144 PASS THE GATE
ゆったりとしたピアノの音色が流れる店内。
場違いな雰囲気に緊張しながら、薔薇を模したグラスに入った液体を眺めて溜息をついた。
カウンターの内側で軽食を作っていた神原君が顔を上げ、目が合う。
「お口に合いませんでしたか?」
「いや、とても美味しいです。飲みやすいし上品で」
「それは良かったです」
にっこりと、バーテンダーの姿をした彼はホッとしたように顔を綻ばせる。
彼は現在私の為に食事を作ってくれている。
小腹が空いたとの呟きを聞き逃さず、彼は何か作ると言ってくれたのだ。
手際良い彼の手元を見つめていると照れたような表情で笑う神原君。
ここは彼の内世界だ。
だからどういう設定だろうが彼の勝手なのは分かるけど、こういう場所に憧れがあるのかと知れたいい機会だった。
高校生だとは思えないくらい渋い、と思うのは私だけだろうか。
「本当に手馴れてるね。私より上手いと思う」
「そうでもないですよ。両親共働きなので、必然的に家事をする時間が多くなるだけで」
「それにしても、興味ないと中々出来ないと思うよ?」
「一人暮らしの練習はバッチリですけどね」
ピンタックカラーシャツに蝶ネクタイ。
黒のベストにロングエプロンという姿は、彼には少し大人過ぎるような気もしたがそれなりに見える。
同年代の彼に思いを寄せている主要人物辺りが見たら、頬を赤らめてうっとりするに違いない。
シャツを肘の辺りまで捲くっているのもポイントか。
「そうね。でも、世話を焼いてくれる幼馴染の女の子とか、許婚とかいてもおかしくないんだけどね」
「本当ですよね!」
「そう、ですかね?」
「神原君は強運で女の子にモテる要素を持ってるからねぇ」
女の子に困らないとか、ハーレムだろうと思わず口から出そうになった言葉を飲み込んで、明るくそう言ってみる。
言ってから、彼のこれまでの事を思い出して女難としか言えないんじゃないかと思ってきた。
好きになった相手は死亡し、避けられない死亡エンドルートに入ってから前回もその前もずっと同じ事を繰り返してきたのだ。
だったら、と遠ざけようとするけれど目に見えない力でどう足掻いても接触はしてしまう。
進みは遅いだろうが一年目のこの段階で、大体のヒロインとは会ったと言っていた。
その中でも異色なのは、なつみだ。
私の存在が影響を与えているのかもしれないが、どうやら他の子たちとは違って良い知り合い程度の仲らしい。
友達と言うにはまだ遠いようだと神原君の話から推測し、私はホッとする。
「由宇さんと出会う前に比べたら、マシにはなりましたけど。でも、見えない力が働いているのか、完全に接触絶てないのが辛いですね」
「不登校しても家に押しかけられて逆に危ない、学校を変えようとしても入学前の春休みで何ができるわけでもない……か」
「入学式を仮病でサボっても、桜井さんとぶつかるのは避けられませんしね」
神原君のような立場をいいなぁと羨んだこともあったが、話を聞けば聞くほど爆弾だらけで嫌になる。
今のポジションで良かったと心底思いながら、私は聞けなかった事を思い切って聞いてみることにした。
私と彼が、仲違いというか疎遠になってしまったような原因について。
「今思うと、自分でもどうしてあんな事を言ったのかなって不思議なんです」
「くろうさが言うには、同化してる証拠じゃないかって」
「……ギンからも言われました。前世の記憶が薄らいで、本当に神原直人という人物に近づいてるせいだろうって」
そう告げる神原君はどことなく寂しげだ。
思わず眉を下げた私を見た彼は、慌てた様子で笑顔を浮かべるとサンドイッチが盛り付けられた皿を目の前に置いてくれる。
美味しそうなサンドイッチにぐるる、とお腹が鳴った。
少々行儀悪くカウンターの上に座っているイナバも、涎を垂らしている。
