょ。鍵を入手しただけで……鍵?」
「ホホ。権限の欠片は持っておらんぞ」
「チッ」
そう都合良く手に入れられるわけじゃないか、と舌打ちする私に本の妖精はゆったりと笑うだけ。
突然現れたかと思えば、とりあえず落ち着いて本でも読めと来た。
読んだ本に書かれていたのは今まで私が経験してきた事で、気味が悪いほど詳細に記されている本ばかりだった。
誰に記録されていたのかと詰め寄っても妖精は知らん顔。
ちょっと手荒くして話してもらうしかない。
どのくらいの威力の炎で燃やそうかと思案していたら、シンプルな装丁に“DIARY”とだけ記された本を寄越された。
寄越されたとは言っても、彼は本棚なので手足があるわけではない。
ぽん、と私の手元に飛んで来たのだ。
「神夫婦の葛藤見たところで、意味ないんですけど。あの二人はもう娘のことしか考えてないでしょ?」
「大切な子供じゃったからのう。自らの過ちを深く悔い、それがこんな結果になった」
「いやいや、悔いただけだったらこんな結果にならないって」
他世界に移動してその世界を歪め、自分たちの理想とする世界を創り上げる真似は相当な執念がないとできないだろう。
ただ娘を守るだけの、自分たち家族が幸せに暮らせる平和で不自由ない箱庭を。
その土台にされてぐちゃぐちゃになっているこっちは、いい加減にしてくれとしか言えないが。
元の世界で叶えることは無理だったのかという答えは、先程読み終えた日記に書かれていた。
悲しみ、慟哭から、断ち切れぬ執念が狂気へと変わってゆくまで。
読んでいるこっちが発狂しそうになるわ、と何度顔を顰めたか分からない。
「様々な偶然が重なると、そうなる」
「偶然って……たまたま二人とも頭が良くて、たまたま手近に願いを叶えられる素材があって、たまたま自分たちはティアドロップに適合した選定者だってこと?」
「そして、たまたま娘は適合者にはなれなかったということかのぅ」
「それも不思議な話よね。専門的なことになると先生たちの出番だから私はさっぱり分からないけど、両親が適合するならその子供も適合しそうなものだけど違うんだ」
「遺伝は関係ないからのぅ」
それにしたって偶然があまりにも多すぎる。
本当にそれは偶然か? 誰かが仕組んだことじゃないのかと不思議に思うくらいだ。
日記を読んで分かった事は今までぼんやりとしか分からなかった敵の思惑だろうか。他に役に立ちそうなものは特に無かった気がする。
敵だって色々苦労してるんですよ、なんて見せられたところで同情して泣けとでも言うのか。くだらない。
こっちの状況を考えろ。
そんなに心優しい対応をして欲しいなら他を当たれ、と心の中で毒づきながら私は眉を寄せて腕を組んだ。
「月並みだけど『娘さんがそんな事して喜ぶとでも思ってるの?』って聞きたいけど、多分そういうのは関係ないんでしょうね」
「と、言うと?」
「相手の気持ちなんてどうでもいいって事よ。自分の願望を叶える為だけにこんな大規模な暴走しちゃってるくらいだもの。欲求を満たす事しか頭にないんじゃない?」
神のココロがあってもなくても、同じような気がした。
夫婦は、特に妻は狂っていたと思える。娘が病に侵され、治らないと知った時点で。
そして狂ったまま他の世界に移転し、自分たちの理想の世界を作り上げた。
他世界から誘拐した、幼い娘と一緒に。
色んなものを捻じ曲げ、歪ませても欲していたのは三人で幸せに暮らすことだなんて笑ってしまう。
「全部、彼らが悪いんじゃないの? そりゃ、仕事だし身内人質に取られてるようなものかもしれないから逆らえないってのもあっただろうけどさ」
「きっついのぅ……」
「同情できるような点もあるけど、他の世界からレディ誘拐した時点でアウトよね。でもさ、親ってそういうものなのかな?」
「ん?」
