165 止まらない疑心
優しく親切な家族に迎え入れられ、食事をご馳走になっていた神原は少女と花畑で遊びながら大きく息を吐いた。
頬を撫でる風に目を細めて頭上で鳥が鳴く声を聞く。
眩しく柔らかな光を放つ太陽の下で少女は楽しそうな声を上げながら、花畑を走り回る。
彼女の遊び相手になりながら、神原はその姿を見失わないように気をつけた。
「愛ちゃん、あんまり遠くに行ったら駄目だよ? ご両親が心配するよ」
「だいじょーぶー!」
「いや、僕が大丈夫じゃないんだけど」
不穏な気配は感じられない。変な影も見当たらない。
心配し過ぎなのは分かっていたが、何かあってからでは遅いと神原は注意深く少女を見ていた。
少女の両親も、大丈夫だと言って広い庭で今もお茶を楽しんでいる。
しかし、油断はするなと神原は自分にそう言い聞かせていた。
何もないならそれでいい。
しかし、この場所はカードに記されていた座標。江口の背にカードを貼り付けたのはもどきでしか有り得ないのは桜井の証言からも明らかだった。
万が一、桜井の勘違いか嘘だったとしても前者ならば仕方がないし後者は意味が分からない。
あの場にいたのは桜井、江口、そして彼女たちを助けた由宇。
桜井たちを追い詰めたのはもどきだというのは、由宇からも聞いていたのでカードの持ち主も彼女としか考えられなかった。
不思議な紋様のカードをポケットから取り出して眺めていると、いつの間にか目の前にやってきたのか少女が手を伸ばしてくる。
苦笑してしゃがんだ神原が、彼女にカードを手渡そうとしたが少女は首を振ってカードを持っている神原の手を掴むだけ。
「すごいね、キラキラしてる。きれいだね、おにいちゃんの?」
「違うよ」
自分に妹がいたら、こんな感じだったのかなと思いながら神原は首を左右に振る。カードの出所を正直に話すわけにもいかず、人からもらったと告げた彼に少女はその澄んだ瞳をキラキラと輝かせた。
「こーんなトコで子守なんて、随分と暢気なのね。お兄ちゃん」
「っ!」
肌が粟立つのを感じた瞬間に目の前の少女を抱え上げ後方に跳んでいた神原は、音も無く出現した女に眉を寄せる。
神原の片腕に抱え上げられている少女は、丸い瞳をゆっくり瞬かせながら片手を腰に当てる女と神原を交互に見比べた。
「さぁ、愛ちゃん。こっちに来てお姉ちゃんと一緒に遊びましょう?」
「駄目だ。あれに近づいたら駄目だよ」
「怖いお兄ちゃんね。こうやっていつも私の事を苛めるのよ?」
神原美羽の外見でにこりと笑うもどきは、すん、と鼻を鳴らしながら泣き真似をする。顔を伏せた彼女をじっと見つめていた愛の横顔に、神原は焦った。
「おねえちゃん、だれ?」
「私は貴方の味方よ。そこの偽善者とは違って、貴方の幸せを第一に考えているわ」
「嘘つけ。お前が考えてるのは自分たち家族だけの平和だろ」
きょとんとした顔をして首を傾げる愛をしっかり抱えながら、神原はもう片方の手にいつでも武器を出せるよう体勢を整える。
この場所で裏世界のような力が使えるのは実証済みだ。
もどきが相手ならば引けを取らない。
問題は愛と彼女の両親の安全だけだ。もどきが何を考えているのかは知らないが、どうせロクでもない事に決まっていると神原は愛を下ろすと両親の元へ行くように優しく告げた。
「家族の平和を願うのは、当然の事でしょう? 貴方だってそうじゃない。まぁ、想い人を殺すだけしか能のない男には分からないかもしれないけど」
「……っ!」
「ねぇ、お兄ちゃん。好きな人が自分のせいで死んでいくってどんな気持ち?」
神原から離れるのを躊躇っていた愛だが、空気を読んでか一生懸命走って両親の元へと向ってゆく。そんな彼女を守るようにもどきの動きに気を配りながら警戒を強めた神原だが、もどきは愛の姿を一瞬目で追っただけですぐに神原へ戻した。
