161 うさ
おやすみ。
教授の声に誘われるようにして眠りに落ちてゆく私は、緩やかな落下の中で心が懐かしい温もりに満たされていくのを感じていた。
それは私を体ごと柔らかく包み込んで心に染みてゆく。
幸せな夢が見られそうだと人知れず私は微笑を浮かべていた。
目覚めて見るのは今度は何か。
夢なのか、違う世界なのか、現実か。
最早どうでもいい気持ちになりながら、心の準備も無いままに目覚めてしまった私は呆気にとられる。
「いや、駄目だ私! これは罠だ」
最初に甘い香りが鼻を擽って、可愛らしい花が目に入った。
空は青く、白い雲がゆったりと流れていくさまを見ながら暫くぼんやりしていた私だが、ハッとして両頬を叩いた。
うん、痛い。
痛みは感じるけど、ここは現実じゃない。
内世界ともちょっと違う気がするし、夢かどこかの領域か。
それで今度は何をしろというんだろう。
何が待っているのか、少し不安だ。
本当になんで私ばっかり、とやる気無さそうに呟きながら上体を起こせば両足の間に白い物体がある。
石かと思ったが、小さく動いてもこもことしている。
よく見てみると意外と大きい。
「ぎゃああ!」
「ひゃあああ!」
何、私寝てる間に卵産んだ?
えっ、卵生だったの?
そんな事を一瞬考えながら私の悲鳴に飛び退いた物体に首を傾げる。
驚かせてしまったようで悪いけど、目覚めて自分の両足の間にあんな物体があったら誰でも驚く。
むこうも悲鳴を上げたので生き物には間違い無さそうだ。
生き物は素早く逃げてしまったのでその姿は見えなくなってしまった。
「なんだったんだろう」
地平線まで続く綺麗な花畑に、雪をかぶった山、川のせせらぎと楽しそうにお喋りをしている鳥の声が聞こえた。
絵に描いたような楽園、理想郷だなと思いながら目を擦る。
「夢か」
着ている服は普段着で病院服のようなあの変にぴっちりしたものではない。
体中のいたるところに付けられていたコードも無ければ、針の痕も無かった。
試しに簡単な術を唱えれば、咲き誇る花に混ざって逞しい影の手が数本生える。
カタス、と呼びかければそれらは小刻みに震えた。
「違和感ありすぎだわ」
その様子を見て私は千切れんばかりに尻尾を振る犬を思い浮かべた。
確かに、主人には忠実で戦闘力こそ低いが頼りにはなる。好き嫌いなく何でも食べて、私が落ち込んでいたりする時は必死に芸をして慰めてくれる。
体育座りでいじけていた頃が懐かしい。
「カタス、ここどこか分かる?」
私の言葉にカタスはユラユラと手を左右に振った。
カタスも良く分からないらしい。
ともかく、カタスが召喚できたという事は他の術も使えるという事だ。
これで何かあっても自分の身を守ることはできる。
ミシェルとゴッさんも呼ぼうかと考えたが、花畑にゴツイ格好をした男を呼んでも似合わない。そしてこの景色に何だか申し訳なくなる。
「由宇おねぇさぁ~ん!」
「ゴブッ!」
私を呼ぶ聞きなれた声が聞こえたと思えば、胸部を抉るような衝撃が襲う。
視界に映った白色の弾丸を避けることができなかった私は、目を白黒させながら後方へ倒れた。
とっさにカタスが緩衝材の役割を果たしてくれたお陰で、痛みは胸部だけで済んだけど。
覆いかぶさるように体の上に乗る何かを、カタスの助けで起き上がると同時に手で払った。
「ひゃうん!」
「はぁ。狙ってるんですかね、そういう言葉って」
「辛辣っ! 冷え冷えとした目に苛立ちを隠さない声色! これはっ、本物ですね」
白い物体は抵抗する事なくコロンと転がり地面に倒れる。
しなやかで女のものと思われるカタスが、私の胸部を優しく擦ってくれた。
順番待ちをするように背中を支えてくれていた逞しい腕たちが一列に並ぶのを見て、手で軽く追い払うと彼らはつまらなそうに離れてゆく。
指先を細かく動かして何やら会話しているようだ。
恐らく、愚痴だろうけど私には関係ない。
「何であんたがここにいるの? 本物?」
「でっす!」
「おかしいな。私が知ってるイナバは、可愛らしい真っ白なうさぎさんなんだけど」
「ほらほら、耳と、尻尾はちゃんとありますよ! 立派なうさぎです!」
確かに、イナバが主張するように耳と尻尾はある。
ただし直に生えているのではなく、うさ耳付きフードともこもこワンピースにだ。
それはただのコスプレだろうと溜息混じりに言うと、イナバはフードを脱いで唇を尖らせた。
「あら、本当だった」
「なんなら尻尾もお見せしますけど?」
「いえ、結構です」
「ブー」
カタスは、喜ぶように手を叩いてイナバの周りをぐるりと取り囲んだ。イナバはそれに気を良くしたのか調子に乗るようにポーズを取る。
モデル気取りか、と心の中で突っ込みつつカタスが警戒しなかった事に私は再び溜息をつく。
これは本物なのか。
もしくは私が想像した存在か。
どちらにせよ害はなさそうだから安心した。
「で、人間になって何してんの」
「ノオォ! 人間じゃなくて、こ・ど・も、ですよ!」
「別に大差ないんだけ……」
「いたいけで、可愛らしくて、つい守ってあげたくなるようなそんなPrettyさを目指した結果です」
どうでもいいけど、なんで途中で発音が良くなった?