「子供を亡くしたら、悪魔に魂売ってまで蘇生させたいと思うもの?」
私は親でもない、未だ甘えている子供の立場だから良く分からない。
けれど、どんなに辛くても失ったものは戻らないのだからしょうがないと思うのは、やっぱり私が子供だからだろう。
普通の親は、母さんやギン……父さんも、不意に子供を亡くしてしまったらあの神夫婦のようになっていたんだろうか。
あそこまでになるには、それだけの力がないと駄目だけど。
「それは当然じゃろうな」
「そっか。死ぬのに慣れると駄目ね。死んだものは死んだんだから、しょうがないじゃないって思っちゃうわ」
「……昔は随分と泣いていたものじゃがの」
「は?」
「オトーがいないって」
何を言ってるんだこの本棚は。
そう顔を歪めながらもその言葉に呼び起こされるように小さな子供の泣き声が頭の中に響く。
あぁ、そうか。
これは小さい頃の私の記憶だ。
二度と思い出すことが無いように奥底に埋めていた、辛かった記憶。
いつものように「行ってきます」と言ったきり帰ってこなかった人のこと。
「はぁ……何でこんな時に思い出すかなぁ。まぁ、いいけどさ。今はずいぶん耐性もできてトラウマも薄れたし」
「意外と傍にいたしのぅ」
「そっか。貴方、小さい頃に私の夢によく出てきたオジジか」
「やっと思い出したか。まったく、困ったものじゃ」
そんな小さな頃に見ていた夢なんてすぐ思い出すわけもない。
記憶の管理をしている番人ですら何も言わなかったのは、幼少時の経験は現状に必要ないと判断したからだろうし。
あぁ、都合いいなぁとボヤいた私に本の精霊は「ホホホ」と笑った。
「はぁ。敵を止めて世界を戻す攻略本とか無いの?」
「あるが、中身は白紙じゃぞ」
「ですよねー」
「今、あっちでは娘っ子が必死に頑張っておる。今回で、完全に終わらせる気じゃな」
「は?ちょっと待ってよ。本調子じゃないって言うのにそれじゃまるで自爆覚悟じゃないの」
頭が痛い。胃もキリキリしてきた。
完全に終らせる気だと何故か分かってるオジジも気になったが、それどころじゃない。
レディとしては自分がいない後は魔王様とギンに任せるつもりなんだろう。
神とまともに戦ってレディが勝ち残る想像ができない。
ただでさえ能力低下しているのに、一対二なんてどう考えても無理だ。
「……オジジ、ここって【隔離領域】の一部よね」
「まぁ、一応そうじゃな。境が曖昧になっとるから、外部世界との壁が薄まってる箇所も多いがのぅ」
「本の妖精と言うくらいだもの。もちろん、攻略本はあるわよね?」
「……ふむ。なるほど」
何かを含むように笑う私の真意に気づいたのか、オジジは困った顔をしつつ低い声で唸った。
無理だとでも言いたげな様子だが、それがポーズなのは良く知っている。
焦らしてる場合じゃないだろと溜息をついた私はこれからの事を考えながら、魔王様に連絡を取ってみた。
意識を集中させ、魔王様の名前を強く呼ぶ。
すると、頭の中に魔王様の声が響いた。
「あ、由宇です。ええ。はい。いえ、ご心配なく。はい、まぁ……いつもの事です」
心配する魔王様に現状を報告して、これからの事を話す。
どうやら私だけが変なところに飛ばされたようなので、魔王様と高橋さんは無事らしい。
楽しそうな魔王様の笑い声が次第に遠くなるのを聞きながら、彼との話を終える。
いくら領域内とは言え、化け物じみてきたなと思えば自然と顔が歪んだ。
「さほど心配されておらんようじゃな」
「まぁね」
どうして私がここにいるのかはよく分からないが、こんな事は今まで何度もあったので気にしない事にした。
真面目に考えるだけ無駄なような気がしたからだ。
一人だったらもっとパニックになっていたかもしれないが、オジジもいるので心細くはない。
もっとも、イナバや管理者以上に胡散臭い存在だけど。




