戦後-2
●終戦別幕「ベルリン競争」
1945年4月8日の日本降伏を受けた連合国は、晩年のルーズベルトの意志(一刻も早い独日同時降伏)もありドイツに対する一押しを画策する。
目標は米軍単独でのベルリン占領。
敵の東西の都に、星条旗を最初にかつ、同時に立てることが目的だ。
当初米英を中心とする連合国軍は、ドイツ中原を貫くエルベ川で止まる予定だった。
だが、ソ連がヤルタの協定を東欧各地で無視していることを理由にほとんど土壇場で変更された。
4月8日の日本降伏がアメリカの強気の原因だった。
物理的にも、対日本戦の終了により太平洋に向かうはずの戦略物資と戦力の多くを欧州に回すことが可能になった。
しかもルーズベルトは、死の一ヶ月ほど前から欧州での積極攻勢を明確に示唆していた。
自らの死が近いことを察した彼は、存命中の戦争終了により歴史に自らの名を深く刻む事を目指した、とされている。
結果、欧州の現地連合軍は、パットン将軍の口笛を突撃ラッパに、手持ちの戦略物資全てを使い切る勢いで作戦を開始する。
しかも司令官のアイゼンハワーは、ルール工業地帯を始め包囲下にある地域を包囲のまま放置するかのようにベルリンへの進撃を開始した。
そしてルーズベルトの弔い合戦とばかりに、4月16日より前進が始まったソ連とのベルリン入城競争に勝利してしまう。
なおベルリン競争では、ドイツ軍側の暗黙の意図、ソ連には断固譲らず英米には極力抵抗せずという方針により米英の圧倒的優位に進んだ。
結果、ベルリンの中枢部には星条旗が掲げられ、エルベ川とオーデル川の間にある中部ドイツ地域の8割以上が英米の占領下になった。
地域の多くでは、米英軍がオーデル川に達したほどだ。
ベルリン中心部では狂信的な一部兵士の抵抗で4月28日まで戦闘が続くが、5月8日にドイツは国家としても無条件降伏した。
だが、戦闘自体は4月23日の米ソ両軍のベルリン郊外東部での握手で決着したと言っても過言ではなかったのだ。
幸いにも連合軍とソ連軍が戦闘を行うという事は、ごく限られた偶発的な遭遇戦だけで終わり、次なる戦争の撃鉄ともならずに済んだ。
なお、ベルリン入城競争に後れを取ったソ連軍は、首都ベルリンでの破壊、略奪、暴行を行うことができず、ソ連の横暴な占領から無辜なドイツ市民を守ったアメリカの評価は非常に高くなるという副産物ももたらした。
●別幕「国共内戦」
1945年4月8日の日本降伏により、支那大陸各地ではその月のうちに日本軍の組織的な武装解除と全面撤退が開始された。
ただし日本軍は、装備を戦闘不可能な状態にすると、それを持って支那沿岸各地の港に向かってしまう。
この時日本側は、組織として軍の降伏手続きと武装解除は行うが、政府が降伏せず軍備制限の規定が決まっていないので、兵器・装備及び物資は日本資産のままであり、制限枠と賠償などが決まるまで日本政府に属する組織が預かるのが当然という論陣を張った。
また、我々が受けたのは国際法上認められた日本利権以外からの全面撤退であり、政府からの命令もしくは制限内容が決まるまでは、軍自体も勝手に解散することはできないと説明した。
そして強引な事を行おうとした中華民国軍と中国共産党軍があった場合は、国際法違反として自衛行動を取る動きすら見せ、実際各地で小規模な戦闘が発生した。
この裏には、現地日本軍が自らは支那軍に敗北していないという強い自負があり、それが行動に出た結果だった。
いっぽう重慶の国民政府も、目の前の小さな利益より、その後満州、台湾で得られるはずの利益を考えた。
また100万人の捕虜など養う余裕がない事もあり、強制帰国させる数十万の日本邦人共々100万の日本軍を、勝手に祖国に帰らせる事にした。
どうせ後々邪魔になるのだから、なるべく問題なく去ってくれる方が良いに決まっている筈だったからだ。
加えて共産党に何も渡さないという点は、自分たちにとって有利になるので日本軍の行動こそ是とすべきだった。
