102 助手
ただのお湯と、どこにでも売っているティーバッグのお茶。
大したものじゃないけど、ほっとする。
室内に満ちてゆくお茶の香りに息を吐けば「ふふふ」と先生に笑われた。
ちょっと、年寄り臭かっただろうか。
それにしても、室内を綺麗に片付けたというわけではないのに少し整理しただけでこんなに変わるものか。
他の先生の研究室はちゃんと整理整頓されているところが多いので、亀島教授の部屋がとても狭く見える。今だってそうだ。
これでも結構頑張って片付けた方なんだけどな。
全部綺麗に整理整頓するとしたら、どのくらいかかるのやら。
何も考えずに片付けるなら手早く終わりそうだけど、種類ごとに分けて、いらないものは捨ててと考えながらやっていれば一週間は普通にかかりそうだ。
いや、一週間で終わったらいい方か。
「そうだ。帰りでいいから、これを届けて欲しいんだ」
「はぁ」
渡された茶封筒には大事な書類が入っているらしい。届け先は構内だが中々足を踏み入れる機会の無い場所だ。
学部が違うとどうしてもそちらまで行く用事がないので、敷地内にいても知らない場所は結構ある。
散歩するわけでもないので、行動範囲は文学部棟を中心に食堂、庭園の辺りまでだろうか。
食堂や庭園、購買部は正面玄関から入って分かりやすい中心エリアに集中しているので、学部が違う人たちを見かけることができる。
なんて言っても、皆私服だから誰がどの学部かなんて判らないんだけど。
「分かりました。帰りでいいんですか?」
「うん。相手の教授も今日は泊まりって言ってたからね。それに連絡は入れてあるから大丈夫だよ」
「ええと、それなら教授がご自分で……」
「可愛い女の子が来た方が喜ぶんだって。そんな嫌な顔しないでさ、大丈夫だよ。変なことするような人じゃないから」
そんな事を言われても信じられない。
体のいい人身御供になるんじゃないかと眉を寄せる私に、甘いチョコレート菓子をすすめてくる。
残念ですが、そんなものに釣られるのは美智くらいですよ。
そして頼みやすそうだったからとの理由で声をかけられたけど、こういう事は他にやってくれる人がいるんじゃないかと思う。
そう、例えば助手とか。
先生の講義を受けている人はそれなりにいるだろうし、この先生の性格だからきっと学生にも好かれているはず。
「教授は助手とかいないんですか?」
「あぁ、助手ねぇ」
「候補はたくさんいると思うんですけど」
私がそう尋ねるとどうしてか先生は微妙な表情をする。何だろう。
この室内の汚さと先生のズボラさに嫌気がさして逃げ出す助手が多数いたとか、そんなところかな。
何かあったとしても。
「うーん。昔の話なんだけどね……」
「言い辛いなら別に結構ですよ。そこまで無理にとは言いませんし」
喋ろうかな、どうしようかな、と視線を向けてくる先生に私はきっぱりとそう告げてお茶を飲む。暑い夏の日にクーラーがきいた室内での熱いお茶。
やっぱり、真夏の熱いお茶は涼しいところで飲むに限る。
持参していた熱中症対策用のペットボトルは既に空で、バッグの中に入っている。帰る前に自販機で買わないとなぁと思いながら私はチョコレートに手を伸ばした。
きっと、差し入れか何かでもらったものだろう。もしくは奥さんが持たせてくれたもの。
失礼だけど先生が自分で選んでこんなお洒落なチョコレートを購入したとは思えない。
甘党ってわけでもなさそうだからなぁ。
「……うん。羽藤さんは大丈夫そうだったから。それに、やっぱり僕も男よりは女の子の方が気合入るしね!」
「男の助手に迫られそうになったって本当ですか?」
「なっ!」
「で、女の子との三角関係に発展して前の大学を逃げるように立ち去ったとか何とかって、噂されてますけど」
「う、噂って怖いよね」
目が泳いでるという事は、事実かな。
どこからそんな噂が出たのかは知らないけど、本当に噂って怖い。
「あ、でも違うんだよ! 男の助手に迫られたんじゃなくて、その子の彼女に迫られて、僕が手を出してると思った助手が胸倉掴んできただけなんだ」
「……結構な修羅場じゃないですか。奥さんとかは大丈夫だったんですか?」
「うん、それは大丈夫。僕、浮気なんてできない小心者だって妻も判ってるから」
ははは、なんて笑ってる場合じゃないと思いますけど。
どっちにしろ修羅場だってことには変わりが無いんだし。
それにしても、助手の彼女に好かれてしまい挙句に迫られるなんて先生って意外にやり手?
いや、本人にその気は無いんだろうからただのフラグ建築士?
