114 胡蝶
不思議なものだと思う。
夢の話をすればする程にそれが現実で起こったものと錯覚してしまう。
全てが現実と変わりなく感じ取れるあの世界が悪いのだと言い訳をしながら苦笑して、私は保健日誌を手に取ると椅子に座った。
まあまあの座り心地だ。丸椅子よりはずっといい。
そしてこれが保険医の机か。
なるほど……良く分からないけど勉強熱心らしいという事は分かった。
キュンシュガの保険医というのは、攻略対象外だけど、癒しの存在として美羽ちゃんと並ぶ程に人気だったほんわかした先生。
ここに座っていると、私が保険医になったような気分になってくる。
魅力の薄い保険医。
うん、却下だな。
「どうしたら良かったと言うのだ? 私に、どうしたら良いと……」
「知らないわよ。貴方は潔癖だものね。生真面目で『騎士道精神とは』なんて私達にも薀蓄たれるくらいに」
捧げる剣の相手も、誓う忠誠も、全て泥にまみれ汚く失墜してしまっているというのに。
最後に頼るべき相手がいるか、と思いながら私は胸元に手を当てるミシェルを視界の隅で確認した。
そう言えば魔族の手駒に落ちた時点で見放されたとか言ってただろうか。
良く覚えていないと眉を寄せながら私は保健日誌の表紙を捲る。
「さっさと成仏したら? まぁ、アンタの仲間は極少数しかいないだろうけど」
「ん?」
「何マヌケな顔してるのよ。ほとんどが冥府行きでしょうが。今頃冥界での拷問に阿鼻叫喚なんじゃない?」
ミシェルは自分が夢の中の存在だと知らない。
実際に存在するはずもない人格がここまで感情豊かに動くのは、人の夢が原料だからなのだろうか。
本当にこんな人物がいるんじゃないかと錯覚してしまうほどに良く出来ている。
それとも、そういう風に私が都合よく補正しているんだろうか。
それもあるかもしれないな、と思いながら私は一日の出来事を記している保健日誌を捲り続けた。
誰が来てどんな怪我をしたとか具合が悪くなったのかが書かれている。
保健室登校をしている隠しキャラについても書かれていたので思わず私は「おっ」と声を上げてしまった。
「成仏しろと言われても、か弱き乙女を残して立ち去るわけにはいくまい」
「それなら、好きにしたら? 自由になれたんだし。あ、不死者が地上うろついてる時間が長くなればなるほど、魔物化するからね。知ってると思うけど」
「知らんわ!」
「まぁ、モモと華ちゃんを守るという意志があるなら当分は大丈夫なんじゃないの?」
良く知らないけど。
その言葉は心の中だけにしておきながら、私はパラパラとページを捲り続けた。何か面白いことが書かれているかと思ったが何も無い。
都合よくそんなものなんてあるわけないかと思っていた所、あるページで手が止まった。
“○月×日(水) 晴れ 今日は朝から何事もなかったが、昼から(中略)一年生の神原直人君が怪我をした細田華子さんを連れてやってきた。怪我の状態、両膝の擦り傷と右腕上腕部に浅い切り傷。どちらも処置をして念のために病院に行くようにと指導した。”
神原君が華ちゃんを連れてきた。
しかも華ちゃんは怪我をしていたらしい。
結構酷い怪我だがその後綺麗に治ったと赤字で横に記されていた。
華ちゃんが、怪我?