そして日本軍は降伏手続き後、武装解除と武器の封印及び梱包を行うと、残っている輸送船を使って我先に帰っていってしまう。
邦人のほとんどもその後に続き、ようやく中華中央部は平穏を取り戻すかに見えた。
しかし、第三者がいなくなると、僅かな潜伏期間を挟んでさっそく国共内戦が再開される。
国共内戦の再開は、翌年の春節の直後からとなった。
内戦再開当初、中国共産党が圧倒的に不利だった。
日本軍の武器を奪えなかったのは国共同じだが、大戦中から米軍から手厚い援助を受けていた中華民国軍は、正面戦力では圧倒的に有利だった。
逆にソ連と鉄道で繋がっている満州には米軍が溢れており、共産党の頼みの綱とするものがほとんど得られなかった。
国民党軍は、日支事変当初の日本軍よろしく各地で快進撃を続け、日本軍退去後に共産党軍が「占領した」地域を次々に奪回した。
その歩みは半年で共産党の本拠だった延安に至り、一部は満州国国境で先に進駐していた米軍と握手したほどだ。
そして北京に入城した蒋介石が高らかに勝利宣言をしたのが、1946年11月の事だった。
だがその時点で事態は急変する。
46年10月、毛沢東の全党に向けたゲリラ戦を訴える命令に、国府軍がすっかりはまっていたのだ。
つまりは日本軍と同じ過ちを犯したと言えよう。
しかも国府軍は、自らの粗暴な統治(搾取と表現できる徴税や紙幣乱発による経済破壊など)や略奪行為、暴力行為により日本軍以上に民心を無くしていた。
そして敵陣深く誘い込まれた形になった国府軍は、各地で都市ごとに包囲され、兵站線は延び、兵力分散を余儀なくされる。
結果、国府軍の多くが飢餓状態の都市で降伏を余儀なくされていった。
そして共産党軍は、モンゴルルートで得たソ連からの僅かな援助と国府軍から奪った大量の武器弾薬で反撃に転じる。
徐々に国民党軍の戦力を奪い、 大都市に封じ込め兵糧攻め作戦を強化していった。
そして共産党有利と見るや、地方の軍閥や兵士達はこぞって共産党の側につき、まるで潮の満ち引きを見るように勢力図は塗り替えられていく。
後の国府軍崩壊は急速だった。
共産軍の反撃開始から1年で華北の多くを奪われ、その後は総崩れで、3年目には満州、台湾を除くほとんど全てを失うことになる。
米軍の援助が受けやすい北京近辺や沿岸部、そして長らく本拠にしていた重慶近辺や元々の基盤だった上海地域ではかなり粘ることができた。
だが、それでも3年ほどしか保たなかったのだ。
戦後上海租界に戻ってきた列強も、我先に持ち出せるだけの資産を積み込んで、先に退去した日本人の後を追うように逃げ去り、1949年内に中華中央部は共産党の支配下に落ちた。
いっぽう共産党が満州を奪えなかったのには、幾つか理由がある。
戦前日本が行った統治は、曲がりなりにも統制が取れたものであった。
しかも、日本の敗戦から米軍進駐まで、日本の統治が崩れることはなかった。
そして戦後すかさず入ったアメリカによる贅沢な援助による占領統治と日本人の引き上げ(特に軍人と開拓農民の帰国は優先された。逆に中央官僚の多くと財界、専門技術者はかなりの期間残留させられ、これを「満州抑留」と呼ぶこともある。)が、民心をアメリカが主導する政府に向けさせたからだ。
一度手にした豊かで安定した生活を手放そうという馬鹿はいない。
特に支那においてはそれが顕著だったと言うことだ。
彼ら民衆は健全な統治を行うのなら、支配者が誰でも良いのだ。
また、国共内戦発生以後、中満境界線を米軍が鉄条網を引いてまでして、満州地域を他と区分した事も大きかった。
それに満州に入った米軍が、中国共産党に何かをしてやる必要もないし、アメリカの利権に手を付け米軍の統治を邪魔する者は、日本軍と同列かそれ以下で扱うのが当然だった。
アメリカの統治を邪魔する者は、アメリカのそして世界の「敵」なのだ。
そしてドルで潤う農村からも爪弾きにされた共産党軍は、満州でゲリラ活動を行ってさらに民衆と米軍からの評価を下げ続け、テロリストとして追われる者へと成り下がっていた。
