184 某人物の日記2
自分自身を落ち着かせるため、行き場のない感情を吐き出すためにとりあえず日記は続けようと思い、再開する。
この世界の更なる発展と、愛しい家族、私達の愛娘の未来の為にと理想を掲げそれを信じて研究してきた自分がこれほど滑稽だと思えることはない。
馬鹿らしい。
何が発展だ。
何が娘の未来のためだ。
お前はただ、自分の好奇心と未知の欲求に負けただけだ。
破滅を招いたのは私。
周囲を巻き込んで不幸に陥れた原因も私だ。
それなのに誰も責めない。
責めない。
同じ研究仲間だから、そんなのは関係ない。指示に従ってやったに過ぎない。そんなのはいい訳だ。
そうだ。私は、とても興奮していた。
あの研究をしている間だけは、他に何も考えはしなかった。
愛する妻や娘も。
尊敬する両親や上司も。
◎月△日大雨
今日は朝から土砂降りだ。
妻は部屋から一歩も出てこない。
声をかけても無言のまま。
起きて、ご飯を食べてこうして日記を書ける私が異常なんだろうか。
あの子が亡くなって、まだ七日だというのに。
◎月□日雨
気がつけばパソコンを起動させ、今までのデータを閲覧していた。
変わった事はないかと毎日の観察も怠らない。
もう、癖のようなものなのだ。
◎月☆日曇り
先輩が亡くなった。
私と妻が出会うきっかけをくれた、とても世話になった先輩が。
私達宛ての手紙には、向こうで娘を探してくれると書かれていた。
今の妻には見せられないが、私はそれを読んでつい笑ってしまう。
私と妻を含め、症状が軽い者は日々減っていく。
×月×日晴れ
精密検査の結果、健康体と非健康体に明らかな違いは見られなかった。
鉱石や、結晶に関する物質が検出されたわけでもない。
ニュースでは原因不明の感染症が世界全域に拡大し、各国が混乱している様子を知らせている。
まさか、震源地がここだとは思うまい。
もっとも、感染を広めた原因は既にこの世にはいないが。
今日は嬉しい出来事があった。
妻がやっと笑顔を浮かべられるまでに回復したのだ。
二人で、あの子の分まで頑張ろうと泣きながら約束した。
×月□日晴れ
世界は混乱し、こんな状況下だというのにお偉方はまだ研究させたいらしい。
即刻処分されるかとばかり思っていたが、深く知りすぎているぶん下手に手も下せないという哀れな状況だ。
確かに、代表ら上役たちだけで私達の研究をどうにかできるものか。
破棄すればいいなんてものじゃない。
もう、どうにもならないところまで来てしまっているんだから皆で地獄に落ちるしかないのだ。
体調が悪い研究者たちは優先的に休ませている。
私と妻はどうやら免疫のようなものがあったらしく、だるさは感じてもそこまで酷くは無い。
×月○日晴れ
執念のように研究に取り組む妻に休息を勧めたが、笑顔で断られた。
あれは、獲物を見つけた獣の目。
誰も手のつけられない、怒れる猛獣の研ぎ澄まされた目だ。
彼女が考えている事は何となく分かる。
けれど、それは我々人が手を出してはいけない、神の領域。
神……こんな状況でそんなものを思い浮かべる自分に笑えてくる。
どんなに祈っても、縋っても、神は姿を現さなければ奇跡も起こさない。
そう、起こらないから奇跡と言うんだ。
人知を遥かに超えた不可思議な現象なんて、きっと起こりはしない。
一旦家に戻ってから風呂に入り、簡単に夕飯を食べていたら妻からのメール。
何気ない文章の中に散りばめられた暗号を解いて、監視の目も気にせずやり取りができるチャットルームへ入る。
興奮した様子の妻が、結晶体の純度を上げることに成功したと言う。
研究所の中から選ばれた、精鋭ばかりのチームの中でも私は上位に位置すると自負していた。
しかし、どうやら違ったらしい。
私がどうしても越えられなかった壁を彼女は越えた。
これからすぐ研究所に戻ることにする。
驚いた。
彼女の口から出たのは膨大な数式ではない。
純度を上げるには、結晶の様子を見ながら数値を手動で変えなければいけないとのこと。
プログラムを作り上げて対応させればいいだろうと言ったが、それでは無理だと言われた。
彼女が言うにはこの結晶体は生き物らしい。
ポッドを見つめる妻の目が母親のように柔らかく慈愛に満ちたものになっていた。
×月△日晴れ
外の世界の混乱と暴動など別世界のように、今日も研究所は静かだ。
休養している研究者はそのまま戻って来る事は無く、とうとう私と妻の二人だけになってしまった。
こんな場所にいられないと研究所に所属していた職員のほとんどが、逃げるように出て行ったと聞くがどうでもいい。
最後の上役の部屋を訪れたら、椅子に座ったまま息絶えていた。
恐ろしい程までに安らかな寝顔だ。