ゲームを照らし合わせるとするなら、そんなイベントは無い。
華ちゃんが主人公こと神原君にお姫様抱っこされるのは、華ちゃんルートに入って二年になった秋の体育祭だ。
多くの注目を浴びながら人気のあるメインヒロインをお姫様抱っこして保険医の待つテントまで駆けてゆく姿は暫く周囲から揶揄されていたくらいだ。
あぁ、懐かしい。
「その……貴様はどうしていきなり私を解放というか、放逐したのだ?」
「うーん。冷静に考えてみたら別に必要なかったから。ごめん」
「き、貴様という奴は!」
ゲームの登場人物が出てくる話題になると、すぐにどのイベントだったかと考えてしまう私がいる。
ゲームの世界ならばそれは定められた運命として起こるのは当然なのかもしれない。
しかし、私達が生きる現実は中途半端なためにイベントも、起こったり起こらなかったりだ。
もしかしたらそれは、私の立ち位置も原因なのがしれないけど。
神原君は順調に色々とイベントを起こしてるみたいだけど積極的に動いているわけじゃないと言っていた。
逃げても逃げても恋愛フラグが追いかけてくるんだろうか。
強制的にイベントが始まるわけではなく、ちょっとしたきっかけさえあれば起こるようになってるとギンが言ってたような気がする。
「言っても分からないと思うし、言ったところで何が変わるわけでもないと思うから言うけど」
「な、何だ」
「貴方の存在は私の夢の一つなのよね」
「はぁ?」
「うん、まぁそういう事よ」
それ以上は言わない。
彼もそれ以上は聞かない。
ただ難しい顔をして腕を組み思案している様子だ。
私はそれを一瞥すると他に何か気になる事は書かれていないかと最近の日誌を見た。
授業中突然倒れて運び込まれてきた生徒。
土気色の顔をして休ませてくれと言ってきた生徒。
生気の抜けたような顔をした先生。
目は虚ろで、ぶつぶつと独り言を呟く姿が増えてきたと不気味がる保険医の心情が読み取れたような気がして、私は軽く身を震わせた。
机の上に広げている日誌を上から覗き込むようにして黙って見つめていたイナバは「ドラッグですね」と呟く。
実際に注射や薬などで売られているような症状と変わらないようなものもあるんだね、と呟けば「音の種類も何パターンかあるようですから」と言った。
そんなに種類があるとは知らなかった。
「あ、そうでしたっけ?」
「私は一種類だけかと思ってた」
「あちゃー。言ったかと思ってました」
「……対処法というか治療法はパターンによって変えなきゃいけないとかあるの?」
「いや、特には。人によって合うタイプがあるらしいので側だけで中身は一緒です」
「より広範囲に効果的に、となるとそれが有効よね」
「テレビで一斉拡散とかすれば洗脳完了、ですからね」
恐ろしい事をサラッと言ってくれるうさ耳スカルに私は溜息をついた。
そうなる前に防ぐのが仕事じゃないのかと軽く睨むと「それは御三方の仕事ですから、末端たるわたしが関わるなんてとんでもない」とやけに感情の篭った言葉が返る。
それがまたわざとらしい。
「むこうにそこまでする力は無いってこと?」
「そうしないのは、そうでしょうね。わざわざこんな高校一つ使ってやったところで大した意味もありませんし」
「……養分って」
「大して腹の足しにはならないと思いますよ? あの人たちは常に飢えてるようなものですから」
「詳しいねぇ」
「お勉強しましたっ!」
それは勉強なのか。
勉強じゃないような気もするけど、一応勉強なのか。
敵を知ること。敵を攻略するために必要なこと。
そういうことは全てイナバに任せようかと思って、改める。そんな事ではいつ背後からバッサリやられるか分からない。
いや、バッサリされる可能性はあると思うけどそれにしたって、抵抗するくらいの時間は欲しい。
私だって馬鹿じゃないんだからギリギリまでは生きていたいと思うはず。
諦めてさっさと殺せと言ってそうな自分の姿が浮かんで、私は額に手を当てた。
「ならば、ここを足がかりにして他へ手を伸ばそうと思ったのではないのか?」
「……実験か」
「あぁ、それなら納得できますね。人が多く集まり危険なものに手を出したがる好奇心を容易に擽れますから、そんな力は必要としません。ただ、囁くだけです」
