戦後-1
・日本終戦から1960年代まで
1945年4月8日、日本は連合国に対して「オタワ宣言」を受諾。
事実上の降伏を選択した。
これはドイツ降伏より一ヶ月早い事件であり、日本が戦勝国の政治の道具となることをギリギリ防ぐ結果をもたらした。
また、日本との交戦国からソビエト連邦を欠いているという、第二次世界大戦全体で見ると少し特殊な終わり方ともなった。
当然というべきか、欧州では連合国の重要な一角であったソビエト連邦は、彼らの予定よりも早い日本の降伏を前に、対日参戦の機会を完全に失ってしまう。
しかも終戦時(4月)のソ連在極東軍の数はわずかで、重装備や兵站物資はゼロに近かった。
政治的にも、日本との間には41年4月に結んだ中立条約があり、対日参戦どころか積極的な行動すら難しかった。
その上満州には、自軍の倍以上の数の関東軍が存在しており(実際は正規軍20〜30万人程度。
他は根こそぎ動員途上の民兵レベルの兵力だけ)、日本の海軍もいまだ残っており、準備不足のままむやみに攻め込んだり進駐と称して日本勢力圏に踏み込めば、逆侵攻を受ける可能性すら危惧された。
だいいち、日本の終戦時ドイツ(欧州)での戦いはアメリカとの次なる戦いのための序曲を迎えていた。
国家にとって裏庭である日本に割ける力はどこにもなかった。
ソ連は、まずはドイツ(欧州)に全力を注ぐべき時だったのだ。
ここで力をゆるめてベルリンを取れなければ、勝利の意義が半減するというものだった。
しかし、日本降伏は早すぎた。
中立条約を利用した講和斡旋などで、日本に恩を売って影響力を増す事すらできなかった。
そればかりか、ソ連の日本に対する抜け駆け行為とも取れる水面下の行動を知ったアメリカが、日本に降伏条件を緩和したほどだった。
そして米ソの綱引きが、日本の戦後を少しずつ進路変更させていく事になる。
ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンは、日本降伏後すぐに連合国各国に日本本土、満州、朝鮮、オホーツク沿岸の共同占領を連合国各国に提案する。
むろん、それらの地域で主な役割を果たすのはソ連だ。
ヤルタ密約で日本領土の割譲を決めていたのが、彼らにとっての根拠だった。
しかし、旧日本領全域の占領軍司令官となるマッカーサー元帥の強い意見を受けたアメリカ政府は、ソ連の提案を拒絶した。
イギリス、中華民国も部外者の介入を嫌った。
そしてアメリカ政府は、日本降伏時、日本政府と交戦状態にあった国々のみによる日本の占領を行うと各国に通告した。
また日本勢力圏の占領統治は、戦争継続中という状況も踏まえてイタリア方式を採用し、日本列島の占領政策はアメリカ一国によって行うと英中両国にも伝えられた。
それでもスターリンは、ドイツとの戦争が片付くと欧州から大規模な兵力を移動させ、実力行使に出ようとしたと伝えられる。
だがドイツ降伏のその日(5月8日)、ウラジオストクに向かっていたアメリカのレンドリース船団は進路を変更して既に米軍部隊がいる満州やオホーツク地域へと向かう。
ソ連側の思惑として、対日参戦を予定して運ばれていた膨大な物資の全ては、日本降伏と共に1ドルも1グラムも送られなくなった。
レンドリース停止と同時に、ソ連全土はドイツ降伏のその日から物資不足に悩まされ、特に生産力の低い極東での大規模な軍事行動は物理的に極めて取りづらくなった。
また、ソ連軍の極東での不穏な動きを受けた連合国艦隊は、様々な理由を付けて早々に日本海のみならず黄海、オホーツク海にまで自国の艦隊を入れてソ連を牽制。
いち早く各地に占領軍が送られ、アメリカを中心とした日本および満州の占領統治の強い意志を示す。
当然というべきか、その後のソ連の対アジア姿勢は強硬となっていく。
これは後に、ソ連の動きに連動してアメリカ政府が日本軍事力の完全解体を思いとどまり、最終的にはアメリカの独断で日本軍を一部残す事につながっていく。
またヤルタの密約でソ連に割譲予定だった南樺太、千島列島は、米軍が現地武装解除監視の名目で、ドイツ降伏前の5月に入るとすぐにも占領統治を開始する。
そして現地軍を武装解除させ、日本軍基地を接収するとすぐにも自軍による基地化を進め、東西冷戦の最前線となっていく。