一方、中華中央部から追い出された国民党は北京から満州へと落ち延びてきた。
その後国共内戦は、極短い期間の休止状態を挟んで、新ステージである「満州動乱」を迎える。
●コラム・備考1
「煉獄のサイパン」終戦(4月8日)時の日本の損害
1945年4月初旬当時の戦況
歴史改変により、沖縄戦が米軍の上陸直前で回避。
日本本土無差別爆撃ほとんどなし。
原爆投下なし。
ソ連参戦なしとなる。
結果、民間人の死者は、船舶による被害とマリアナ諸島での死者、一度きりの中規模の東京無差別空襲を中心に約10万人ほどとなる。
一方、史実の戦争スケジュールでは、ルソン島が山間部での掃討中。
ミンダナオ島上陸が4月半ば。
ボルネオ侵攻が5月。
ラングーン陥落が5月1日。
何より4月8日時点で日本政府が連合国に降伏すると、ソ連参戦がない。
対日参戦せず極東の兵力も少ないソ連は、連合国として日本の領域に足を踏み入れることが軍事上、政治上できない。
史実より助かる日本人の数は、満州・朝鮮・南樺太で合計10万人、フィリピンも同程度。
ビルマ、インドネシアなど東南アジアで数万人。
いまだ一号作戦が続く支那大陸でも数万人。
沖縄で軍民合計20万人、本土が軍人数万と民間人が約70万人の合計約120万人となる。
当然だが、広島・長崎への原爆投下はない。
これを差し引きすると、日本が太平洋戦争で失った人の数は、約190万人となる。
また、ソ連参戦による死者ばかりかシベリア抑留もないので最低6万人、最大35万人近くが助かる事になる。
加えて戦後混乱期の餓死者・死者を加えればさらに多くの人が助かる可能性が高い。
支那残留孤児など、復員や逃亡の混乱の中で埋もれていった人々も同列に助かる可能性の方が断然高い。
さらに本土無差別爆撃がなく、大陸との交通途絶前、国内交通の寸断前、機雷投下前に終戦になるため、国内の食料供給や流通が辛うじて維持され、国内での戦災者、戦後の死者が計数的に少なくなる。
日本全体の戦死者・死者数は、終戦後1年以内も含めると、合計で約150〜200万人に達する。
なお、祖国に送還される朝鮮人は、帰化を目論む人がある程度存在すると考えて約50万人分が日本列島から居住者数としてマイナスされる。
また南樺太、千島列島にそのまま住まざるをえない日本人が約50万人いる。
彼らは米軍統治で強制退去させられる可能性が低いので、長期間日本国国民としては除外される。
結果、史実より100万人多い人口が、大きく破壊されることがなかった日本本土に溢れる計算になる。
加えて戦後の食料不足も、アメリカが満州、朝鮮全域を占領するので、正当な貿易による満州からの流通が維持されていれば、アメリカの援助がなくてもある程度解消される可能性がある。
そして東京の一部を除く都市の全てが戦前の状態のまま残っているので、居住施設、生活品に関する不足は計数的に改善される。
いっぽう領土だが、カイロ宣言では「満洲、台湾、澎湖諸島を中華民国に返還」「奴隷状態に置かれている朝鮮の独立」「第一次世界大戦後に日本が獲得した海外領土の剥奪」となる。
つまり日本本土、沖縄、南西諸島、小笠原諸島、そして南樺太、千島列島が日本の領土に残る可能性が出てくる。
劇中の戦況も、硫黄島以外米軍は占領していない。
ただし、ヤルタの密約でソ連に渡す予定だった場所をアメリカは今更渡したくないので、ソ連が手を付けられないように南樺太、千島列島を大規模に軍事占領する。
アメリカが本当に欲しかった満州占領については言うまでもない。
いの一番に大軍を差し向けて、中華民国を差し置いてでも占領統治を行う。
日本は放棄する各地で全てを失う点は大きな損失だが、人が無事帰ってくることは、後の高度成長に良性の変化を与える可能性が高い。
人こそが国家を造るからだ。
しかも、日本本土の社会資本、個人資産の多くが破壊されないので、史実より数百億円(軍民合わせて1000億円以上)の資産・社会資本を残したまま戦後がスタートできる。
軍の残余も多いので、大幅に解体されるにせよ装備による戦争賠償も楽になる。