そんなイナバにスティック野菜の入ったグラスを置いた神原君は、驚いたように顔を上げたイナバに軽く片目を瞑って笑みを浮かべた。
これだから、女の子が放っておかないんだよなぁと思いつつ私は両手を合わせていただきますと呟く。
膝の上では先ほどからくろうさが観察するように神原君を見つめていた。
「普通はそれでいいんですよ。ゲームの登場人物は新たに生まれた存在もありますが、その大多数は神原君と似たようなものですね」
「……融合したって事ですか?」
「ええ。本来なら元々の世界で生きてきた記憶は融合、同化の際に消えるんですけれどね」
さらりとくろうさは言っているが、恐ろしい発言じゃないだろうか。
いや、でもやっぱりそんな事すら覚えていないから別に問題ないのか。
覚えているからこそ生じる不具合は、私や神原君以外に発生してないといいけれど。
そんな事を思っているとセロリを食べていたイナバがぽつりと呟いた。
「新井の母親は中途半端に同化していたせいで、発狂してしまいましたけどね。ああいう人に対するフォローが全くありませんよね」
「……そうですね」
「自滅するようなものは、後々【再生領域】でどうにかするか“なかったこと”にすれば良いなんて、流石神の域に到達する存在は違いますね」
新井君のお母さんは前世の記憶を持ってると言っていた。
前回と今回の記憶を二つ持っているから、その違いに混乱してついには発狂しちゃってさよならしたのだと。
まさかそれが息子である新井君に影響を与えるなんて本人は思ってなかったんだろう。
幼少時に大好きな母親がそんな事になってるなんて分かるはずもないだろうし、夫である彼の父親もまさか妻がそんな状態だなんて夢にも思っていないだろうから。
普通に、精神がおかしくなちゃったみたいだからお薬飲んで休んでいようね、程度だろうなぁ。
それがあんな結末になった挙句、幼少時のトラウマを抱えたまま新井君もあんな風になってしまったわけだけど。
情報収集も兼ねて見舞いに行った時は、彼が死ぬなんて思ってもみなかった。
ずっと眠り続けたまま、全て終わったら起きて父親と和解するんじゃないかなぁと楽天的に思っていたのに。
「なかった事にできなかったから、の悲劇なのかな?」
「え?」
「ううん。多分、もうあの母子は大丈夫だと思うよ」
その為にはリセットなんてするわけにはいかない、と私は深く息を吸い込みながら鳩尾のあたりを叩いた。
不思議そうに見る三人に笑って「ただの勘だけど」と告げる。
ふと、白い手が親指を上に向けている光景が浮かんで笑みがこぼれた。
「とにかく、リセットはできないわね。気を引き締めないと」
「ええ。今更ここでリセットされたらたまりませんね」
私は神原君と顔を見合わせて力強く頷き合う。
今回は今までと積み重ねてきたものが違う。
いい機会はこれを逃せばいつ巡ってくるか分からない。
だから、慎重になるべく死なないように気をつけなければいけなかった。
「それにしても、イナバは会う度に人間臭くなっていきますね」
「もしかしたら神原君から前世の記憶を吸い取ってるのかもよ?」
「そんな事してません! 第一、そんな事をしてもメリットが無いですよ!」
「はっきりそう言われると、僕も傷つきますね」
「あ、や……えっと、その」
冷静に考えれば神原君の態度も演技だとすぐ分かりそうなものなのに、面白いくらいに動揺するイナバはオロオロとしながら私に助けを求めた。
カウンターの縁に前足を乗せるくろうさに、野菜スティックを食べさせながら私は苦笑する。
「私は前の記憶が無くなるとか、薄れているような感じはしないんだけど神原君は顕著みたいね」
「そうですね。そう考えると前世の記憶を失わない由宇さんに嫉妬してたのかもしれません」
「嫉妬ねぇ」
「はい。だから、あんな事を言ってしまったのかも」