その後、長い占領統治を経た1968年、日本に返還される事になる。
さらにヤルタでの密約は後に公開され、冷戦時代を通じてソ連のどん欲さと狡猾さを示す例とされた。
そして45年7月に行われたドイツ・ポツダムでの会議でも、米英とソ連の意見は対立した。
ソ連から再び提案された日本の分割占領案は、アメリカによって強く否定された。
アメリカが会議の直前に行った原爆実験の成功及び映像資料を伴った公表が、スターリン以下ソ連代表団の舌鋒を防いでしまったと言われた。
原爆の人体実験をしたがっているアメリカが、全ての敵がいなくなった今、誰に対して見せたのかがあまりにも明確だったからだ。
そして晩年のルーズベルトの意志を受けた政策を実行するトルーマンは、やる気満々だった。
なお日本の占領政策そのものは、戦争経緯と連合国軍(米軍)の占領地大幅拡大、そして大戦終末期から戦後しばらくのソ連の行動と中華情勢により少しずつ変化していった。
連合国による日本本土占領は、主に首都東京と主要軍事拠点の軍事占領が予定されていた。
主な場所は、東京中心部、各海軍鎮守府、増設以前の各地の陸軍師団本拠地、各地の大規模空軍(陸海軍航空隊)基地、各地の大規模造兵工廠になる。
講和条件に国家の独立保証を盛り込んだため、日本の内政権、警察権は保持されたままなので、あくまで降伏した軍に対する行動が目指された。
連合国というよりアメリカがこうした条件を設定した背景には、欧州での戦闘が終わっていないという事以上に占領軍兵力の不足が、当初から指摘されていたからだ。
アメリカが中心となって占領すべき地域に、急きょ満州国、朝鮮半島、オホーツク地域が含まれるようになった事が一番の原因だった。
そして満州国及びソ連と国境を接するオホーツク地域には、太平洋方面にあった陸軍主力部隊を充てることが決められ、必然的に日本列島そのものの占領統治では、海軍及び海兵隊の地位が大きくなった。
また、日本本土の占領軍として海軍及び海兵隊が重視された背景の一つには、米陸軍が戦略空軍の一時的壊滅と沖縄戦不発のため、米海軍より発言権が低かったという事実があった。
当然ながら米陸軍は反発するが、結局米陸軍が日本本土の占領統治で主役を果たすことはできなかった。
また、米陸軍以上に対日反撃で大きな役割を果たせなかったと判断されたイギリス、中華民国は、日本本土の占領統治からはほとんど除外された(※英国、中華民国とも国内事情で占領軍派兵どころではなくなり、結局、英国(豪州)一部が加わったのみ)。
一方米陸軍は、占領軍主力が日本本土に向かわなかった代わりとばかりに、ソ連に対する矢面ともなる満州、朝鮮、オホーツク方面に大挙進駐した。
主力が沖縄及びボルネオ島などへの侵攻予定の部隊で準備の多くが整っており、進駐が極めて迅速だった)。
特にアメリカ政府の意向もあって満州統治を重視し、いち早く満州国政府と関東軍を指揮下に置いて完全な軍政を実施した。
そして米海軍は、太平洋艦隊司令長官のニミッツに東京に拠点を置かせ、米陸軍のマッカーサーは総司令官として東京に総司令部を開設するも、大連のヤマトホテルを主な根城とする。
他イギリスが、兵力が不足する米軍に代わるという形で、日本のごく一部と東南アジア各地と台湾に進駐した。
なお、米陸軍が多く満州に入った表向きの理由は日本の武装解除だが、日本軍武装解除による治安の悪化を最小限に押さえるためとも説明された。
無論、中華共産党に先を越させないためでもある。
このため米軍は、満州各地の日本軍に米軍が進駐するまでの常態の維持と現地警備及び守備の継続を強く命令している。
一方、水面下でのアメリカ側の大きな理由は、共産主義勢力に満州を渡さないためだったが、他にも理由があった。
自分たちが得られる獲物を、ハイエナに与えて腐らせることを危惧したという点がある。
アメリカは、中華民国の上層部や軍人、官僚のほとんど全てが全体の利益を無視して私利私欲に強く走りがちなのをこれまでの交流(+援助とその実体)から深く理解していた。
彼らを中華地域で唯一最低限の近代的秩序がある満州に入れることは、結果的に共産主義に利する行為だと判断していたのだ。
むろん中華民国側には、現地関東軍が中華民国軍に敗北したとは考えていないため抗戦の可能性が強くあり、また中華民国軍を米軍機で輸送するよりすぐに準備が整う自軍を入れる方が早いためとも説明している。