あと、日本人の生き残りは増えるので、日本人ではなくなった朝鮮人には全て帰ってもらい、その後も入らないようにすべきだろう。
多少史実より状況がマシでも、国内には食い物がない。
また、各種資本の残余により、戦後のインフレも若干は小さくなる事は確実。
ただし、日本が失う海外の資産(総額1100億ドル)の過半は放棄せざるを得ない。
北方領土が残る事と、満州の日本人が整然と帰国する折りに持ち帰る僅かな資産が史実との小さな違いとなる。
※終戦時の日本海軍残余
サイパン作戦参加の主要艦艇は、3月19日の横須賀空襲で壊滅。
呉は4月1日の空襲で大損害。
大和は横須賀で大破着底(放棄)。
信濃は、横須賀のドック内で大破したまま。
榛名はサイパン島で大破座礁(放棄)。
大型艦残余:
戦艦:横須賀/長門(中破)、佐世保/伊勢、日向
空母:横須賀/信濃(大破)
呉/雲龍、天城、葛城、準鷹(いずれも小・中破)
呉/海鷹、鳳祥
巡洋艦:呉/利根(中破)、青葉、大淀、矢矧(中破)
佐世保/酒匂
洋上・他/北上、五十鈴、鹿島
シンガポール/足柄、羽黒、妙高(大破)、高雄(大破)
残存艦艇のうち稼働艦艇の多くは、戦後賠償艦として各国に譲渡。
ただし史実と違って、対日参戦していないソ連には引き渡されない。
アメリカが原爆実験に使うのも同じ。
日本軍の手元には当初軽艦艇だけが少しだけ残され、後に若干の空母、巡洋艦と駆逐艦がアメリカから返還される。
信濃は簡易修理後にアメリカが持って帰る。
原爆実験に使うつもりだったが、結局取りやめ。
調査後「イオージマ」と名を改め、自国運用のテストベッド艦として再就役。
ミッドウェーよろしくな改装を重ねて湾岸戦争にまで従軍後に退役し、1990年代に日本に返還される。
また空母など積載量の多い艦艇の多くが「復員船」として転用されている。
●コラム・備考2
史実と「煉獄のサイパン」世界での戦後日本の変化
・精神面
本土の被害(戦災)が少ないので、戦後日本は戦争被害者面ができなくなる。
逆に、史実ほど国内が破壊されていないので、日本人自身の戦争に対する自虐性と反戦感情は低くなる。
以上2点が最も大きな変化となる。
加えて、占領開始当初、アメリカ政府、マッカーサー、GHQは、日本本土の占領統治よりも自分たちの新たなフロンティアとなる予定の満州に多くの目を向ける。
また、日本本土での面倒(抗戦派のゲリラ化など)を避けるためにも、占領統治が史実より少し穏便になる(※無論、逆の可能性もある)。
他にも、日本列島が破壊されないため日本の一時的な経済的後退が史実より少しだけ小さくなるので、共産主義や朝鮮人勢力の国内での拡大も小さくなり、この面でも思想的な変化が若干発生する。
特に国内破壊(都市無差別爆撃)がなく厭世感情や虚脱感が小さくなるので、戦後治安維持法から解放される人々の増長を自然に阻止する動きに出る。
また、国内富裕層が史実より多く生き残るので、さらに変化を強要する。
結果として、日本では新憲法という名の占領憲法は、早々に改訂される。
軍隊も保持され、冷戦激化と共に共産党は非合法とされる。
かくして、ありきたりな西側国家となってしまう可能性が高い。
そして、第二次世界大戦で人の上に原爆が落とされていないので、原子力忌避の考えは生まれない。
一方米軍は、朝鮮戦争もしくはベトナム戦争にあたる戦乱で核兵器を使うことになる。
(恐らく「満州動乱」にて使用される。)
・国土・産業・総人口
国土
日清戦争以前の領土に、千島列島、硫黄島を欠いた状態で独立存続が認められる。
ただし、国内の軍事基地の多くが接収され米軍が利用。
その後の安全保障条約でも在日米軍として駐留を続ける。
南樺太、千島列島は米軍が占領統治。
特に南樺太国境とウルップ島には米陸軍部隊が駐留。
その後アメリカ委任統治領となる。
ただし、北方領土はそのまま日本領に残る。
そして南樺太、千島列島は1968年に日本に行政権を返還。
ただし各地に米軍の巨大基地が残る。
