101 大掃除
こんな状況になっているのが本当に父親のせいだとしても、何も出来ない。
判明した父親に詰め寄ったところでどうにもできないのが分かっているからだ。
今この世界で一番の力を持つレディでさえどうにもできないのに、そのサポートをしているあの鳩に何ができるのか。
投げやりな気持ちになりそうになるのを深呼吸で落ち着かせ、私は困ったように笑う教授を見つめた。
「あぁ、ごめんね羽藤さん。確かここに置いたはずだと思ったんだけどな」
「いえ……片付けられたらよろしいかと思いますよ」
「あははは。これでも僕にとっては分かりやすく片付いてるつもりなんだけどな」
どこからどう見ても散らかってるようにしか見えないんですけど、これで片付けたつもりなのか。
私は心の中でそう呟きながらも再び探索を始める。
教授から昨日の夜電話が来て、明日時間があったら手伝ってくれないかと頼まれた。バイトの時間までは空いていたのでこうして来てみれば、資料として置いておいた本が無いから探すのを手伝って欲しいと言われる。
題名と本の装丁を聞いて探しているが、これが中々見つからない。
「家に持ち帰ったとかじゃないんですか?」
「いやぁ、昨日栞を挟んで置いた記憶はあるんだよねぇ」
「……どこに」
「あはは、それが思い出せなくってさ」
私は物探しの為に呼ばれたのか、と思ったがどうやら頼みたいことは別にあったらしい。
別に急ぎの用事でもないので本探しを優先してくれと言われたからこうして探しているが見つからない。本当にここにあるのかと首を傾げてしまうくらいだ。
探している本の題名は『パンドラボックス』だ。ついファンタジー小説を想像してしまいそうだが、そんな楽しいものじゃないらしい。
研究の資料だと言っていたので、確かに楽しくなさそうだ。
「結構貴重なもので、手に入れるのに苦労したから無いと困るんだけどなぁ」
「だったら、ちゃんと棚にしまってくださいよ。毎回持ち帰るとか」
「そうだよね。うん、ごめん」
貴重な本のわりには扱いが雑過ぎないかという私の厳しい口調に、 いい歳したおじさんがシュンとして項垂れてしまう。
この「私がいなきゃこの人は駄目なんだ!」と思ってしまうような所に奥さんは心を鷲掴みにされたんだろうか。
失礼だがの格好いいところなんて今まで一つも見たことが無い気がするので、母性本能を擽られたとしか思えない。
生憎と、私の目には駄目なオジサンにしか見えないのでちっとも擽られないが、歳を取ればその良さも分かるようになるんだろうか。
分かったところでメリットは無いような気もするけど。
「これは違う。これも……違うな」
ここで見つけた資料はイナバが保存してたからもう読んでるはずだが、その事については何も言っていなかった。
聞かないから言わないのか、それとも隠したい内容だったのか。
とりあえず後で聞いてみようと思いながら捜索を続ける。
「ええと……ん?」
積み重ねられた本の下に探していた本と合致する色を見つけた。しかし、ここからでは背表紙が良く見えない。
周囲の本の塔を崩さないように気をつけながら屈む。
書類や資料の紙を挟みながら天井を目指すように重なる本は、微妙なバランスを保っている。
似てるけど違うような気もする。
昨日読んで栞挟めておいたならこんな下の方にあるわけないだろうが、確認だけでもしておくか。
「時間旅行……時空移転、SF?」
先生の専門には関係無さそうな小説まで混ざっている。それともこれもちゃんとした資料なんだろうか。
私は眉を寄せながら背表紙を指でなぞり下へと降ろしてゆく。
「ん?」
本の題名を心の中で呟きながら指を下ろしていると、突然警報のような音が鳴り響いて私は顔を上げた。
緊急警報?
きょろきょろと周囲を見回すが、この音が聞えているのはどうやら私だけらしい。
あ、これってもしかしてイナバからのサイン?