苦しみからの解放は、私達にとっては羨ましい。
だが、私達はまだ死ぬわけにはいかない。
しかし時々、どうしてここまで研究にのめりこんでいるのかと疑問に思うことがある。
そんな事も結晶体を見つめていれば消え去ってしまうのだが。
ここのところ妻の機嫌がいい。
広大な研究所にいる生命体は研究動物や放置された愛玩動物、観葉植物を除き私達二人だけだと言うのだ。
まるで主になったようだと笑うその表情は、昔と同じでホッとする。
○月△日雨
ここ暫く大騒ぎが続いたかと思うと、波が引くように静かになってゆく。
恐らく皆、息絶えてしまったのだろう。
妻は食料を求めて外出している。
私は、今はもう第二の家となってしまった研究所で座り心地の良いソファーに座りながらデータと睨めっこだ。
最近、面白い発見をした。
携帯用の小型ポッドに移した結晶体を軽く振ると、周囲の景色が歪むのだ。
そして、歪んだ先に見慣れぬ光景が映る。
最初は幻影かと思っていたが、どうやら別の世界が向こう側には存在しているらしい。
調べれば調べる程謎が多い結晶体は、偶に小さく振動して傍にいる私や妻を違う場所へと転送してしまう。
本当に、恐ろしくも魅力的な物体だ。
○月×日曇り
振動の制御に成功した。
これで今後は自由に転移できるようになる。近未来的な素晴らしい発見だが、発表する場もそれを聞いて賞賛してくれる人々もいないのは少し寂しい。
残念がっていると、それが元で争いが起こらないのならいいじゃないと妻に言われてしまった。
確かに。
強い力を平和利用にと口を酸っぱくして言ったところで、欲深い人間がそれを守るはずもない。
世界の状況を定期的に見る。
生き残った選定者と思われる人々は百にも満たない。
○月○日曇り
天気がいいとは言えないが、気分転換に散歩をした。
荒廃しているわけではないのに、人気が無いだけでこんなにも感じ方が違うとは。
見慣れた光景、歩き慣れた道のはずなのに。
人だけがいない。
命がない。
△月△日晴れ
食料が尽きたら私達も死ぬんだろうか。
どこで選択を誤った?
研究の途中で止められたなら。
そもそも、あの鉱石を発見しなかったら。
遺跡を見つけなかったら。
もし、過去に戻ることができたなら全力で阻止しよう。
無理な話だ。夢物語で笑ってしまう。
△月□日晴れ
最近妻が嬉しそうに何か研究をしている。
あの子が戻ってくるのだと、あの子に会えるのだとはしゃいでいた。
落ち着いたように見えたのは気のせいだったのかもしれない。
いや、そうなってほしいと思った私が無理矢理そう思い込んでいたせいかもしれない。
妻は無邪気に笑う。
子供のようなその笑顔で、恐ろしい事を口にした。
△月○日晴れ
彼女の気持ちは痛いほどに分かる。
辛いのは私だって同じだ。
けれど、人としてやってはいけない事もある。
何度も何度も説明をしても、彼女はどうしてあの子は適性が無かったのかと泣き喚くだけ。
理由は簡単だ。
適性があるかどうかは遺伝ではなく、相性だ。
鉱物、結晶体共に含まれる未知の物質との相性がいいかどうか。
そんな事しか言えない私は研究者失格だろうが、本当にそうなのだから仕方がない。
私と妻が二人とも適性があったのは偶然に過ぎない。
もしかしたら、三人で死んでいた場合もあるのだ。
その方が幸せになれたはずなのに、世は非情なもの。
☆月△日雨
あぁ、母親とはここまでの生き物だったとは知らなかった。
すべての母親がそうだとは言わないが、あの子が亡くなってからの彼女は狂気に満ちている。
実際に腹を痛めたわけでもない男である私には、生涯分からない感覚なんだろう。
だったら止めればいい。けれど、私は止めない。
彼女の好きなようにさせている。
気が済むまでやりたいことをやればいい、なんて言うのは綺麗ごと。
ただ、その先を見たいのだ。
好奇心と研究者魂に火がついて止められないだけ。
だから私は今日もこれからも彼女をサポートしていくんだろう。
☆月◎日曇り
計画は順調。
固定化も成功。
安定している波形を眺めながら、二百五十六回目の実験が成功したことを祝う。
戻ってきた妻は嬉しそうに微笑んでいた。
一線を、越えるのだ。
?月?日晴れ
夢のようだ。いや、夢なのか?
冷静に考えたら取り返しのつかないことをしている。それは分かっている。
それを承知で私達はやったのだ。
証拠は妻の腕の中にいる愛しの存在だ。
汚染された私達の細胞からは二度と生まれることが叶わない命。
私達が他の何よりも強く欲しがっていた存在。
これからまた、三人での暮らしがはじまるのだ。
誰にも邪魔されない、あの頃のような普通の生活に戻ろう。