私としては小動物のままの方が良かったんだけど。
両手を組み合わせてくねくねと動く、見た目少女のイナバは子供を強調する。
少年なのか、少女なのか。見た目からは分からない。
私の表情から何を考えているか察したのか、イナバは片手を腰に当ててもう片方の手でVサインを作り私の目の前に突き出した。
「当然、両性です」
「はぁ、そうですか。それは良かったですね」
「んもう! 何でそんなに反応薄いんですか! もっと可愛がって褒めないと、うさぎは怒って死んじゃうんですからねっ!」
寂しくてじゃなくて、怒って死ぬのか。
まぁ要するに、可愛いねと褒めて欲しいんだろうけど。
なんでそんなことを求めるのかよく分からないけど、面倒だからとりあえず褒めておこう。
「あー、可愛い可愛い」
「ブーブー! 投げやりだー!」
「イナバ、座って」
「ブブゥ……はい」
まあまあ、とカタスに宥められていたイナバは可愛い顔を歪めて鼻を鳴らしていたが、私の言葉を聞くとすぐに大人しくなった。
私の真正面に座ったイナバはそわそわ、と落ち着かない様子で私を見つめる。
すぐに言うことを聞いてくれる素直さは可愛いと思う。
「ちょーしに乗って、すみませんでしたぁ」
「うん、それはもういいから」
「うわぁ、あっさりスルーだった。そして相変わらず上から目線できっついー」
「めんごめんご」
このやり取りにホッとしてしまう私は、疲れているんだろうか。
そう思いながらお互いの状況を説明した私達は、感動の再会を喜ぶでもなくこれからどうしたものかと相談していた。
イナバは私に会いたいとか、私の元に行こうという思いは一切関係なく眠り目覚めたらここにいたそうだ。
念の為言っておくが、管理者の元にいても私の事が心配で心配でたまらなかったという事は本当に一切なかったらしい。
私は一応イナバのことも心配していたんだけど。
ちょっぴり切なくなりながら目元を拭うと、「ゴミですか? 擦っちゃ駄目ですよ」と的外れなことを言われたので曖昧に頷いておいた。
「由宇お姉さんに、見て欲しいものがあるんですけど……いいですか?」
「いいよ。けど、イナバがそう言ってくるのも珍しいわね」
「そうですか?」
「うん。いつも大体、強引に連れて行かれるような感じだから」
ノリや軽口はいつもの調子だが、何かを気にしているように落ち着かない素振りを見せる。
言いたいことがあれば遠慮せずに言えばいいのにと思っていたが、もしかしてトイレだろうか。
それなら、さっさと済ませてくればいいのに。
「言っておきますけど、別にトイレじゃないですからね! トイレならさっきしました」
「なんだ」
「もう、デリカシーないですよっ!」
「ごめん。イナバの前では特に必要ないかなって」
「心許してもらえてるって喜んでいいのか、情けなくて悲しむべきなのか分からなくなりますね」
好きなほうで、いいんじゃないかな。
にっこりと笑みを浮かべて私がそう告げると盛大な溜息を吐かれてしまった。
イナバは「全くこれだから……」と、私への愚痴を呟いている。
その様子になつみが重なって、最近構ってあげられないことを寂しいと思った。
よく一緒に買い物にも行っていたのに最近は断ってばかりだ。
出かけられる余裕がないとは言え、気分転換に一緒に遊ぶべきだったかと後悔する。
「で、どこに行けばいいの?」
「こっちです」
「罠とかじゃないでしょうね」
「だったら、カタスが反応してると思いますよ」
そうですね。
ムッとした表情をする私に、イナバが淡々と返した。
先を歩くイナバは軽やかな足取りで進んで行く。走りたくない私との距離はすぐに開いてしまい、早く来るようにと急かしてきた。
「時間制限なんて別に無いんでしょう? だったらいいじゃない」
「もう! キビキビと歩いてください! ほら、早く!」
「やっぱり、うさぎの方が可愛かったかなぁ」
はたから見たら幼女に振り回されているおばさんだ。
親子には見られないだろうから、おばと姪と言ったところだろうか。
兄さんが例の彼女と切れずに続いていたら、結婚してとうに子供はできているだろう。あのくらいの歳頃になるのかなと勝手に想像してから、途中でやめた。
頭を左右に振ってその考えを頭から追い出す。
万が一にもそれが現実になったらと思うと、恐ろしい。
考え過ぎだと笑われる気がしたが、にょっきりフラグが立ってしまう気配がしたのでそれ以上考えるのはやめた。
「早く来てくれないと、語尾にずっと“うさ”つけて話しますからね~」
「えっ」
それってどうなの、と思ってから別にいいかと鼻を鳴らす。
言うのは私じゃなくてイナバだ。
いや、でもイナバと一緒にいる時間が長くなれば苦痛になるかも?
そう思うと鬱陶しいような気がして私は仕方なく走り出す。
舞い上がった花びらが風にさらわれて上空へと流れていくのを見送っていると、ぐいと手を引かれた。
そちらに目を向ければ頬を膨らませて私の腕を掴んでいるイナバがいる。
「由宇お姉さん、行きますうさ」
「えぇ……」
「いいから黙って着いてくるので……うさ」
「今、迷った? 迷ったよね、語尾迷ったよね?」
「ウザいうさ」
ウザいなんて失礼な。
少し楽しんでからかっていただけだ。
それが気に入らないんだろうなと思いながら、私は頬を膨らませたままのイナバを見下ろした。




