166 かりそめの
それは、一瞬だった。
瞬きより早く閃光が走ったかと思うと、次の瞬間にはぐにゃりとした動きで前に倒れるもどきの姿が見えた。
気配は一切せず、結界も正常に作動している。
音もなく宙に浮かんだ存在を、神原は知っていた。
本能が拒絶する。
震えが止まらないのが情けなくて、奥歯に力を込めた。
負けてたまるか、と心の中で叫ぶ。
倒れたもどきの隣に無音で着地したそれは、ちらりと神原に視線を向けてにっこりと微笑む。
キィン、と念のため展開していた防御壁に見えない何かが当たって、防御壁は粉々に砕け散った。
唖然としながらも神原はそれを表情には出さない。
そんな彼を見つめていた人物は口の端を上げると、呼吸荒く倒れているもどきを優しく抱き起こした。
「……マ、マ……わた、し」
「静かに。無理に喋ると体に障るわ」
「で……も」
もどきにママと呼ばれた人物は、女神のような容姿で愛しげに腕の中の娘を見つめると安心させるように微笑んだ。
慈愛に満ちた柔らかな笑みにもどきはホッとしているが、神原は言いようの無い嫌悪感を抱く。
何が理由なのかは彼自身も分からないが、とにかく気持ち悪い。
「ごめ……なさい」
「いいのよ。貴方は私達の言いつけを守ってちゃんとあの子を捕まえてくれたもの。いい子だわ」
「ママ」
「少し、眠りなさい。私達が貴方を治してあげるからね」
母親の腕に抱かれている時のもどきは、ただの子供だ。安心しきった表情で身を委ねている。
親子の感動シーンを邪魔するほど野暮でもない神原だが、その前に仕掛けたら自分が終わると本能的に悟っていた。
姿が揺らいで安定しないもどきの母親は、力が削がれたとは言えまともに戦って敵う相手ではない。
この場から生きて帰れるかさえも怪しいが、万が一の場合はやり直すしかなかった。
管理者たちや由宇ならば、仕方が無いと同情してくれるかもしれないと既に負ける事を想像しながら神原は重圧に耐える。
もどきは嬉しそうに笑みを浮かべて、母親の言葉に従うように目を閉じた。
娘を腕に抱いたママと呼ばれた女は笑顔を消して彼女をその場に横たえると立ち上がる。
てっきり抱え上げて連れて行くんだとばかり思っていた神原は、彼女の意外な行動に眉を寄せた。
「こんにちは」
「……」
「あらあら、怖い顔ね。それも仕方ないけれど。ごめんなさいね、レイが随分酷い事をしてしまって」
ゆっくりと振り返り神原を見つめた女は、正に女神のような美しさと神々しさで神原に笑いかける。管理者たちに力を削がれて封じられたと言ってもこれだけの力が残っているのかと、改めて彼は愕然とした。
「貴方は私達にとって大切な存在なのに、この子ったら先走っちゃって」
「それは……貴方たちの為では?」
「私達の、為?」
震える口をゆっくり動かしながら一句一句確かめるように放った神原は、静かに息を吐いてママから目を離した。
直視すれば酷い眩暈に襲われる。
自分の中の何かが書き換えられるような感覚に、何度も展開し続けていた防御壁は砕け再度構築する気力さえ残っているか厳しい。
生き残るのを最優先で考えるなら、多少の損失は仕方がないかと苦笑した神原は不思議そうに首を傾げて口元に指を当てるママに驚いた。
心なしか体が少し軽くなり、緊張していた空気が緩む。
「どうして、私達の為なのかしら」
「どうしてって、だって貴方たちにとって僕や由宇さんは器として最適なんでしょう?」
「うつわ?」
これも罠なんだろうか。
神原はそう思いながらも危険な事を口にする。目の前にいる人物が本気になったらきっと自分では敵わない。
今回のループは失敗したから、神原を殺して次のループで機会を待つなんて事が簡単にできる存在だ。
それなのにママは本当に不思議そうな顔をして神原の言葉を呟いている。
どこか幼さを感じさせるその様子に神原は呼吸を整えつつ相手の様子を注意深く窺った。