いつでも少女のもとへ行けるとでも言いたげな様子で、もどきは髪の毛を指先に巻き始める。
そして、可愛らしい声でエンジェルスマイルと呼ばれる笑みを浮かべ彼にそう尋ねた。
「聞いてどうする。一番殺したい相手は死なないから、欠陥だらけで役に立たないよ」
「えーそれって私の事? 酷いなぁ」
甘い声に虫唾が走りながら神原は身を屈めてもどきの攻撃を避けた。
鋭い彼女の爪による攻撃に綺麗に咲いていた花が無残にも散ってゆく。
「いつもいつも、邪魔なんだよね。私が妹に似てるらしいけど、それもチョー迷惑ってやつ。しつこいんだよ!」
「……っと、しつこいのはお前だろ!」
風を切る音が聞えて腕が焼けるように痛む。
しかし神原は顔を僅かに歪めただけで小さく身を沈め、もどきの鳩尾に拳を叩き込んだ。
受身を取ろうとする体に、出現させた鎌の柄で貫くように突く。
「ぐっ……」
「へぇ。思った以上だな」
「いつまで経っても主人公気取りで、いい気なもんね。ただその役を与えられただけなの、にっ!」
一気に間合いを詰めて長く伸びた鋭い爪の連撃を神原は最小限の動きで躱していた。本人も驚くくらいにもどきの動きが良く見える。
次はどう動くのか考える前に体が勝手に動いて、流し攻撃を叩き込む。
その間にも彼は小さく口を動かしながら不敵な笑みを浮かべていた。
「正直、俺もびっくりしてるよ。体が軽い上に能力が格段に上がってる」
「だから、何?」
「選ばれた人間だと酔いしれる、愚か者の気持ちが分かった様な気がするよ」
今なら神ですら相手にできそうだと勘違いしそうだね、と神原が穏やかな声でそう告げるともどきの形相が般若のように変化した。
癒しの天使と呼ばれた存在の変わり様も今では慣れてしまって神原が傷つく事はない。
ただただ、不快なだけだ。
「いいのかなぁ? 愛ちゃんたち家族も、丸焦げになって死んじゃうかもよ?」
「させねぇよ」
ガキン、と硬いものにぶつかる音が響いたと同時に神原は鎌を振るい、もどきに襲い掛かった。
跳躍してそれを避けた彼女は間合いを取りながら周囲を見回し、忌々しそうに顔を歪める。
焦燥と怒りを隠しきれていないその表情を満足そうに見ながら神原は首を傾げた。
「それに、そんな事したら大好きなパパとママに怒られるんじゃないのかな?」
「うるさいっ!」
「図星かよ。分かりやす過ぎて、つまらないな」
もどきの攻撃力は高く防御力もそれなりだ。
身軽な体躯で神原の攻撃も回避されてしまうが、きちんと防御する神原に対しもどきは攻める一方なのであまり防御はしない。
鋭い爪をクロスして鎌を受け止めたりもするが、力では神原の方が僅かに上回っていた。
攻撃力は高いが力は男女差でもあるんだろうかと考えながら、神原は自分が張った結界を壊そうとしているもどきを眺める。
「由宇さんじゃなくて、今度はあの子に乗り換えたわけか。なるほど。で、邪魔されないようにこうして見せかけの理想郷に閉じ込めた」
「悪いのはあんたたちなのに、何で邪魔するの? 何で正義面するの? パパとママと私を殺したのはお前達なのに!」
「それは、お前の両親がおかしいからだろ」
うるさいうるさい、と呟きながら神原は左からの攻撃を受け止める。しかし、気づけば眼前には嬉しそうに顔を歪めたもどきがおり、彼はまともに攻撃を食らって後方へと倒れた。
舞い散った花が口の中に入り、咳き込みながら胸部を押さえた神原は迫る殺気を紙一重で躱してそのまま横へ転がった。
鈍い体を叱咤し、起き上がると追撃に備える。
「第一、本当にお前の両親なのか? それは俺の妹になるはずだった神原美羽の体だ。お前はただその器を乗っ取っただけだろ?」
神原が嘲笑しながら構えるもどきにそう告げる。