対して、ソ連の太平洋戦略は大きく後退。
ペトロバフロフスク・カムチャッカスキーは包囲された状態となり、オホーツク海も戦略原潜の海として使えない。
だが、日本もオホーツク防衛に努力を割かなくてはならず、ソ連との対立は激化する。
産業
米軍による本土無差別爆撃がほとんどゼロなので、都市と生産施設はほとんど手つかずで残る。
そればかりか、明治に形成された大都市圏ごとの役割区分が強く残る。
また都市圏での一般資産が残るため、中産階級、中流階層が多く残り、東京以外の都市圏の影響力が強まる。
これによって、政治・学術の首都圏、先端製造業の中京圏、商業の京阪神が形成され、首都圏一極集中はある程度避けられる。
しかしそれでも、首都東京への集中は進む。
また、68年以後は南樺太があるので、酪農など北方農業はより盛んとなる。
また千島列島での北洋漁業も活発。
あとは、資源輸入先および市場として満州(中華民国)が大いに活用される。
総人口
史実より100万人多く始まり、21世紀初頭で150〜200万人ほど多い。
人口と南樺太・千島の分だけGDPもほんの少し(1〜5%)ばかり多くなる。
なお、南樺太保有により少しだけ人口密度は低下。
全体として、大きな変化はない。
国防
降伏条件に従い、日本降伏と共に帝国陸海軍は無条件降伏する。
そして占領地域からの即時撤退と日本本土での武装解除が合わせて決められる。
しかし、軍の解体や解散には至らず、大幅な組織改編とされる。
また戦後すぐに、連合国の占領政策の変更により、重装備を全て取り上げた状態で日本国内の治安維持組織(国境警備隊程度の役割)としての存続が認められる。
完全な再武装は、満州動乱が起きた1950年。
旧陸海軍省は正式に防衛省に統合され、従来の陸海軍に加えて新たに空軍が新設される。
また名称は、陸軍、海軍から自衛軍に統合される。
ただし敗戦後からのアメリカの占領政策で、日本国内の軍需産業のほとんどが一旦は壊滅。
装備のほとんどがアメリカからのお下がりとなる。
そして海上護衛型の海軍、防空専門の空軍、外征能力を持たない陸軍に再編成。
装備、教育の過半はアメリカ製となるが、けっきょく日本伝統のものも強く残る。
南樺太・千島列島返還後は、アメリカの極東戦略の影響と日本経済の拡大もあって軍備も増強。
陸軍では機甲師団が複数編成され、空軍は最新鋭の戦闘機を導入し、海軍では米軍払い下げながら空母が復活する。
戦後残った装備の過半は、交戦国に賠償として引き渡し。
空母や巡洋艦の中には、他国で長らく寿命を得たものもある。
終戦前に活躍した大和は、横須賀で大破着底状態のまま過ごす。
戦後数年経った時の調査で、意外に船体、主砲塔の状態がよく一時復帰が取りざたされるも、用途と経費の問題から断念。
主砲塔など一部の装備が調査目的などで引き上げられるも、経費の問題からサルベージと解体には至らずそのまま放置。
その後、残骸状態の大和と隣接する形で戦争記念館とされる。
戦後の戦争では、満州動乱にはごく一部が参加したに止まる。
ベトナム戦争は大規模に参加。
戦後ソ連の極東への圧力拡大を受けて、冷戦の一翼を強く担うようになる。
1980年代はGNP1・5%、国家予算一割がボーダーライン。
なお、原爆投下がないので核アレルギーは存在しないが、アメリカの意向と費用対効果の面で核兵器は保有せず、原子力潜水艦を有するのみ。
海軍偏重だが、史実の西ドイツに近い。
ただし徴兵制はなし。
・国際社会面
日本は、降伏時に日本政府の独立が明記されていたため、継続的に独立(主権)を維持。
1950年頃より日本の近隣には、満州の中華民国、大韓民国(朝鮮統一政府)、アメリカ委任統治領の台湾が新たに成立。
中華中央には、満州を除く地域に中華人民共和国が存在。
満州で存続を続けた中華民国は、国境のほとんどを仮想敵に囲まれてハリネズミ国家化。
常に、共産中国とソ連に攻め滅ぼされないかと危惧する状態で過ごす。
冷戦中はずっと、国防のため強い親米親日。