「どうしてそんな物必要なのかしら」
「え?」
「だって私もあの人もそんな物は必要ないんだもの」
言っている意味がさっぱり分からない。
管理者が嘘をついたのか、それとも目の前にいる存在が嘘をついているのか。
管理者との付き合いがそれなりにあるので、彼らが嘘をついているとは考え難い。
ならば目の前のママと呼ばれる存在が演技をしているとしか考えられないと、神原は眉を寄せた。
「必要……ない?」
「そうよ。必要ないの。どうして貴方はそんな事を言うのかしらね」
「どうしてって、貴方たちの娘がそう言ったんですよ」
「え、レイが?」
神原は雲を掴むような感覚でママと会話をしていた。
その存在だけではなく、会話もふわふわとしていて掴みどころが無い。こちらの意図をちゃんと理解しているんだろうかと心配になりながら彼は首を傾げるママを見た。
「おかしな子ね。確かに、貴方たちは選定者として大事な子だけれどそれ以上の価値は無いわよ?」
「せんていしゃ?」
「そうよ。選ばれた人だけが世界で生きるの。貴方たちはそれに見事合格したというわけ。素敵でしょう?」
吐き気がする。
そう素直に告げられたらどれだけ気持ちがいいだろうか、と神原は思った。
だがそんな事口が裂けても言えない。
心が見透かされたら終わりだなと思いつつ、うっとりとした表情で空を見つめるママに彼の頬を冷や汗がつたった。
「ふふふ。ふふふ。これから楽しみだわ。こーんな素敵な花畑がたくさんあってね、それで皆幸せに暮らすのよ」
寒気と冷や汗が止まらない。
くるくるとその場で回りながら微笑むママはもどきを置いて立ち去ろうとする。
思わず声をかけて呼び止めてしまった神原に、ママは不快な顔など一切せずに「どうしたの?」と優しく尋ねる。
気持ちが悪いくらいに優しさに溢れ、女神だと崇めたくなってしまう程の神々しさに目が眩む。
腹に力を入れながらそれに耐えた神原は、カラカラに乾いた口内を唾で湿らせながら掠れた声でもどきを指差した。
「娘さんを置いていくんですか?」
「え、娘?」
「そこにいるじゃないですか」
ぽかんとした表情で神原の指先を見つめたママは、花畑に横たわっているもどきを見て「ああ」と手を叩いた。
愛する娘に対してこの対応の軽さは一体何なのかと疑問に思う神原に、彼女は困ったように溜息をつく。
「そうね、一応そうだったわ。でも、やっぱり偽物は所詮偽物で、本物には遠く及ばないのよ」
「は?」
「言いつけをきちんと守る良い子なお人形さん」
この人は一体何を言っているんだろうかと思いつつ、予想できる先の言葉を聞きたくない神原は耳を塞ぎたくてたまらなかった。
心を強く持っていないと手にした鎌が今にも滑り落ちてしまいそうで危ない。
ママは、安らかな顔で眠っているもどきを見下ろして屈むと彼女の頭を撫で、頬を辿り胸元に手を置いた。
荒れた事を知らないようなそのすべらかな手は、神原の目の前で少女の体の中へ沈んでゆく。
何をしているんだ、と目を見開いて驚きに顔を染めた彼に気づいたママは「大丈夫よ」と優しい声で囁いてにっこりと笑う。
そうして取り出した物を見つめると、手にした透明な水晶のような物体を握りつぶした。
力を入れたようには見えず、ただ軽く手を握っただけでそれはサラサラと細かな粒子になって花畑に消えてゆく。
「よし、と。ごめんなさいね、これで大丈夫だから」
「え?」
「貴方の妹さんの体は驚くくらい頑丈ね。流石は、貴方の妹って事かしら」
言われている意味が分からなくて、理解したくなくて神原は崩れそうになる体を必死に押さえる。
「さっきの……さっきの、アレはなんですか?」
「ん? あぁ、あの透明な物体のことかしら」
ママが放つ言葉に悪気は一切感じられず、天気の話をするかのような些細な事のように彼女はにっこりと微笑んだ。
「あれは、ただの核よ。そうね、命……魂みたいなものよ」