それを悪魔の囁きと形容したりもするが、よりによって神の囁きとは笑うしかない。
神の座から引き摺り下ろされたところで怨霊化したかと苦笑しながら、私は真面目な顔をしているミシェルへ視線を移した。
まさかこの男が私とイナバの会話に入ってくるとは思いもしなかった。
モモと華ちゃんさえ守れれば他はどうでもよさそうなのに。
じっと見つめていると、私の視線に気づいたミシェルが眉を寄せた。
「何だ」
「いや、意外だったから」
「はぁ……。私だって馬鹿ではない。そのくらい考えつく」
「いやいや、そうじゃなくて。私の話に貴方が真面目に介入してくるのがよ」
怒鳴ったり、逆らったり、不満を言ったり、愚痴を零して睨みつけて、とそんな表情や態度しか見てこなかったので恐ろしい。
ぞわり、と肌が粟立った程だ。寒気がする。
敵を手駒にする事はミシェルが初めてではないのでそういった言動には慣れていた。
彼らが何を言っても契約している以上、主導権は常に私にありそれが崩れることはない。
基本的に私が死ねば彼らは私の戒めから解き放たれて成仏できる、ということになっている。
あきらかに自分より上位だと思える人物も使役できるのは、どうやら私の固有スキルが原因だと魔王様は言っていた。
確かに、モモと同じく私の固有スキルとやらも特殊だ。しかし、アレで何ができるのかはさっぱり分からないけど。
「何だそれは。まるで私が常に文句を言っているようにしか聞えんぞ」
「うん。その通りなんだけど」
「文句ではない! 正当な発言と、要求だ」
「だから、呑んだでしょ。放逐って。契約解除」
放逐、すなわち解放。
戒めを外して自由にすること。
溜息をついて私がヒラヒラと手を振ればミシェルの目が鋭くなった。
飛び掛ってくるかと思いつつ私は電子ドラッグによる体調不良がいつ頃から出始めたのかと日誌を読み続けた。
ページを前後させながら流し読みするが、中々それらしいものは見つけられない。
そりゃそうだ。具合が悪いから保健室に行くのは当然で、それが電子ドラッグによるものだなんてこの日誌から探ろうとするのは無理がある。
分かっているけど、何かあるんじゃないかなと期待してしまうのはしょうがない。
最後のページに何か書かれていたり、暗号になっていたりするのかなとも思ったけれどそんなものはなかった。
結局分からないまま日誌を読み終わってしまった私は、それを机の上に置いて綺麗に並べてある本の背表紙を眺める。
「冷静に判断して必要ないと言ったな。ならば何故いつも私を呼び出していた? 代わりがきくのであれば他でも良かろう」
「適任だからよ」
「適任とは?」
「モモはともかくとして、見た目がコレな私が、貴方を使役して戦うのよ? 相手が人であろうが魔物であろうが効果はあるでしょ」
「……魔物が相手ならば分かるが、人相手で効果があるとは思えん」
ムッとしながらその時の戦いを思い出しているのかミシェルの目は更に鋭くなる。
それもそうか。いきなり呼び出した挙句に、戦って殺せと命じられた対象が自分と同族だったなんて不快感極まりないはず。
そんな些細な表情と大きな感情の変化を敏感に察知して、モモは非常に嬉しそうな顔をして見つめていただなんて彼は全く気づいてないんだろう。
流石に可哀想なので言わないし、知らない方がきっと幸せなままでいられる。
「あーそうね。戦い終わったらすぐに帰ってもらうから前後わからないものね。不満か……そりゃ不満よね」
「一人で分かったように頷くな。貴様などに慮られては虫唾が走る」
「貴方は本当に頑固で笑っちゃうくらい真面目過ぎるから、前後なんて知らない方が生き易いのよ。不死者とは言え、記憶も姿形も死ぬ前と変わらないもの」
何かと似ているなと思って視線を彷徨わせた私は、目の前のイナバが言葉に詰まったような音を出したのを聞いて小さく笑った。
あぁ、そうか。私の状況と似ているんだ。
死んでもまた蘇る。それは他の人たちも同じ。
記憶を保持したまま経験を積み重ねてまた振り出しに戻る。
それを何度も何度も繰り返して、繰り返して……いずれは人ではないものに進化してしまいそうだ。
いや、もう既にバケモノになっているのかもしれない。