共産中国が毛沢東の死後西側と妥協した時が一番のピンチ。
冷戦崩壊後も南北中国対立があるので親米親日。
日本と強い経済関係を結ぶ。
アメリカも自らの新たなフロンティアとして、占領統治を経て中華民国領となるも満州を重視。
早くからアメリカ資本が大量に入り込み、経済の多くを握って中華民国政府と静かな対立が続く。
1970年代半ばに勝手に核開発。
一時西側社会から干されるも、共産中国の存在や冷戦構造もあって許容される。
1990年代に民主化して先進国の仲間入りも果たし、西側の有力国として存在。
21世紀に入るも国連常任理事国としての地位も維持。
世界も、中国は一つと言う共産中華の見解は否定。
依然として、共産中華の不倶戴天の敵。
今でも「中華民国」として国連に名を連ね続け、常任理事国の椅子も手放していない。
1億人以上の国内人口と経済力、そして核兵器のおかげと言われる。
21世紀初頭でも、GDPの約4%(国家予算の3割)を軍備に注ぐ軍事大国でもある。
なお、経済格差と各開発により軍事バランスが逆転した80年代初頭、勝手に統合戦争を行おうと画策。
ソ連の牽制と、アメリカが援助停止をちらつかせて米ソ両国が抑止した経緯がある。
台湾は、中華民国の短い統治(1945年〜1949年)から長いアメリカの統治(国連委任統治)を経て、1972年に「台湾国」として独立。
国連にも最初から加盟。
自国の存続のため、親米親日国家。
在台米軍も存在。
中華民国との関係は比較的良好。
しかし独立後は日本との関係強化を行い、時代が進むに連れて自由貿易やビザなし渡航など行い、連合化の兆しすらあり中華民国との関係が徐々に悪化しつつある。
もともと中国と呼べなかった地域な上に在米華僑の影響も強く、民意の点では中華でも日本でもアメリカでもない自立した国となる。
中国語(上海語)以外にも英語、日本語が普及して、独立後は公用語の一つとされている。
在米、在日華僑からの支援も強い。
天敵はもちろん中華人民共和国。
中華人民共和国は、大戦終了時中国の重工業・資産の9割を持っている満州、台湾を得られない事もあって、中華主要部を占めるも建国後長らく経済、産業が低迷する。
加えて、近代化のための人材も大いに不足する。
しかも、自らの経済政策の失敗(大躍進など)と中華民国との度々の軍事衝突で国力を長らく疲弊させ続ける。
独自の核開発も遅れ、1970年代後半に開発。
中華民国と保有しあって睨み合う。
中華民国が比較的強いまま存在するので、双方の思惑もあってソ連との関係断絶には至らず。
しかし仲は悪い。
1976年の毛沢東死去以後ようやく経済面の本格的な発展に力が入れられるが、従来から続く基礎体力の低さと中華民国との対立から、21世紀に至るも大きな成果を得るに至っていない。
国際評価は低く、核開発後に国連加盟が実現したのみ。
ただし国連加盟は1980年代に実現し、既に加盟している中華民国、台湾国を認めるのが条件とされ渋々受け入れる。
一つの中国主義と常任理事国の地位の正当性を訴えるのが国是となっているが、どれも国際社会からは認められていない。
南北中国対立が年中行事。
停戦ラインを挟んで、常に大軍が睨み合っている。
21世紀に入るも、満州(中華民国)、台湾と激しく対立して、アメリカ中心の国際社会から孤立気味。
ただし、経済開放の効果は徐々に現れ、国力を大きくしつつある。
それでも、インド、ブラジル、メキシコなどからは、数歩遅れていると見られている。
大韓民国は、建国時の影響から極度の反日の西側国家となる。
政府の軍部独裁が続き、アメリカからも一定の距離を置かれる。
アメリカの国際戦略上で満州(中華民国)と日本の中間点以上には考えられず、赤くならなければ良いと、日米からの援助や投資は常に最低限。
1965年に日本とようやく国交を結ぶ。
1980年代の民主化と経済開発で、ようやくNISEとして脚光を浴びる。
日本との賠償問題と非難合戦が年中行事。