「いやいや、私もデリカシー無くて自分勝手なことばかり言ってたから」
あの時は自分の事ばかり考えているせいで、呆れられてしまったとしか思っていなかったけど。
今まではっきりと覚えていた記憶が少しずつ無くなっていくって、どういう感じなんだろう。
その消え方が本当に少しずつだったら焦りも不安も感じないはずだ。
通常の忘却と同じようにゆっくりと消えていくんじゃないんだろうかと尋ねれば、神原君は眉を寄せて首を傾げる。
「僕は日記というか、メモを取ってるんです。今まで、前世の記憶は薄れる事無く本当に濃いくらいでしたからメモする必要も無いんですけど頭の整理も兼ねて」
「あ、そうなんだ。私は最初やってたけど、そういうものは持ち越せないからもう書いてないな。万が一家族に見つかった場合も怖いから」
「そうですね。でも、僕の場合前世の事が書いてあるノートを親が見たとしても、この歳特有の妄想が爆発してるんだろうな程度だと思いますから心配してません」
「じゃあ、前世の心残りは?」
自分が見ても恥ずかしすぎるノートや、携帯の中身。自分のパソコンがあるなら、HDDに保存している文章やら画像やら映像やらやましいものが一つくらいはありそうだけど。
この世界で生きて私の趣味が家族にある程度バレてたとしても、見つかると微妙な気持ちになる。
何かこう、男子中学生が身内にエロ本を見つけられた時の気まずさに似てるような気がする。
なつみは「またか」って溜息つくだけで終わるだろうし、兄さんは「お前の趣味はコイツだろ」なんて意中のキャラクターを当ててきたりするかもしれない。
あの二人ならまだ傷は浅いけど、母さんに見つかって何も言わずただ呆れたような目をされて溜息をつかれた日にはもう。
想像しただけで怖い。
「心残りですか? 買い集めたグッズとか、行く予定だったイベントの事とかくらいですかね」
「パソコンの中身とか、本棚の裏とか引き出しの裏に貼り付けた何かとかそういうのは無いの?」
「っ!? な、何で引き出しの裏を知ってるんですか!」
「え、いや……小さいメモリーカードとかなら貼り付けておけるかなぁと。あとは、付録とか店舗ごとに違う特典とか」
そこまではやらないかと思いつつ、動揺した神原君を見ながら指折り上げてゆく。
イナバだけではなくくろうさまで興味深そうに目を輝かせる一方で、神原君はよろけて背後の棚に軽くぶつかった。
そこまで頭が回らなかったんだろうか。
でも、神原君の趣味なら多分可愛いくらいだと思うけど。
「でもあれか。そいう物が出てこないってことは、心配になるような事は無いんだもんね。いいなぁ」
「……抱き枕、添い寝シーツ、添い寝CD」
「えっ?」
「迂闊だった……なんで僕は今までそんな重要なことを忘れて……うわあああああ!」
はぁ。意外と濃いみたい。
抱き枕に添い寝シーツとは、レベルが高いわ。
神原君の前世がとても気になってきたんだけど、この様子だと話してくれないだろうな。
「由宇お姉さん。人は誰だって、開けられたくないブラックボックスを持ってるんですよ」
「あ、うん。なんだかとても悪いことをしたと思ってるわ」
「ええ。誰しも知られたくない事はありますからね」
ここでの慰めは逆効果だろうか、と思いながら神原君の様子を窺う。
彼は頭を抱えたまま叫んでおり私達の会話も聞こえていないようだ。
「神原君、ごめんね? でもほら、そういうの耐性あるから平気だし、他言無用にするから」
「うわぁ、うわあぁぁぁ!」
「あーやっぱり逆効果か」
「……ですね。可哀想に」
私にバレたくらいでそう気にしなくてもいいんだけど。
顔見知りにバレたというのが嫌なのかな。だとしたら、申し訳ない事をした。
気まずさを誤魔化すように私は神原君が作ってくれたサンドイッチを無心で頬張り続けた。