「へ?」
だったらまずいんじゃないかなと思ってスマホが入っているバッグに駆け寄ろうとすれば、目の前に落ちる大きな影。
訳も分からぬまま突き飛ばされて、ドサドサと本の塔が崩れてゆく音が響いた。
本とプリントが波のように落ちてゆく様子を視界の隅に入れながら、突き飛ばされたというよりも押し倒された事に気づく。
流れ落ちた本に当たって背中と頭が少し痛いがこれくらいなら平気だ。
「え?」
目が点になって、間抜けな声が出た。
鼻を擽る爽やかな香りはつけている香水だろうか。
どこのメーカーの何て銘柄なのかな、と暢気に考えながら密着して押し倒されてるという状況なのに妙に冷静なのが笑えた。
いや、驚いてますけど。充分動揺してるんですけど。
「……教授?」
恐る恐る尋ねてみるも反応がない。
私に覆いかぶさったままぴくりともしないので、生きているのか不安になったが多分大丈夫だろう。
積み上がった本の塔が崩れて私の方に倒れてきたから助けてくれたんだろうか。
身を挺して生徒を庇うなんて、現実でもキュンキュンイベントに入ってしまいそうなくらいだ。
先生が独身だったら……いや、無いな。残念だけど、趣味じゃないです。
「あ、あの教授?」
「あぁ、すいません。ちょっと落ちてました」
「人の上で寝ないで下さい」
「ははは、すみません。急にびっくりしたでしょう?」
はぁ、と気の抜けた返事をした私を暫く驚いたように見つめていた先生はいつものように笑顔を浮かべると上体を起こした。
しかし、いくら趣味じゃないと言っても異性に押し倒され、身を挺して庇われるなんて滅多に遭遇しない場面なんだけど。
私のトキメキは壊れてしまったのか何の反応もしなかった。
枯れ木に花が咲くというのに、私の枯れた心に花は咲かないというのか。
「あれ? そんなに驚かないんだね。勘違いされたらどうしようって僕はドキドキなんだけど」
「え、本が崩れたから助けてくださっただけですよね。すみません、ありがとうございました」
「いやいや。元々悪いのは僕だけど……本当に驚かないんだね」
「……絶叫しましょうか? 夏季休業中とは言えサークルは活動してますし、他の先生方も来てるでしょうからすぐに誰かがすっ飛んでくると思いますよ」
「いや、いやいやいや。望んでるわけじゃないから」
驚かないというか、表に出なかっただけで内心は凄く驚いた。
いきなり押し倒されて、覆いかぶさられ異性との密着度マックス状態で平静を保てる人物がいたら紹介してほしい。
嫌いな人物ならともかく、普通なら対象外でもドキドキはする。
私もときめかなかっただけで、ドキドキはした。
本当にびっくりした時は声も出ないんだけどな、と俯いて考えていると何やら勘違いした先生が慌てた様子で「誤解されなかったらそれでいいんだ」と告げてくる。
既婚者に誤解するわけがない。寧ろ、既婚者が恋愛対象に入るわけが無い。
だから何も心配する必要はありません、と私は真剣な表情で先生に言った。
「そっか。あぁ、本当に良かった羽藤さんで。他の子たちだったら、絶対勘違いされてグチャグチャになってたよ」
「教授がうっかりし過ぎるからじゃないですかね」
私の言葉に「うっ」と黙ってしまう先生に笑って周囲を見回す。
塔がいくつか崩れてしまったので酷いことになってるが嘆いても仕方ない。
それにしても凶器になりそうなくらい分厚くて重そうな辞書が二つほど落ちてるんですけど、これどこから?
「あぁ、それだよ。それが急に棚の上から落ちてきて、危ないって思った瞬間に体が動いてたんだ。あ、どこか痛いところとかは無い?」
「大丈夫です。お陰さまで」
「そっか、それは良かった」
「教授は?」
「僕はこう見えても強いから平気だよ」
いや、それは答えになってないような気がする。
私を庇った際に背中にあの辞書が落ちたりぶつかったりしなかったんだろうかと心配に思っていると、先生はにこりと笑って首を横に振った。
片手を背中に回して擦ってるのがバレバレです。
「でもおかしいな。あれはちゃんと置いておいたから崩れ落ちるような事は無いはずだけど」
「そうなんですか?」
「うん。それに、二冊同時にって言うのもね。何だか羽藤さんの頭上目掛けて落ちていくような気がしたから慌てたんだけど」
それは緊急警報の事も合わせて考えると、死亡フラグって事なんだろうか。
先生が助けてくれたから回避できたものの、あのままだと辞書が頭上直撃、気絶して本と資料プリントに埋もれて窒息死とかありそうだ。
いや、その前にあの分厚い辞書の攻撃に一撃死だろうか。
昨日は昨日で松永さんを送った帰りにトラックに追突されそうになるし。危機一髪で避けた私の運転技術を本当に讃えたい。
とは言ってもイナバが軽く操作手伝ってくれたらしいからできた神業だけど。