日本は、戦前の朝鮮半島内の日本資産返還を訴え、人道面以外の賠償には一度も応えていない。
また、3つの中華国家(中国、満州、台湾)とはどことも微妙な関係。
近年は、対日批判で共産中国とつるむ事が多い。
●備考:満州動乱(1950年〜53年)
問題点:
中華人民共和国:
ソ連との陸路連絡で鉄道が使えない。
国内資産、工業が著しく不足している。
とにかく、カネとモノがない。(だから満州に押し入る)
米ソ対立の関係上、ソ連はあまりあてにできない。
中華民国:
満州に逃げ込んだばかり。
兵隊の数は多いが、精鋭部隊を除き士気薄弱、意気消沈中。
政府、官僚の腐敗は相変わらず最悪。
アメリカ軍は「おしおき」として、ほとんど引き上げている。
ただし、背水の陣としての政府の意識は高い。
外野:
アメリカ:
戦後の軍縮で兵隊なし。
満州は、中華民国に対する「おしおき」でもぬけの殻。
取りあえず、馬鹿には教訓と思っているが、満州を手放す気はさらさらなし。
ソ連:
アメリカの思惑はよく分かっているので、直接介入する気なし。
アメリカの軍事力(核戦力)が怖い。(※ベルリン競争に負けた事から核開発は史実より若干遅れぎみ)
民族主義的な中華人民共和国はあまり気に入らない。
まあ、数少ない共産国が倒れない程度には支援するつもり。
アメリカにソ連の力をチョット見せて牽制。
出来れば漁夫の利を得たいと思っている。
日本:
満州には、一部日本人が残っているので気になる。
開戦後は、国連軍の兵站拠点としてウハウハ。
国内の米軍激減と冷戦激化を受けて軍隊再編。
ついでに、占領軍憲法も改定。
戦中には中華民国とは仲直り。
韓国:
いちおう西側。日本が大嫌い。
国内の共産党ゲリラが悩みの種。
周り全てが気に入らないので、ソ連船の海峡通過を認めるなど日和見。
中華民国との仲は、満州の朝鮮族と国境線問題もあってあまり友好的じゃない。
戦争そのものは、史実の朝鮮動乱のオマージュ。
奉天と旧南満州鉄道を争点に3年間の泥沼の戦争。
中華民国が辛うじて共産軍を撃退。
停戦ラインがそのまま暫定国境となり、熱河省の多くが共産中国に編入されて終了。
以後睨み合いや大規模国境紛争が行われる。
●あとがき……終戦そして戦後について
「テレビの前の皆様、この歓声をお聞き下さい。ここ南樺太は、1945年の終戦以来アメリカの委任統治領として占領統治を受けて参りましたが、本日午後零時を持ちまして日本に復帰しました。この歓声は、全住民が日本復帰を喜ぶものです!
今私どもは、今まで日本人として入ることが難しかったかった場所、南樺太随一の都市にして占領統治中は自治政庁が置かれていた豊原市中心部に立っています。現在の豊原市の人口は約30万人。極東米軍の司令部の一つと郊外に巨大な軍用飛行場、駐屯地が置かれた基地の街です。
しかし今この場所は、豊原市民を始め南樺太から集まった住民約10万人によって埋め尽くされています。南樺太全体の人口が60万人ほどだと言えば、規模の大きさが分かっていただけるでしょうか。
また、ご覧の方の中には、東京や大阪などでのベトナム反戦運動並びに反米運動を思い起こさせる方もいらっしゃるかも知れません。自衛軍の撤退問題は、もはや国際問題とすら言えるかも知れません。
しかし、しかしここでは日本本土復帰を喜ぶ声、日本政府に賛意を叫ぶ声で埋め尽くされています。
これはひとえに23年にわたるアメリカの占領統治が住民にとって精神的に重荷であったかの現れであり、長らく日本人とは自ら名乗れなかった事への感情の大きさを現しているのでしょう……」
日本人家屋の平均よりかなり大きな居間に据えられた大型家具のようなテレビからは、その日の正午日本に返還されることになった南樺太と千島列島に関連するニュースが流れている。
ほんの少し前までベトナム戦争のテト攻勢での損害と政治的影響で日本政府を激しく糾弾していたはずの日本マスコミ集団は、今はオホーツクの領土復帰を祝うお祭りに熱狂している。
