31 神の望み
「和花ちゃん」
明るい声が和花を呼んだ。
そっと目を開けると、ガクが微笑んでいた。
だが、オレンジ色の瞳が入った目の下は泣いたせいか、赤くなっていた。
スイの為に流した涙。本物の感情だったと和花は思う。
真っ白な空間に、石の社が建っている。よく、道路や家屋の端っこにある祠のような形の社だ。
ただ一つ違うとすれば、道にあるのより、ずっと大きいことだ。
普通の家の大きさはある。
ここが神域ということだろうか。
和花は瞬きを繰り返す。
「おいで、和花ちゃん」
いつもの明るい声でガクが和花を呼ぶ。
和花は手招きされるように、社の中へ足を踏み入れた。
中はひんやりしていた。暗いかと思ったが、窓からは白い光が降り注いでいて、普通によく見えた。
ガクが和花に座るように促した。勧められるまま、その場に腰を落ち着ける。
「気持ち悪くない?」
音符が付きそうな声音でガクが和花に問う。
和花は体調を確認して見る。が、特に気になる点はない。頷いてみせた。
ガクは満足そうに笑った。
「やっぱり。ボクが見込んだだけはあるよ、和花ちゃん」
嬉しそうに和花に詰め寄ってくる。
さっきスイの為に泣いていた時と同一人物には思えない。
「和花ちゃんなら、あの方を救えるんだよ」
あの方。誰を示しているのかは聞かなくとも分かった。
スイのことだ。
ガクとスイが言い争っている時も思ったが、ガクはどうやら、スイのことを尊敬しているように見える。
『貴方』とか、『あの方』とかそれなりに慕って居なければ出てくるはずがない。
スイを敬っていて、スイを救おうとしているのなら、信じても良いんだよね、と和花は心の中で今は亡き祖母に呟く。
当然のことだが、返答はない。
「ねえ、和花ちゃんはあの方を救いたい?」
ガクが和花に問うてくる。
和花は乾いた唇を湿らせて、口を開いた。
「救いたいです」
内心は怯えていたのだが、声は自分でも驚くほどに凛としていた。
「どんな手段でも?」
ガクの言葉に和花の脳内が警鐘を鳴らす。
危険な気配だ、これ以上は止めておけ、と。
同時に和花はスイのことも、思いだしていた。もうすぐ消えてしまうスイのことを思う。
和花はガクを見つめたまま、ゆっくりと首を縦に振った。
「それじゃあ、簡単だ。和花ちゃん、神にならないかい?」
ガクが笑顔のまま言い放った。
和花は灰色の瞳を見開いた。
神になる。いや、正確には神の眷属となる。ガクはそう言ってきたのだ。
「和花ちゃんなら、ボクをも超える神になれる。そうだな、人を救済する神にでもなれると思うよ」
背中を冷や汗が伝う。
蛇に睨まれた蛙になった気分だ。小指の一本すらも動かせない。
スイも祖母も口を酸っぱくしていっていた。神の眷属にさせられる、と。それが危険なことだ、と。
だけど、理由は尋ねても教えてくれなかった。とにかく、危ないことだ。自分というものが全て塗り替えられるのだ、と。
幼い頃の和花はその話を聞くだけで眠れなくなったものだ。
「神に、なったとして、スイを……?」
それでも、先が知りたかった。スイを助けられるのか否か。
スイさえ助けられればそれでいい、と思う自分がいるのだ。
ガクはそうだった、と言って、座り直す。
お陰で、和花はようやく息を吐き出せた。
「あはは、焦っちゃった。ごめんごめん、今から説明するからね」
ガクが照れたように笑う。
「まず、和花ちゃんはボクの眷属になる。和花ちゃんを眷属にしたら、ボクは和花ちゃんが神様に昇格できるようにする。それには願いが必要なんだけど、和花ちゃんの願いは何?」
ガクが歌うように語る。
「私の、願い……。スイを助けたい」
ガクの言葉に釣られるようにして、和花は答える。
ガクが笑みを深くした。
「うんうん、そうだよね。と、なると、和花ちゃんは救済の神になるんじゃないかな。誰かを救う神になるんだよ」
ガクは上機嫌なようでペラペラと話してくれた。
だけど、神の眷属になることや、どうやって神に昇格するのかはあまり話してくれない。大丈夫なのだろうか。
和花の心にインクを垂らしたような不安が広がっていく。
「救済の神になれば、和花ちゃんの幼馴染の心も救えるかもね」
付け足すように言って、ガクは笑う。
「颯太のこと?」
何故、颯太のことまで知っているのだろう。
疑問に思いつつも、和花はガクを見つめ続ける。
「脱線しちゃった。とにかく、救済の神になった和花ちゃんは、社がない。そこで、あの方の社に仮住まいさせてもらうんだ。社を二人で使えばいい」
ガクの唇が弧を描く。
すると、とガクは続ける。
「和花ちゃんの信者はスイの信者にもなるってわけ。何せ、社が一緒なんだから」
傘下に入るのとは違うのだ、とガクは補足で説明する。
どちらかがどちらかに従属する必要はなく、同格だから、命令したりされたりがない、と。
和花の心は大きく揺れた。
神になれば、スイを救えるかもしれない。その可能性は大きい。
「和花ちゃんが神になってくれたらきっと皆救われるよ。あの方も和花ちゃんの幼馴染も、……ボクも」
