125 乙女の祈り
油断していた。
油断していないつもりで、しっかり油断していた上に慢心していた事を思い知らされる。
ああ、なんて馬鹿なのか。
「ユウ、大丈夫?」
「なんとか……生きてる。ありがと」
モモが敷いてくれた回復魔方陣と、翳された手のお陰で苦痛に支配されていた体が楽になる。
呼吸荒く、床に手をつきながら私はこぼれ落ちる汗を見つめた。
夢の中なのに、死ぬかと思った。
現実で何度も感じた、あの迫り来る死の気配がした。
「華ちゃんは、眠らせておいたよ。その方がいいでしょ?」
「うん……さんきゅ」
ゆっくりと回転する魔方陣を見つめていた私は、ふうと息を吐いて顔を上げる。
視線の先にはミシェルの傍で眠る華ちゃんがいた。
長い睫が影を落とし、桜色をしていたはずの肌は青白くなってしまっている。着ている制服は所々汚れ、僅かに寄せられた眉に心的負担も大きかったのだと私は溜息をついた。
彼女の大丈夫だという言葉を鵜呑みにして気付くのが遅れた私が悪い。最初から華ちゃんは結界でも張った中に待機してもらうべきだったんだ。
「ごめん、ミシェル……華ちゃんよろしくね」
「それは言われるまでもないが……まさかお前っ!」
鍵によって解放されたエリアは、第一、第二音楽室。
そして今私達は第二音楽室にいる。
歪みが存在するのは予想通り第一音楽室で、それを守るように立ち塞がった敵に翻弄されなんとか私達はここへ逃げてきた。
「だいじょーぶだって。私とユウで充分だよねぇ」
「わたしもいます!」
「うん。イナバちゃんも一緒だ」
腰に手をあて、Vサインをミシェルの目前に突き出すモモは疲労感を一切見せずに笑う。
攻撃に、回復にと活躍して疲れているはずなのに。
それに比べて私の情けないこと。
そうだ、こんな場所で疲れてなんていられない。帰るまでが遠足だというなら、これだって帰るまでが冒険だ。
厄介なことになって頭が痛い。
なんだ、いつもの事だ。
ふう、とゆっくり息を吐いた私は楽になった体を動かし、軽くストレッチをすると大きく伸びをした。
「よし、大丈夫」
「うん。行こうか」
第二音楽室から隣接する第一音楽室へ繋がる扉は危険性が高いのでイナバに封じてもらっている。第二音楽室は何も異常が無いのでそのくらいの力は使えるらしい。
それならばその勢いで第一音楽室もまるっとどうにかできないものかと言えば、無理だと即答された。
流石にそれが出来たらさっさとやっているとちょっと怒られる。それもそうか。
歪みが存在しているのは第一音楽室。
それは一度、突撃した時にイナバが確認したので問題ない。
問題なのはそう簡単に歪みを修復できないという事だ。
歪みがただそこにあるだけなら何の問題も無い。周囲に与える影響と、歪みが大きくなった場合の対処を考えるだけで済むからだ。
イナバの力で修復できないくらいに拡大してしまった歪みは、一度その空間だけを隔離して管理人たちに任せるという話になっていた。
歪みによって発生した強力な力に引き寄せられて、発生源周辺の敵は他の場所にいるものよりも強い場合が多い。
しかし、それも倒せないわけでは無いので何とかなる。
まともに戦っていては疲労が激しいので、カタスが根付いてくれた事はラッキーとしか言いようが無い。
現に今も大量発生して我が城だとでも言わんばかりに存在感を増しているカタスが、床、壁、天井をびっしりと埋め尽くしていた。
ほぼ制圧が完了したと言ってもいいくらいなのに、目の前の部屋だけは難易度が違う。
まるで宝物を守るかのように。
大切な場所を汚されまいとするように。
一心不乱にピアノを奏でる、可憐な花が茎や葉に茨を纏って邪魔をする。
つまりはボスだ。
大体予想はつくパターンだけれど、寧ろ誰もいなくてポカーンとしてしまう光景でもいいと思う。
意気込んで入ったはいいものの、いると思っていたボスがいなくて拍子抜けする。そんな体験してみたい。
事前に準備を整えたり、心を落ち着かせてシミュレーションしたりするのが無駄になってみたい。
「はぁ」
「はーっ」
私とモモはカタスで埋め尽くされた廊下で、同時に溜息をつく。
華ちゃんの事はミシェルの他に、本の妖精とやらもいるから何とかなるだろう。
モモが残してくれた魔法陣も発動したままなので、ミシェルと華ちゃんはだいぶ楽になるはずだ。
万が一を思ってミシェルを残したが、できることなら万が一なんて無いほうがいい。
こんな事を考えていると本当にそうなりそうなので、私は慌ててその考えを追い払った。
「いやー参ったわ。夢の中で苦戦するって、中々ないよねぇ」
「まぁね。でも、新鮮味があっていいんじゃないの?」
「うん。不謹慎だけど、私凄くワクワクしてる。ゾクゾクって言うの? 一番楽しいかも」
「だろうね。凄くいい顔してるよ、モモ」