攻撃を受けた時に口の中を切ったのか、不味い味がすると唾液交じりの血を吐こうとして彼は飲み込んだ。
視界に映った花畑をこれ以上汚したくなかったのと、悲しそうな顔をする愛の姿が浮かんだからだ。
挑発に乗りやすいもどきが今以上に激昂してくれれば、消耗させて撃退できると踏んだ神原だったが眉を寄せる。
予想では襲い掛かってくるはずのもどきが、その場から全く動かなかったからだ。
こっちから攻撃を仕掛けるかと考えたが何を企んでいるのか分からない。
ひとまず様子を窺う事にした神原の耳に、もどきの声が聞こえてきた。
「違う違う。私の体はパパとママがくれたもの。私はパパとママから産まれた娘。違う、他人の体なんかじゃない。違う違う違う」
それは神原にとっても予想外の出来事だった。
彼女が美羽もどきで、中身と体が別なんだという確証はどこにもない。神原も由宇も、自分が知る神原美羽とは違うからという理由でそう思い込もうとしていたという事もある。
本当は紛うことなき正真正銘の神原美羽なのかもしれない。
何らかの原因で神側に取り入れられ、洗脳されて彼らの娘だと思い込まされているという事も神原は考えていた。
その場合、洗脳を解けば元に戻るのかとも思ったが「無理」とギンの答えは余りにも無情。
そんな都合のいい事があるわけもないか、と自嘲したばかりだったので小刻みに震える彼女に神原も動揺していた。
「……美羽?」
「違う! 違う違う違う! 私をその名前で呼ぶな! 私はお前など知らない! 神原美羽でもない! うるさいうるさいうるさい!」
もしかしてもどきの中には、本来の体の持ち主である美羽が宿っていて封じられているだけなんじゃないかと思った神原が名前を呼ぶ。
すると、もどきはカッと目を見開いて大声でそれを拒絶した。
彼女の咆哮がビリビリと大気を震わせ、結界を揺るがす。
防御体勢を取りながら結界の強化をした神原は、緩んだ気を引き締めて彼女の動きを注意深く観察する。
一瞬で間合いを詰められる恐れもあるので気は抜けない。
こんな所で倒れるわけにはいかないと、神原の心の奥底にボッと炎が灯った瞬間でもあった。
「私は分身なんかじゃない。本体だもの。あんなのとは違う違う。パパとママの娘なの。うんと良い子なのよ。世界を創った神様の娘。そう、それが私」
「創ったは創ったでも、元ある世界を壊して好き勝手に歪めた極悪人だろ」
「何で?」
俯いていたもどきがゆっくりと顔を上げる。
だらん、と力なく下げていた両手が素早く動いて自分の首を獲りに来るかもしれないと、神原は大鎌の柄を持つ手に力を込めた。
「何でって、それが事実だからだよ。両親から聞いてないのか?まぁ、都合の悪いこと言うわけないか」
「なんで、パパとママは世界を歪めたの? なんで? なんで?」
「知らないよ。俺だってお前のパパとママに直接聞きたいくらいだ」
どうしてなのかは知らないが、酷く動揺しているもどきからは攻撃する意思が感じられない。しかし、油断は禁物だと神原は数歩静かに退く。
全てが罠に見え、隙だらけにしかみえないもどきも自分が飛び込んでくるのを待っているだけなのかもしれない。
そう注意深く考えて、戸惑いながらも神原は律儀にもどきと会話をしていた。
「三人で、さんにんでしあわせに、幸せに……暮らしてたのを、壊されたから。だから、だから!」
「それはお前の両親が創った歪んだ世界ができてからだろ?」
「何で? だって、パパとママと私はあいつらに壊されたのに……」
パパとママは、三人で平和に暮らしたいから皆も幸せになれる世界を創っただけだって言ったのに。
元の世界で私達を殺したのは、誰?
答えを求めてはいないのだろうが、気味が悪い。
そんな事知るか、と吐き捨てそうになりながら神原は壊れた人形のように首を傾げ、目を見開いているもどきを睨みつけた。