ガクが和花に笑いかける。オレンジ色の瞳に暗い影が過ぎった気がした。
「どうかな、和花ちゃん?」
訴えるような目で、ガクが質問した。
和花は口の中がカラカラになっている事に気がついた。冷や汗が凄い。
どうする。
たった一言の自問自答への答えが出ない。
いっそ、頷いてしまったら、楽になるのではないだろうか。
そんな気がした。
ガクが微笑む。天使のように見えた。
「ね?」
和花は頷きかけた。
瞬間。
「落ち着きなさい、馬鹿」
小さな声だが、杏の声が聞こえた。
社の隅に座って膝を抱えていた杏が言ったのだ。
「黙れ」
上機嫌な声から一変して、ドスの利いた声でガクが言葉を放った。オレンジ色の瞳はグッと細められ、杏を睨んでいる。
杏が口を噤んだ。
和花はガクの変わりように戸惑いを隠せなかった。
「どうかな?」
ガクが再び質問を口にする。とって付けたような笑顔で。
和花は目をパチクリさせた。
どうしよう。正直、心は揺れていた。
神になっても良い気がする。そんな気分だった。
和花はガクを見る。
ガクは変わらない笑顔で返答を待っている。
和花は口を開きかけた。
「あの神が、社を一緒に使ってくれると思う? 神になった人間を見て喜ぶと思ってんの?」
杏の言葉に、和花は目を見開いた。
別れる瞬間のスイの顔をハッキリ思い出した。
泣きそうな、苦しそうな表情。瑠璃色の瞳は深く傷ついていた。それなのに、構わず、和花に向かって手を伸ばしてくれた。
和花の言動に傷ついたはずなのに。
嫌われてでも、和花を護るという意思は変わらなかった。
そんなスイが。
神になった和花を見て、どう思うか。
そんなこと考えなかった。
でも、一番、目を逸らしてはいけないことのはずだ。誰よりも和花のことを心配してくれているのはスイなのだから。
考えまいとしても、目をつぶっても、いつかはぶつかる壁のはずだ。
「黙れよっ!」
ガクが叫んで、コンパスを投げた。
コンパスは真っ直ぐ、杏に吸い込まれていく。真っ赤な花が咲いた。地面に一つ、また一つ。
「黙れ黙れ黙れ黙れっ! ボクの言うことを大人しく聞いてれば良いんだ!」
ガクが次々と鋭い文房具を投げつけていく。
和花は震えた。見たくない光景が広がっているのに、目を閉じることも出来ない。
喉は声を忘れてしまったかのように、音にならない息が漏れるだけになっていた。
杏の流す血が社を染める、そめる、ソメル……。
和花はガクを見つめ続けた。手も足も冷え切っている。
ガクが笑い声を上げる。
「ねえ、どう? 痛いかなぁ? 痛いよね? でも、お前が悪いんだよ? お前がボクを裏切るからっ! あははは、あははっ!」
笑みを唇に刻んで、もうピクリとも動かない杏を攻撃し続ける。
ガクの手が血で染め上がる。それを見て、ガクは動きを止めた。
その場にガクが崩れ落ちる。
「どうして、こうなっちゃうんだろうね? どうして誰も居なくなっちゃうんだろうねぇ……?」
ガクがゆっくりと和花を振り返る。赤く染まった顔。その中に浮かぶ爛々と輝くオレンジ色の瞳。
和花は喉奥で悲鳴を上げる。
後ずさることすら出来ず、呆然とガクを見つめる。
「怖がらないでよ、心外だなぁ。まあ、いいんだけどね」
凍てついた笑みでガクが呟く。壁に寄りかかって、帽子を置いた。
「もう、逃さないって決めてたんだ」
暗い光がガクの目に灯った。
怖かった。和花は静かに後ずさる。
「もう、逃がさない。和花ちゃんには神になってもらうからね」
ガクが和花に手を伸ばす。
逃げ場はない。和花は泣きそうになる。
和花はここに来て初めてガクの狂気を感じたのだ。逃げなければならないと感じた。
この神ははなから自分のことしか考えていない。周りを何とも思っていないのだ。
杏のことも、和花のことも、そして、スイのことだって。
脳の警鐘は壊れてしまったのかうんともすんとも言わない。体中から吹き出る汗だけが、夢ではないことを告げている。
この場から消えてしまいたい。
しかし、意に反して和花の体は動かない。
ぬめりけのある赤色をした、ガクの手が和花の視界を覆い隠そうとしていた。
「動きなさい!」
倒れている杏の声が和花の耳を打った。
声に弾かれて、和花はその場を走り出した。ガクの手をはたき落とす。
杏の声に導かれるようにして、和花は社の外に出ようとした。
しかし、社の戸は和花を目の前にして、閉まった。最後の光の一筋も消えてしまう。
後ろにガクの気配を感じてしゃがんだ。
ガクの手が和花の頭上を通っていく。
「動かないでよ、和花ちゃん」
暗い笑顔で、甘い声でガクが笑った。
どうすれば良いのか和花には分からない。
ガクが和花の腕を掴む。振りほどけないぐらい強い力だ。
「さあ、和花ちゃんは神になるんだよ。ボクもあの方もこれで救われるんだ」
ガクがニコニコと笑って、嬉しそうに告げてくる。
和花はもう、震えることしか出来ない。
気が遠くなりかけた。もう、このまま神にされてしまうのだろうか。
灰色の瞳から涙がこぼれかけた。