そして中華民国側も、ソ連に自力で対抗できない事と自分たちより近在の中国共産党に奪われるよりはと、米軍の満州進駐を認めた。
いっぽう朝鮮半島では、アメリカ単独による軍政統治が速やかに実行された。
この時、武力的な問題は一度も発生しなかった。
米軍が唯一行った行動とされるものも、朝鮮人が勝手にすげ替えた旗を、一度日の丸に戻した後に降ろし、合衆国国旗を掲げた事ぐらいだった。
そして、すぐにもアメリカの手による朝鮮の信託委任統治の準備に入った。
正直アメリカとしては、満州が手に入ったので資源や資産に乏しい朝鮮半島に興味が薄かったが、果たすべき役割もあったという事だ。
そして最も肝心な日本の領域の占領軍配置は、以下のようになった。
満州に15万人、オホーツク方面に3万人、朝鮮半島に1万人、日本軍の大軍がひしめく台湾と沖縄本島には、当初それぞれ2万人の米軍が進駐。
そして日本本土には、当初の予定よりはるかに少ない約9万人が進駐した。
そして米陸軍だけでは兵力が足りないため、日本本土とオホーツク方面の占領は、海軍及び海兵隊が主力となり、後に日本本土占領の一部と台湾に英連邦軍が加わっている。
中華民国には、主に自国領域の占領地域回復が重い任務だとされ、戦争終了から半年以上たって英国軍が進駐した後の台湾占領統治に参加させるにとどまった。
(※米海軍及び米海兵隊の占領軍兵力は、5個海兵師団+武装した海軍将兵の合計11万人ほど。)
なお本来なら、日本を軍事的に完全占領する場合、日本本土の占領だけで40万人が必要と考えられていた。
だが、アメリカとしては、自国の為に満州占領を手抜きするわけにはいかなかった。
また、日本降伏当初ドイツの戦争に決着が付いていないため、他から兵力を回すゆとりも無かった。
故に日本本土の占領は、限られた条件、そして限られた場所へと大きく変更されたのだ。
実際の占領統治は、4月後半から問題もなく少しずつ開始された。
結局、連合国は、日本の警察権を自分たちに対する治外法権以外はおおむね維持させた。
その方が安上がりだからだ。
そして無条件降伏した日本軍だが、こちらも結局完全解体される事はなかった。
オタワ宣言に「日本軍の無条件降伏」と同時に「日本陸海軍力の制限」が記されていることが効いていた。
条約を杓子定規に解釈すれば、降伏と武装解除を行っても、完全解体するには削減量も決めなければいけないからだ。
そして国内治安及び限定的な国境警備隊としての存続が、占領軍総司令部で早々に決定した。
重装備を接収され組織縮小と組織改編、そして厳しい監視にさらされるも、国内治安維持のため当初予定の完全解体を当面免れる事になる。
ただし連合国は、ファシズムを主導した日本政府の一部、軍上層部、軍需系財閥、右翼思想家には全く容赦がなかった。
首都東京に押し寄せた占領軍の多さからもそれを伺い知る事ができる。
地方には、軍施設以外に占領軍は実質赴かなかったからだ。
そして日本は、新憲法の制定(国民主権、侵略戦争の放棄+国号の改称など)や財閥の解体などを含めた連合国による国家の大幅な改造と、事後法である悪名高き国際軍事裁判が行われる。
日本政府が行政権の及ぶ地域も、日清戦争以前の領土に千島列島を欠いた状態が認められたに過ぎない。
それは、一ヶ月遅れで無条件降伏し、完全解体されつつあるドイツよりマシだが、第一次世界大戦後のワイマール・ドイツよりも厳しい処置となった。
もしくは、日本より早期に降伏したイタリアと、現状のドイツの中間ぐらいと表すべきかもしれない。
しかし日本政府及び日本国が独立維持し続ける事が連合国によって保障された点は、戦後の日本にとって何よりも大きなアドバンテージとなった事は間違いなかった。
そして、降伏が調印され各地に連合国の占領軍が入った時点で、日本の戦後は開始される。
辛うじて独立存続を許された日本政府の一番の問題は、各地に派遣された軍隊の即時撤退と、全ての権利を失う地域からの邦人引き上げ問題だった。
結局これは、船を使うしか方法がないため、米軍の協力のもと海軍主導で実施された。
それまで戦闘艦艇だったものも、俄に復員船に改装され日本海軍の戦後も開始される。