「前後なんて、知ってもいい事はない。あるかもしれないけど、ない事の方が多い。知ってから知らなきゃ良かったって馬鹿みたいに後悔するのに、それでも知りたいと思うの?」
「ユウお姉さん……」
知りたくないのに無理矢理知らされてしまったような私はどこにその怒りをぶつければいいのか。
ぶつける対象として最終的に行き着くのは理想の世界なんてくだらないものを創り上げた元神にだ。
まさかカミサマを殴りに行く事になるとは思ってなかったな、なんて考えながら自分の中では既に殴りこみに行くつもりだったという事に今気付いて苦笑する。
ミシェルはからかうような私の言葉にも瞳を揺らす事無くじっと私を見つめていた。
僅かに寄せられた眉と、目の奥に力が篭る姿は対峙した時と似ている。
何者にも屈せず、邪なものを薙ぎ払い己が信じるもののみに全てを捧げた男。
ちょっとした油断からその命を落とした挙句に、敵に使役され続けてきた男。
「何を言うかと思えば。お前は随分と繊細なのだな……驚いたぞ」
私が繊細とはまた嫌味なことを言ってくれる。
ぽかん、とする私を他所にミシェルは楽しそうに笑っているのが気に入らない。
「生き易い、生き難いなど問題ではない。私が知りたいと言えばそれはもう既に覚悟が決まっている証拠だ。なんの覚悟もなしに気軽に言う輩と一緒にするな。それに、知りたいか否かは私が決める」
「……でも」
「くどいぞ。私は誉れ高い騎士だ。騎士の誇りと誓いは死のうとも揺るがぬ。捧げる相手を失おうとも、私の信じるものは常に心の中に存在している」
「それは……」
「都合のいいものだけを信じて何が悪い。私が捧げたのは私が生きた国であり、あの頃の王であり、神だ」
開き直りか、とも思える発言だが彼にしては珍しいと私は軽く目を見開いた。
もっと四角四面で頭ガッチガチなイメージだったけれど意外とそうでもないらしい。
「そんなに意外か? 国が滅びたのは私の力が足りなかったからだ。王が変わってしまったのも、私の配慮が足りなかったから、神の守護を失う破目になったのも事態を理解してながら止められなかった私のせいだ」
「……知ってたの」
「国が衰退し、王は狂い、民は飢えて苦しみ、それでも生きる為には戦わねばならん。お前を殺し、魔族の戦力を削いだらその足で勝利の報告と共に王を殺すつもりだったよ。臣下、私もろともな」
「うわぁ。もっと早くやってくれれば私はあんなに戦わなくてすんだんですけどね」
「仕方があるまい。鎧の力を解放するに定めた贄はお前の心臓だったんだからな」
それは知らなかった。そして勝って良かった。
夢の中とは言え死ぬのは嫌だ。せめて夢の中でくらい死亡エンド無く過ごしたい。
随分と小さい願いだなと苦笑しながらミッシェルと初めて会った時のことを思い出した。
モモのところに行くようにって誘導していたつもりだったのに効かなかったのは、彼の鎧だと分かって慌てたものだ。
私の力じゃどうにもならず、魔王様は呪文忘れたとか言って散々な戦いだった。
あの頃は私もまだ不死者を増やすのには抵抗があったからなぁ。まぁ、あれで色々吹っ切れたとも言うけれど。
「それなのにお前は私を不死者として駒に加えた。戦闘時のみ呼び出され終われば再び私は夢の中だ」
「いやいやいや、交渉したら承諾したのそっちでしょ」
「そうだったか? 正直よく覚えていない」
何だよそれ!
思わず声を荒げてからハッとして口に手を当てる。
ベッドを見れば二人ともよく眠っていて起きる気配はなかった。
「戦闘時のみに呼び出すのはいつも不機嫌そうだからよ。プライド高くて敵に使役されるのが許せないんだろうなと思って」
「それもある。だが、何よりも気にいらないのは人々が忌み嫌う魔族でありながら、私より正しいと思えるような事を躊躇無く行えることだ」
「正しいねぇ」
「私にとっては、だ。私ができなかった事をやってのける貴様らに、腸は煮えたぎってばかりだ。あぁ、ただ一つだけお前に感謝していることもある」
感謝とはまた恐ろしい言葉が出た。
高圧的なミシェルさんは一体どこへ帰られたんでしょうね、と少々雰囲気が変わってきている彼を見つめて私は無言を貫き通して置物になっているイナバスカルを撫でた。
「私を使って、王を殺せと命じた事だよ。我が主」