放送局や新聞の中には、政府やアメリカに批判的な記事やニュース、コメントは多い。
だが、それでも今は南樺太・千島の本土復帰を祝い、長年復帰交渉を行ってきた日本政府に対する評価で埋め尽くされている。
占領を続けてきたアメリカに対する好意的な意見、評価すら見られるほどだった。
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と言う風なエピローグを、歴史的側面からの「オチ」として最後に付けようかと思っていました。
しかし、終戦の時点で小説としては終わっているし、戦記が目的ではないので、結局今回「終章」は置かない事にしました。
戦記としては、戦争の結果や戦後を書かない事は竜頭蛇尾かもしれませんが、作品内の目的は達成されていると考え、少なくとも本編においては戦後については書かないことにしました。
なお、あえて終戦前後の混乱を列挙すれば、色々史実とは違ってくるでしょう。
史実より早い降伏。
ドイツ降伏前の終戦。
ソ連の対日不参戦。
無条件講話の行く末。
極東での米ソの駆け引き。
満州占領に関する、アメリカの事実上の抜け駆け。
満州問題に絡んだ国共内戦の変化。
米ソのベルリン競争など、様々な事件があります。
戦後すぐも、米軍による日本外地全ての一括占領、米海軍・海兵隊が中心となるによる日本本土進駐、米陸軍が押し掛ける満州情勢、中華大陸での国共内戦、朝鮮半島の独立など事件が目白押しです。
冷戦中も、史実同様に米ソの激しいつばぜり合いとなるでしょう。
そこに戦後日本もアメリカ側の一員として深く関わってきます。
こうした戦後については、機会を改めて戦後を描くという点を皆様に予告しつつ、今回は最後にしたいと思います。
ああ、あとサイパン壊滅後の戦争の道筋ですが、お分かりの通り物語的要素が強く、国体護持が連合国から早期に認められない限り、普通に状況を構築していけば原爆投下まで日本は降伏しないと思います。
もう、どうにもならないんですよね。
●最後に
皆様、今回も長のおつき合い誠にありがとうございました。
これを持ちまして、週間連載架空小説第二回を終幕させていただきたいと思います。
さて今回は、史実の大和特攻と東京大空襲をあたりをガジェットとした、「末期戦」をテーマにしました。
無論、私の知る限り同じ事を誰もしていないと言うのも、今回の作品を送り出した理由になります。
とは言え、私自身残虐な描写が苦手なので、オブラートに包んだ末期戦と言えるかもしれません。
ですが、「末期戦」を書く以上、一般人の目線からも戦争を見なければならないと考え、破壊と米軍の占領が約束されたサイパン島に登場人物を据えてみました。
また、「戦闘」ではなく「戦争」に少しでも重点を置きたかったので、今回のような作品になりました。
作品の内容自体も「架空戦記」としては地味だとは思いますが、手前勝手ながら満足しています。
一方で、サイパン島戦での万歳突撃やバンザイ・クリフでの悲劇を書かない点は、筆が逃げているのではないかと思われるかも知れません。
その点に関する限り、まさにその通りです。
私の筆力程度では、到底史実同様のあの場所での悲劇を書くことはできません。
一方、架空戦記小説としてはかなり不足気味な戦闘描写や登場兵器ですが、特に登場兵器は史実からの逸脱は最小限としました。
「末期戦」をテーマとして据え、「戦闘」ではなく「戦争」に重点を置く以上、ガジェットとして必要のない「すーぱー・うぇぽん」を出す気がしなかったからです。
ドイツ帰りの潜水艦を最初に出したんだからとおっしゃる方もいるかも知れませんが、不利で貧乏な側はなるべく「知恵」と「勇気」で乗り切らないといけませんからね(笑)
そうした中で、今回の私のお気に入りは序盤での《伊29潜》と《信濃》の使い方でした。
《信濃》なんて、無事就役できた場合の最良の使い方とは思いませんか(笑)
それでは、また次の作品で会いましょう。
(末期戦ですら娯楽作品に仕立ててしまう、宮崎駿はやっぱり偉大だ(笑))