なお、この時の復員事業では、日本国内に大型の船が著しく不足するため、海軍の大型艦艇が武装解除の末根こそぎ動員された。
中には、伊勢級戦艦(航空戦艦)や雲龍級空母、重巡洋艦の姿もあった。
また、復員は現地の物資が不足する南方が重視され、日本にとって問題のない支那、満州、朝鮮からの復員及び引き上げは後回しにされた。
特に満州では、連合国の意向もあって復員が大幅に遅らせられる事になった。
この背景には、満州の軍政には日本が作り上げた行政組織が必要であり、また経済の最低限の維持のためも日本人が必要だという背景がある。
一気に日本人全員を引き上げさせてしまえば、果実である満州のうまみが一気に減ってしまう事は、アメリカとして避けたかったのだ。
なお、日本国内の食糧事情が逼迫する事が明らかなため、満州地域からの穀物及び最低限の資源の輸出も認められた。
おかげで日本人の満州からの引き上げはさらに遅れ、支那本土で穏便な引き上げ政策を実施した中華民国が強い抗議を行ったほどだ。
一方、日本本土の占領統治は、ほとんど順調と言って良かった。
日本軍の抵抗や反乱・テロは一切なかった。
これは連合国が天皇保全を約束し、その天皇の声が日本国民の激発を抑えたからだ。
また、警察権と最低限の警備権を残したため、日本の治安維持自体が日本主体とされた事も、占領統治をスムーズとさせた。
この中で発生した問題は、朝鮮半島出身の一部住民の一時的な激発、解放された左翼勢力の台頭と日本権力との対立、そして進駐した米軍将兵の慰安問題とそれに付随する犯罪行為だった、とされている。
どれも戦闘やテロと言うには及ばず、小さな問題や禍根を残すことにはなったが、政治問題にまで発展することはなかった。
そして1945年8月15日の天皇神格化否定の詔書を皮切りに、連合国監視のもと日本の民主化は開始され、翌年1946年5月に新憲法が発布。
日本の戦後が本格的にスタートする。
なお、憲法改訂に伴いそれまで日本帝国もしくは大日本帝国と言われていた国号は、正式に日本国となる。
主権も憲法上で国民に移され、天皇は憲法上で「象徴」という曖昧な言葉により、名目君主となった。
なお、新憲法に置いては、当初戦争否定と共に軍備の著しい規制を盛り込む予定だった。
だが、独立国家が軍備を持たないとする占領軍側の理想論優先の行き過ぎた内容に反発が相次ぎ、戦争放棄だけが条文に盛り込まれた。
ただし、軍隊は陸海軍が廃止され防衛省と自衛軍に統合され、その下に新たに陸海空自衛軍が設置された。
また、再建軍当初は、ワイマールドイツ同様に、厳しい軍備制限を受けた。
この中で、中型以上の爆撃機、高速発揮可能な空母、潜水艦、戦車の保有が禁じられ、この条項は1950年に解除される事になる。
かくして日本は、世界の厳しい目の中「平和国家」としての道を歩み始めることになった。
しかし、日本の動きに反して、日本近隣の北東アジア情勢は一向に安定しなかった。
それまで日本(帝国)が力で押さえつけていた矛盾が吹き出したのだから、当然と言えば当然の結果だった。
最も大きな変化は、1949年に中華中央での争いにあえなく敗れた中華民国が、連合国の看板を掲げた米軍及び英軍がいまだ多数駐留する、満州及び台湾に逃亡した事だろう。
その上で中華民国政府は、中華民国の存続を楯に、アメリカに占領地域の早期明け渡しを脅すように求めた。
そして世界中にとって中華共産党(中華人民共和国)は異分子であり、アメリカは中華民国を存続させるより他無かった。
そしてその場所は、共産党の支配が及んでいない台湾島もしくは、いまだGHQの占領統治が続く満州しかなかった。
しかも中華民国政府(蒋介石)は、強引かつ意外にしたたかだった。
彼らは、未だ自分たちが握る数少ない手札のうち、取りあえず目に付く資産を奪い取った後の台湾を身売りに出したのだ。
そもそも、満州に追いやられた中華民国に台湾も防衛する力はなく、米軍も共産中国を封じ込めるため、それを受け取るしかなかった。
かくして以後台湾は、1972年までアメリカの委任統治領として過ごし、さらにその後自立の道を歩んでいくレールが敷かれる。
いっぽう朝鮮半島は、1945年6月以後規定の方針通り連合国の占領統治(信託統治)に入る。
そして占領統治の間に日本人は、固定資産を放棄して強制退去に近い形で引き上げさせられた。
