チャリンコマスター
渋谷正治は、ごく普通の自転車屋である。
毎日300メートル先にある工科高校の生徒のために店先に空気入れを並べ、毎日自転車ものアニメを視聴してぶつぶつ文句を言う、齢71の自転車屋である。
今日も今日とて、三世代にわたりご愛顧いただいているお宅に子ども用自転車を届けた後、行きつけのコンビニで【強気のハンドル】の最新刊とのしイカ五枚入りを買って家路についていた―――のだが。
キキキキキー!!キュイイイイイイイ!!!
ドガ――――――――――――ん!!
ぐわしゃぁああ!!
ぶちゅ。
真っ白な空間。
渋谷正治の魂と…、女神が対面している。
「渋谷正治さん、あなたは気の毒ですが人生を終えてしまいました。転生してもらいます」
「はあ」
「あなたにはチートをお一つ差し上げます。ステータスをご確認ください」
────────
渋谷正治(71)
レベル35
称号:転生者
保有スキル:チャリンコマスター
HP:8
MP:29
────────
「というわけで、いきなり草原に連れてこられてはなあ…、空気は美味いが……、すう、はあ、すぅ……」
べよん、べよん。
水色の、ぶよぶよした丸い塊が…自転車屋の前に現れた!
「おお、第一村人かね?」
うろたえない、自転車屋。
「ううむ、話ができんようだが…ああ、保有スキルを使うのかい?《チャリンコマスター?》まあ確かにこの道55年ではあるけれども」
うばほん!!!
渋谷自転車店が出てきた!
店先にはいきなり故障して帰れなくなった人用のレンタル自転車が3台、自由に使える空気入れが3つ、いつから売れ残っているのか分からない自転車が3台並んでいる!
奥の方にはスポーツタイプの自転車や電動自転車、折りたたみ自転車に三輪車各種…シニアカーなんかもあるぞ!
どうやら経営はボチボチ順調な様子!
「お前さん、自転車に乗ってみるかね?手足がなければ運転は難しいが…」
スライムは身体を人形にモデルチェンジした!
「24インチなら乗れるな、ホレ、またいでごらん。まずはスタンドを立てたまま乗って…うん、そうそう、ここを踏んでクルクルと…うまい、うまい」
スライムは初めて乗る自転車にドキドキ・ワクワクしている!
わりと軽快にペダルをこいではいるぞ…。
「じゃあ、今度はスタンドからおろして乗ってみよう。ハンドルは動かさずに、まっすぐ前を向いてペダルを踏んでみて…そう、うまいよ、そのまま、そのまま!」
後ろを持ってもらってペダルをそっと踏み込んだスライムは、ゆっくり前進して…パタリと倒れた。
ナニコレめっちゃ痛いんですけど!?
「痛がっておってはいつまで経っても乗れんでな、ハイもう一回!」
人当たりは穏やかだが、基本的に自転車屋はスパルタらしいぞ…。
倒れては乗せられ、倒れては檄を飛ばされ、倒れては励まされ、倒れては「せっかくこれだけ乗れるようになったのに辞めちゃうのかい?みんな頑張って練習して乗れるようになっていくんだよ?自転車に乗れない人なんていない(以下延々)」とプレッシャーをかけられたスライムはブチ切れた。
もうやだ!
自転車なんか乗れなくていいもん!!!
スライムは自転車屋をまる飲みしたあとまん丸スタイルに戻り、絆創膏まみれでぷよぷよしながら草原の彼方に消えた。
渋谷自転車店は無人のまましばらく放置されていたが、いつの頃からか一人のドワーフが住み着き、商品はすべて有効活用されたという。
「う、うーん???なんか夢でも見ていたような??」
自転車屋は時間を巻き戻されて、コンビニの入り口前に立っていた。
コンビニの入り口で立ち止まる前に、ちょっとだけ時空がゆがんだのだが…、それに気づく様子はない。
自転車屋は、コンビニで【強気のハンドル】の最新刊とのしイカ五枚入りを買って家路についた。
家の近くの交差点で、車の暴走事故が発生していた。
「車はちょっとハンドル操作を誤るとこうなる…移動は自転車がいいよ、うん」
自転車屋は、体力が落ちて店先に自転車を並べるのがきつくなったあたりから事業の縮小を視野に入れ始め、パンク修理とメンテナンスのみ請け負うようになったのですが、時間はかかるが丁寧で安いという評判が広まり忙しくなってしまい、昔なじみの自転車仲間に声をかけて手伝ってもらうようになったところ「スタッフ平均年齢80歳!おじいちゃんだらけの自転車屋さん」として全国的に有名になり注目を集めて高齢者の雇用増に貢献したのち、いつものように愛車にまたがって晩ご飯の買い物に行こうとして転倒したことが原因で89歳の生涯を閉じたという事です。