奥さん、大変だろうな。ここまできたら半分以上諦めてるとは思うけど。
「はぁ、そうですか」
「うん。そうなんだ」
自分の事を小心者だと言う辺り胡散臭いと思ってしまうのだが、先生は腕を組んで満足そうに何度も頷いた。
なぜこうも満足げなのかが分からない。
「それで、羽藤さんなら大丈夫だって思った僕の目に狂いは無かったよ」
「はぁ、そうですか」
「そうだよ! だって羽藤さんて僕に興味ないでしょう?」
「生徒にそれ聞く時点でどうかと思いますけど」
「……あっ!」
何だろう、こういう所がいいのかな。
私はさっぱりときめかないけれど、こういう部分にキュンキュンしちゃうものなんだろうか。
後でモモに聞いてみよう。
「ご、ごめん。そうだよね。そう、だよね」
「まぁ、教授としては尊敬してますけど、それだけで他は無いですね」
「でしょ? でしょ?」
しつこい。
チョコレートの包み紙を綺麗に伸ばして重ねる。そして今度は赤い色をした楕円形のチョコレートを手にする。これも中に何か入ってそうだ。
形から見て、アーモンドかな。
「さっき押し倒した時も冷静だったからね。あれには僕もちょっとびっくりしちゃった」
「はぁ、びっくりしたのは私もですが」
「ちょっとくらい、ドキッとしたり顔赤らめてくれるのかなと思ったら特に何も無いんだからねぇ」
「……今からでも叫びましょうか?」
「いやいやいや、冗談、冗談だってば」
修羅場ができてしまって困るというわりには、その状況を楽しんでいるようにも見えて私はため息をついた。
呆れた目で先生を見つめれば、慌てた様子で首を左右に振る。それはもう、千切れんばかりに。
まぁ、それだけの修羅場を経験していれば「オレってモテるかも?」と勘違いしてしまうのも仕方がない。
先生が独身ならまだ微笑ましいと思えただろうけど、既婚者でそれはないだろう。
いや、それともやっぱり既婚者でも男女問わずそいうものは嬉しいんだろうか。
母さんあたりに聞いたら怒られそうだから、今度それとなく高橋さんにでも聞いてみようかな。
「だからさ、もし良かったら僕の助手なんかしてくれないかなーとか思っちゃったりして」
「助手という名の雑用ですか? 普通助手って言うのはゼミの人とかが……」
「あぁ、出来る範囲でいいから。忙しくなったらそっち優先してくれていいからっ!」
専門ではない先生の担当分野で卒論を書いて合格がもらえるならそれも面白い。
そんな事を思いながら私は苦笑して「大丈夫ですよ」と答えた。
ちらちら、とこちらを窺いながら返答を待たれているのが非常に癇に障ったから断ったら面倒だなとか思ったわけじゃない。
いい歳したおじさんが、気持ち悪くもじもじするなと思ったわけじゃないが念の為。
「良かった。まぁ、助手なんて言っても本当に雑用程度なんだけど」
「あぁ、そう言えば本見つかりませんね。まだ探しますか?」
「いや……それがさ、落ちてきた辞書の上に乗ってたんだよね」
「えっ!?」
「あ、ちょっと待って。僕わざわざあんな高いところに置いて『無いよー無いよー』とか嫌がらせしたわけじゃないからね!」
一瞬そうなのかと思ってしまった。
読んだばかりの本が手の届かない棚の上に置かれている辞書の上に乗っていたなんて、嫌がらせとしか思えない。
けれど先にそう告げた先生の目は真剣そのもので嘘をついているようには思えなかった。
例え、嘘だったとしてもそんな事をする理由が分からない。
「うーん。辞書が落ちた振動で周囲が巻き込まれるように崩れたので、その中に紛れていたのかもしれませんね」
「あぁ、そっか。そうだね。でも、この本だけ綺麗に辞書の上に置かれてたって言うのがホラーだよね」
「そういう真夏のホラー話なんていりませんから」
「うん。僕もいらないや」
「でも良かったですね。見つかって」
嬉しそうに見つかった本に頬ずりまでしてしまう先生を見ていると、本当に見つかって良かったと思う。
危うく辞書の下敷きになりそうになってまで探していた物だ。
見つからないままだったらそれはそれで私まで気になってしまう。
夜も眠れない、という事はないだろうけど。
「それで、その本の内容はやっぱり専門分野のものですか?」
「あぁ……うん。そう、だね」
歯切れが悪い。
これもまた、聞いてはいけないことだったかと最近地雷回避が上手くできない自分に溜息をついた。
眉を寄せて息を吐いた私を見た先生が慌てた様子で「変なものじゃないよ」と言ってくる。
誰もそんな事は思ってないんだけど、そうやって言われてしまうと逆に怪しく見えるのだから不思議だ。
「パンドラって知ってるかい?」
「神話のですか?」
「いいやパンドラ鉱石っていうものがあるんだけど、知らないかな」
「ちょっと良く分からないです」
「あぁ、そうか。そうだね、知らなくても無理はないか」
あれはまだ表沙汰にされていないから、とぶつぶつと呟く先生の声を聞きながら私は顔色を変えた。
これはまずいパターンだ。
聞いてしまったら余計な厄介事を引き寄せるフラグ。
うわ、どうしよう。まだお茶も途中だし、先生は何だか話す気満々だし。
とりあえず、お茶を一気に飲み干してゴミはゴミ箱に。
「あ、すみません教授。私バイトもあるので今日はここで失礼します」
「あれ? あ、そう? うん……じゃあ、またお願いするね」
「届け終わったら一応メールしますので」
「はい、分かりました。気をつけて帰るんだよ」
ぶつぶつと呟き続けていた先生に頭を下げて封筒を入れたバッグを手にすると、私は戸惑った表情をする先生に笑顔を浮かべて退室した。
パタンとドアが閉まった音を聞き、廊下を無言で歩く。
外階段を下りながら少し進んだところで「はぁ」と大きく溜息をついた。