逃げたい逃げたい逃げたい。逃げたくて堪らない。
きっと、私が一人だったらそう思っていたことだろう。
無理矢理なつみだけでも連れ帰って、後は知らん振りしていたかもしれない。
そういう意味では、モモがいてくれて本当に良かったと思っている。
「ごめんね、モモ。私の悪夢に毎回つき合わせちゃって」
「何言ってんの。悪夢なんかじゃないよ。私すっごく楽しめてるから」
嘘を言っているようには見えないモモの笑顔に励まされ、安心する。そうしてから、私は彼女のこの言葉と反応を待っていたんじゃないかと苦笑してしまった。
自分が生み出した幻影だと思っていたファンタジーの夢から、今この時も彼女は現実の彼女と何ら変わる事無く真っ直ぐに立っている。
キラキラと眩しいくらいに輝いて、怖いもの知らずを体現するかのように突撃してゆく姿は毎回ヒヤヒヤしてしまうが。
自分とは真逆で、振り回される事が多いのにそれでも「しょうがないな」と苦笑して付き合ってしまうのはモモが持つ独特の雰囲気に呑まれてしまっているからだと思う。
「それに、夢だったらリセットあるでしょ? でも、この夢はないらしいじゃない。マジやばいって話だわぁ」
「もし辛いなら、無理しないでモモも第二に戻って。意地とかいらないから」
「ノーノー! ここまで来て退いていられないわよ。それに、ユウ一人にしたらそれこそすぐにやられちゃうじゃない」
私の真剣な表情と声色にも動じずモモはにこにこと笑う。
言い辛そうにモモの待機を強く勧めるイナバに対しても、彼女は笑顔で「お断りしまーす」と告げた。
遊びじゃない、二度と目覚めなくなるかもしれない。
さっきは上手く隙を見て逃げ出せたが、次があるとは限らない。
矢継ぎ早に脅しとも取れる言葉を口にしたイナバだが、モモは揺らがなかった。
結わえている髪の毛先を見つめて枝毛探しをしているような余裕っぷりだ。
「それにしてもさ、こうやって音楽室で私達が来るのをじっと待ってくれるのって本当に健気だよね」
「……歪み発生源から離れたくないのか、行動範囲内は第一音楽室内のみだもんね」
「その第一音楽室の室内は、実際とは大きく異なってるわけですけど」
マップ上に表記されている大きさではない。
異空間に迷い込んでしまったのかと錯覚するくらいに、広く大きいのだ。
外から見た感じは第二音楽室と何ら変わりが無いのでこれも歪みが引き起こしている現象なんだろうか。
ピアノの音は絶え間なく続いており、私の記憶を色濃く呼び起こしてくれた曲であった。
きっと、キュンシュガをプレイした人ならば「あっ」と気付くに違いない。そうでない人もどこかで聞いたことがある、くらいは思うはずだ。もし神原君がここにいたら必ず彼もその曲が何なのかすぐに分かっただろう。
そして、そこから導き出されるのが誰なのかという事も。
「似合わないんだよねぇ。殺伐とした戦闘してるのに、流れる音楽が“乙女の祈り”なんてさ」
「しょうがないよ。この曲は彼女のお気に入りだからね」
「……そうなの?」
「多分ね」
イベントの進行具合にもよるので下手に神原君の名前も出せない。
上手く気が逸れればいいが、逆に火に油を注ぐような状況になってしまうかもしれない。
でもまだ次の曲が出てこないなら、段階は進んでいないはずだ。
進んでいたとしても、好きだからエンドレスリピートしているだけなのかもしれないけれど。
少なくともさっきの戦闘時ではずっと乙女の祈りのままだった。
「La Campanellaが始まったら、ちょっとヤバイかなとは思うけど」
「えっ! 曲によって特性が分かるとかそういうの!?」
「うん……まぁね」
「そっか。第二形態みたいなことね……」
何かちょっと違うが、全く違うとも言い切れずに私は言葉を濁す。
呼吸を整えて気持ちを落ち着けると体力と魔力を確認し、イナバへ視線を落とした。
カタカタと歯を鳴らして見上げたイナバも準備はできたとばかりに目を光らせる。
眼窩にぼんやりと光る黄金色を見つめた私は小さく笑って顔を上げ、隣で準備運動をしているモモを見つめた。
その周囲ではカタスたちが応援するかのように、わさわさと揺れている。
「ユウ隊長、突撃するであります!」
「うむ。警戒を怠るな」
「了解です」
ビシッと敬礼し合いながらドアの前で仁王立ちになるのはモモだ。
彼女はいつも率先して進んでくれるので本当に助かる。気を遣っているのではなく、本当に楽しいからだと見ていて伝わってくるので頼もしい。
怖くないんだろうかと生じた疑問は、彼女には愚問だろう。
「はーい、ご開帳~! 再びこんにちはー!」
「お邪魔します」
「こんにちはー」
そうして私とモモとイナバの三人は、ピアノの音で満たされている第一音楽室に再度アタックを仕掛けたのだった。