お陰で私の相棒はまた修理行きだ。運が悪いから買い換えた方がいいんじゃないかと母さんたちにも言われたが、悪いのは彼女じゃない。私だ。
それに、ぶつかりそうになったトラックはエンジンが切れた状態で鍵も挿さっておらず、駐車場にきちんと停められていたらしいから運転手の人も駆けつけた警察も首を傾げていた。
ちょうど近くに設置されていた防犯カメラには、トラックが勝手に動き出して私の車に向かって行く一部始終が記録されていた。
運転手のアリバイは彼が買い物をしていた店内の防犯カメラが証言してくれている。
夏の怪奇現象として片付けるにはタチが悪い。
その後念の為と救急車で運ばれた病院では和泉先生に「また!?」ってびっくりされてしまったが、私だってそう何度もお世話にはなりたくない。
病院で検査して異常無しだったから良かったものの、変な女患者からは突き飛ばされるわ担当医が何故か和泉先生に代わるわでいい事がない。
もどきが本気を出したんだろうか。いや、それにしては手緩いかな。
「やだ教授、怖いこと言わないで下さいよ」
「あ、うん。ごめん。でも、そう見えたんだけどなぁ」
「……はぁ」
気分を落ち着かせる為に溜息をついて、散らかっている部屋の状況を見つめる。
怪奇現象なんかじゃない。ただ単に積み重なった本がバランスを崩して倒れただけだ。そう、いずれは倒れる運命だったんだと自分に言い聞かせて大きく頷いた。
「よしっ」
軽く気合を入れて足元から片付け始めた私を見て、先生も同じように片付け始める。
大体、重い辞書を棚の上に置いておくのが危険なんじゃないですかと言えば、そこしか置く場所が無かったと返される。
けれども今回の事で危ないのが良く分かったから、一番下に置いておくそうだ。
棚の下にある引き戸にしまっておくのかと思えば先生はその上に他の本を重ね始めた。どうやら辞書は塔の土台になるようだ。
先生、誇らしげに「いいな」とか言ってないで、使わないなら家に持って帰りましょうよ。
「言っておきますけど、私超能力なんて持ってませんよ? 持ってたとしても自分にぶつけるような真似はしませんて」
「うーん。そうだよね。理由がないよね」
超能力なんて素晴らしいものを持っていたら、死亡フラグなんてちっとも怖くない。
そうだ、無敵に近い。
超能力に相棒のイナバなんて死角なしと言ってもいいかもしれない。
死亡フラグが束になって……いや、束は嫌だ。うん、束じゃ駄目だ。
浮かれそうになった気持ちを静めて現実を見ろと自分に言い聞かせる。そう、現実では私にはそんな力は無い。
全て周囲のお陰で生き延びさせてもらっている。
家に帰ったら神棚に手を合わせておこう。厄除けも兼ねて。
「あ、あった……って、片付け方上手いね羽藤さん」
「いえ普通だと思います」
色々考えながら作業していたら綺麗に片付けてしまった。
先生としては散らかっているように見えても分かりやすい配置だったろうに、と思えばちょっと申し訳なくなる。
そんな私の心を読んだかのように先生は苦笑して「綺麗になって助かったよ」と人の良い笑みを浮かべた。
「妻にも片付けるようにって口を酸っぱくして言われるんだけどね。研究に没頭するとどうしても後回しになっちゃってさ」
「奥さんも大変ですね」
「そ。だから全く触れたりしないよ。最初は片付けてくれてたんだけどね。今では全部自分で、って」
「やってるんですか?」
「……研究が、忙しくてね」
これはまたそのうち奥さんに怒られるフラグだな。
私はそう確信しながら床をモップで掃除し始める。
年季の入った汚れは、後で自分で磨いてもらうとして今日は軽くでいいだろう。
掃除機じゃなくて何でモップなんだろうと思ったが、掃除機だと大事な物まで吸い込んでしまうことがあって、取り出すのが面倒だから置いていないんだそうだ。
散らかりはしてるけど、そのどれもが大事な資料だからなぁと思っていたが吸い込んでしまったのはなんと結婚指輪。
緩いわけではないらしいが、珍しく掃除をしていた際に埃や紙くずが詰まってしまい、それを取ろうとして指輪を吸い込んだと先生は言っていた。
器用だなぁと思う私に「ははは、あれは驚きましたよ」なんて笑って告げる先生。
その左手には掃除機の埃まみれの中から見つけ出された指輪が鈍く光っていた。
きっと、先生の頭には怒る奥さんの姿でも浮かんでいたんだろう。それに、そんなのは一度や二度ではない気もする。
「さて、綺麗になったところでお茶にしましょうか」
「あ、用意しますね」
「いえいえ、ここは僕が。とは言ってもお湯を沸かすくらいなんですけどね。あとはティーバッグにお任せですから」
アルコールで除菌された綺麗なテーブルにカップとお茶菓子が並ぶ。
最近こんな光景ばっかりだなと思った私は苦笑しながら椅子に置いていたカバンを探り、スマホを見て溜息をついた。