この時日本側に残された詳細な記録が、後の賠償問題の大きな火種を残すことになる。
韓国が日本から賠償金を受け取りたければ、国際法上では奪った形となる日本資産を一度全て返還しなければならないからだ。
なお戦後の朝鮮半島では、様々な独立が試みられた。
一番早いものは45年4月内に行われている。
しかし、全てが連合国によって否定された。
なぜならば、日本を倒したのはアメリカを主力とする連合国であり、朝鮮民族は関係ない第三者だからだ。
そして日本の一番の植民地であった朝鮮半島では、徹底した欧米式統治を経なければ、近代国家建設が難しいと判断されていた。
このため、戦後しばらくはアメリカの委任統治が実施される。
そして1948年になると、アメリカからある程度の支持を取り付けた李承晩が、大韓臨時政府をうち立てようとする。
だが、委任統治賛成派、国内の共産主義者(北部ゲリラ)、現在進行形で強い弾圧にさらされている親日派、知日派が、それぞれの立場から強く反発した。
そして、様々な勢力が入り交じったゲリラ戦が半島各地で頻発する事態となる。
だがその頃になると、占領軍であるアメリカなど連合国は、占領軍兵力の不足を主な理由に首都漢城と主要交通路以外の警備を臨時韓国政府に任せてしまい、共産党勢力への対処以外はほとんど傍観する。
国際社会も、国民の支持が得られていないとして李承晩政権の早期独立に反対した。
結果、朝鮮半島での内乱状態はその後の満州動乱と連動するような形で激しく続けられ、国内の共産党がいちおう駆逐されたと判断される1956年まで続き、終戦時ほとんど無傷であった朝鮮半島は大いに荒廃した。
その後アメリカ主導により、朝鮮半島住民の安定化という理由で当初の長期間にわたる委任統治予定を取り下げ、大韓民国(李承晩政権)が成立する。
ただし、アメリカの「助言」ばかりか国際常識すら無視した反日政策から、李政権中は日本と国交を結ぶことはなかった。
辛くも自主独立を継続的な形で維持できた旧宗主国の日本も、早くから帰国事業と言う名目の元の朝鮮人の強制国外退去と渡航禁止を実行するなど、朝鮮半島との対立を見せるようになる。
また、正式に大韓民国の独立が決まった1953年には、日本と領土問題「竹島紛争」を引き起こし、対馬、竹島沖で日韓の軍艦が事実上睨み合うという、現在にまで続く不毛な対立の根強い原因となっている。
いっぽう満州に逃亡した中華民国政府も、問題は山積みだった。
逃亡後に自分たちの資産を強引に確保し、満州からアメリカ色、日本色を追い出そうと躍起になった事が発端だった。
当然と言うべきか、利権問題、経済問題でアメリカ政財界の不興を買ってしまう。
しかも彼らは、アメリカ人が有能だから継続的に使っていた日本人官僚や経済人を満州から追い出して満州の政治と経済を崩壊寸前にまで無茶苦茶にして、より一層アメリカから不興を買った。
加えて現地少数民族を弾圧したり、企業の国有化宣言を出したり、全体主義政策を実行するなどでさらなる悪感情を積み重ねた。
しかも資本と権力の独占を図るばかりか、権力階層の多くが不正な富を蓄財を行い、アメリカ人、アメリカ企業すら脇に追いやってしまう。
そしてアメリカは、当面満州が自身の直接的な利益にならないと判断すると、占領統治終了を理由に軍の大幅引き上げや在留邦人、資産の引き上げを実施した。
しかも日本から賠償として得たとして、多くの資産も満州の外に持ち出してしまう。
辛うじて残ったのは、満州がアメリカの陣地であることを示すアメリカ大使館と最小限の米軍基地、そしてわずかな数の軍事顧問団だけだった。
それだけ置いておけば、蒋介石よりマシな賢明さを持つソビエト連邦が動かないからだ。
だがアメリカの真意を理解しない、もしくは無視してかかる者もいる。
1950年、アメリカの一連の行動を戦略的後退と勘違いした中国共産党が暴発。
中満国境を中心に中華統合戦争が勃発。
「満州動乱」に至る。
日本は近在での戦争特需によって息を吹き返し、その後復興から成長へと進んでいく事となる。
そして1968年、アメリカの委任統治領とされていた南樺太、千島列島が返還され、高度経済成長による国力の増大もあって東西冷戦の枠組みの中で重要な一翼を担うようになっていく。




