30 見習いの奮戦
取り残されたのはスイだった。
和花はガクの神域に連れて行かれたに違いない。
スイはギリっと歯ぎしりをした。拳が震える。握りしめた指が掌を抉り、痛みが走る。
人間の体を真似るとこんな余計なところまで似るのかとどうでもいい思考が過ぎって消えていった。
スイは怒っていた。
和花にでも、ガクにでも、杏にでもない。
スイの怒りは自分自身に向けられていた。
大切に護りたいと思った。嘘をついてでも。
でも、スイが付いた嘘が、結果的に和花を傷つけた。
スイが傷つけたから、和花はガクの手を取った。ガクは和花を神の眷属にするだろう。
眷属になれば、人間とは違う力が手に入る。神として確立すれば、人の願いを叶え、希望を与えることになる。
だけど、人間の輪を外れることになる。
当たり前のような日常が、今まで普通に話しかけていた友人が、壊れる。人の願望を知り、その浅ましさや欲深さに触れ、自分が分からなくなる。
人間から神になったものは、皆、そうやって苦しんできた。
けれども、神様は良いことしか言わない。自分が人間を神にすればその神から存在を請われる。
だから、神は人を隠す。神隠しする。
そして、甘言で誘うのだ。人間の欲を利用して、餌で釣る。
ガクも和花に言うに違いない。スイを救うために神になれ、と。
和花もまた、それを望んでしまうに違いない。
一途な子だから。
スイを救えると知ったら、手段は選ばないだろう。
迷っている時間はない。
スイは地を蹴ると、一飛びで神社の屋根に降り立った。
祭りを一望し、特定の人物を探す。
見慣れた赤髪を見つけ、スイは屋根の上から飛び降りた。
神の気配を自らの意思で強くする。神気と呼ばれる力だ。
スイは自ら、その姿を龍現の目に映るようにしたのだ。
寡黙な男の瞳が驚きで見開かれた。
「説明をしてる暇は無いんだ。悪いが、君。力を貸してくれ」
スイが早口で述べれば、異変を察したらしい。
龍現は手に持っていた荷物を置いた。
「娘さんを泣かせたな?」
龍現から投げられた問いにスイは苦い顔で頷いた。
金色の瞳に怒りの色が浮かぶ。
スイは逃げも隠れもせず、龍現を正面から見つめた。
「後で、何百発だって殴られてやる。だから、君。力を貸してくれ。あの子を救うためにも」
スイは柳眉を寄せた。
龍現にも切羽詰まっているのが伝わったらしい。
黙って頷いてくれた。
スイは短い言葉で感謝の言葉を述べた。
それから、いくつか龍現に指示を出した。
──今直ぐお神楽を始めてくれ、良いと言うまで止めるな、炎を消して、ただひたすら、あの子の無事を俺に向けて祈ってくれ、と。
「良いか、水読尊に祈り続けてくれ」
最後に自分の名を龍現に直接、言い渡した。
龍現が目を見張るが、スイは言い残すと神気をかき消した。
そのまま、スイは神殿へ向かう。保管されている御神刀に触れる、冷たい冷たい感触を確かめると、スイはそれを持ち上げた。
龍現が動いてくれると信じて、スイはガクの社を目指したのだった。
龍現はしばらく放心してしまった。
名前は存在を縛る、呪。
神が自分の名を自ら名乗るなんて、龍現は聞いたことが無かった。
この世のものではない存在を感知できる体質をもって生まれた。誰かを守れればと陰陽道を少しばかりかじったことがある。だから名前が呪いになることを知っている。
神だって名前が大事なことを知っているはずだ。
しかし、スイは自分から自分の名前を龍現に託した。何のためらいもなく。
そのぐらい緊急事態が起こっているということだった。
龍現は和花の父親と母親の元に走った。
「あれ、龍現の兄貴じゃん。そんな慌ててどうしたんだ?」
颯太が夏祭りの中、龍現の後を追って走ってくる。
龍現は赤髪を揺らしながら、焚かれている火を見つめた。火は浄化を意味する。
浄化の為に灯されている火は全ての提灯にまで回されている。
だが、どういうわけか、スイは火を消せ、と言った。
迷っている時間はない。
「頼む、火を」
「火?」
走りながら、告げる。
颯太は不思議そうに首を傾げた。
「そうだ。社にあるすべての火を消してくれ」
祭りを楽しむ人々の流れに抗って、二人は進む。
颯太はまだ、不思議そうな顔をしている。
「この火は消しちゃいけないんじゃないのか? おじさん言ってたぞ」
困ったような颯太の声に龍現は足を止めた。
颯太は止まるのが間に合わなかったようで、龍現にぶつかった。痛そうに顔をしかめている。
龍現はそんな颯太の肩をがっしり掴んだ。
焦げ茶の瞳と金色の瞳の視線が正面からぶつかりあった。
「頼む」
たった一言だった。
だけど、龍現の精一杯の言葉だった。
「よく分かんねーけど、分かった」
颯太が頷いた。
頷き合うと二人はそれぞれの目的を持って、それぞれの方向へ走り始めた。もう、迷いなどはない、という足取りで。
龍現は足に力を込める。
人々の合間を縫って、和花の父親と母親の場所を目指す。
境内はこんなに広かっただろうか、と錯覚するぐらいに遠い距離のように思えたのだった。
日が傾いて、空を真っ赤に焦がす。
人々の笑い声と蝉の音が混ざって、世界が歪んで見えた。




