141 しろかみのきみ
由宇がいなくなったその場所で、白い手は静かに化け物へと近づく。
慰めるようにその頭部を撫でれば甘えるような声で化け物が鳴いた。
うさぎが赤い瞳でその様子を見ていると、上方から何かが降ってきて白い手と化け物を貫く。
それは一瞬のできごとだった。
小さく痙攣した白い手は震えながら化け物を包み込むように握り、静かにその姿を消した。
彼女達が消えたその場所に降り立った少女は、舌打ちをしながら顔を歪める。
苛立つように床を蹴り、爪を噛む少女はぶつぶつと悪態をついているようだった。
そんな少女をじっと見つめていた白いうさぎは、フンと鼻で笑うと口を開く。
「こんな所にまでわざわざ出張なさって、お仕事とはご苦労様ですね」
「な、お前……っ!」
「玩具に反抗されて癇癪起こしているんですね。可哀想に」
玩具に反抗されるなんて、と笑う白いうさぎに少女の髪がブワッと逆立っていった。
分かりやすいと思いながらうさぎは笑う。
自分の思い通りにいかないとすぐに癇癪を起こす。本当に彼女は子供だ。
うさぎは大きく欠伸をしてこちらに走ってくる少女を見つめ、やれやれと呟いた。
「死んじゃえ! 消えろ!」
掌に出現させた光が鋭利な槍のような形へと変わってゆく。それを両手で握り締め、地を蹴った少女がうさぎに飛びかかった。
しかし、槍はガツンと硬い床に突き刺さるだけでうさぎの姿はない。
眉を寄せた少女が顔を上げた瞬間、横からの衝撃に思い切り吹っ飛ばされる。
彼女の手から離れた槍はすぐに消え、少女の体は床を転げ滑っていく。
「雑魚が!」
「はいはい」
顔を歪めてゆっくりと上体を起こす少女、美羽へとうさぎは適当に返事をして肩を竦める。
血走った目と腫れた頬が痛々しいが、うさぎは眠いのか大きな口を開けて欠伸をしていた。
「さて、と」
ぷるぷる、と頭を左右に振れば小動物のうさぎが人の姿へ変化する。
背の高さは由宇よりも頭ひとつ分くらい低いだろうか。
後頭部に拳大のお団子があって、その根元には細く編みこまれた髪がぐるりと巻かれている。それでも長く量のある白髪は背中を覆い隠すくらいで、キラキラと淡く輝いていた。
うさぎは窮屈だったかのように大きく伸びをして、ストレッチをする。その場でピョンピョンと跳ねて体の調子を確かめていた。
そして満足そうに笑みを浮かべると、倒れた体を起こす美羽にファイティングポーズをとり始める。
「個人的に貴方は非常に気に入りませんから、私も容赦しませんよ?」
美羽は勢い良く立ち上がると間合いを詰め、鋭く手刀を叩き込む。
しかし、うさぎはそれを片手で難なく受け止めて彼女の顔面に蹴りを入れた。
後方へ吹っ飛ぶ美羽だが、掌に発動させた魔力の塊をうさぎに向けて放つ。禍々しいその塊を避けることなく全て蹴って返すうさぎ。
退屈だとでも言わんばかりに欠伸をするうさぎの姿に、美羽は歯軋りをしながら無数の剣を出現させうさぎにぶつける。
嬉しそうに歪んだ美羽の顔も一瞬だけ。
轟音と共に無数の剣は床に突き刺さり、そこにうさぎの姿はない。
「う、あああああ!」
直後に感じた鈍い痛みに悲鳴を上げて膝を突く彼女を、うさぎは赤と黄色の瞳で冷淡に見下ろす。
あらぬ方向へ曲がってしまった右手首を左手で必死に押さえながら泣き喚く少女は、歯を食いしばって右肩に左手を添える。
そして、この世のものとは思えぬ悲鳴を上げながら自分の右腕を引き千切って食べた。
非常にグロテスクなシーンを目にしてもうさぎは動じない。
興味深そうに口の周りを真っ赤に汚し骨も残さず食べ切った少女を見つめ続けていた。
「損傷した箇所を排除、吸収で再構築……なるほど」
「私の体は、パパとママがくれもの。少しも無駄にできるわけないじゃない」
「……私の体、ねぇ」
うふふふ、と場に似合わぬ可愛らしい声で笑う少女は陶酔したような表情で口を開いた。
指先の爪を鋭く変形させて懐に飛び込んでくる彼女を、うさぎは事も無げに受け流してカウンターを放つ。
胸部への強打に苦しげな声が漏れて、少女の体はあっけなく硬い床の上に叩きつけられた。
「私は、パパとママの娘なの。誇れる……娘なの。神の子なのよ? 神の子が、負けるわけ無いじゃない」
「それってフラグですよ?」
起き上がろうとした少女は、落ちてきた影に顔色を変えて再び床にキスをした。容赦の無い蹴りに避ける隙も力も無く、サンドバッグのように転がるしかない自分の体に美羽は首を傾げた。
自分は世界を創造した神の子なのに、どうしてこんなに弱いのかと。
あんな雑魚にどうして負けるのかと。
「その程度で倒れちゃ困りますよ。由宇お姉さんの痛みはこんなもんじゃないですしね」
「なに言ってんの?」
「あぁ、分かりませんか。そうですよね、所詮貴方にとっては路傍の石ですから」
それとも目の上のたんこぶでしょうかね、とうさぎは告げて焦ったように顔を歪め逃げようとする少女を静かに追う。
逃げ場なんてどこにもないのに、美羽は必死に逃げてゆく。
さっきまでの好戦的な態度が嘘のようだ。
「それともサンドバッグですかね?」
「何なの? 何で、何でいつも私達の邪魔をするの? そっちが悪いんじゃない! 私達はただ家族で過ごせれば良かったのにぃ!」
少女の悲痛な叫びは歳よりも幼い印象を与える。
体を震わせながら覚束ない足取りで必死に逃げようとする少女の姿を眺め、うさぎは溜息をついた。
勝敗の見えている追いかけっこなので、急がなくていいんだろう。その足取りは変わらずゆっくりだ。
「家族でねぇ。本当に、何も知らないんですね」
「何でよ! なんでなのよ!」
自分がこれだけ追い詰められる理由が分からないんだろう。
分からないはずがない、と鼻で笑うとうさぎは前に落ちた髪を後ろへ払った。
美羽は泣き喚きながら必死にうさぎから逃げ続ける。
あれだけ由宇や神原を困らせていた彼女と同一人物とは思えないほどだ。
「貴方は勘違いしていますから、教えてあげますよ。ほら、冥土の土産って言うでしょう?」
「かんちがい?」
「ええ。元々ある世界を破壊し歪め、己の好き勝手に創り上げたのは貴方の大好きなパパとママですからね」
自分の腕を食いちぎって再生していた少女からはもう覇気が消えている。
あれだけ凄んでいたのになと思いながら、うさぎはその変わりように残念な気持ちを抱いていた。
もう少し強いかと思っていたが、手応えがなくてつまらなそうだ。
目の前の少女に自分の大切な人がどれだけ酷い目に遭わされたかと思えば、怒りは消えない。
「うそ……だ。嘘だ嘘だ嘘だ! パパとママがそんな事するわけ……っ!」
「じゃあ、聞いてごらんなさい? どうせ貴方は分身でしょう? 分身が消えたところで本体にさして影響はないですから」
分身と指摘された少女は大きく体を震わせ、自分の体を抱きしめた。
その目にはもう恐怖しか浮かばない。
「ヒッ!」
「あぁ、でもどうせならもっと機械的にしておくべきでしたね。無駄に感情豊かだと、貴方が感じたもの全てそのまま本体に伝達されるでしょう?」
ふふふ、と笑みを浮かべた白髪の人物は綺麗な微笑を浮かべ低音を響かせながら、とろけるような甘い声で怯える少女に囁いた。
「さようなら、レイ」




