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煉獄のサイパン 〜菊水部隊・東京大空襲ヲ阻止セヨ!〜  作者: 扶桑かつみ


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第八章 2

1945年3月6日 ウルシー泊地



 彼の眼前には、有史以来様々な呼び方でされてきたであろう巨大な戦力に対する代名詞すら不足する戦力が、その巨体たちを休めていた。

 

 長さ約30キロメートル、幅約15キロメートルの環礁で囲まれた波静かな海面は、この時期の米軍にとって最強の「兵器」の一つであった。

 

 ウルシー環礁と呼ばれるそこは、北緯10度、東経140度の辺りに位置し、日本の主要な軍事拠点に対する前線拠点としてまたとない位置だった。

 そして、500平方キロメートルを超える環礁内の「静かな海」こそが最大の魅力だ。

 

 米軍は、この巨大な環礁に大量の艦船を入れて、日本本土攻撃のための基地として活用していたのだ。

 

 環礁内には、事前調査により700隻の艦船が入泊できることが判明しており、環礁内二箇所に分かれた艦隊泊地では、北部の広い方に第58機動部隊を中心にした艦隊主力が停泊し、南部の狭い方の環礁には、前衛を務める艦隊と泊地もしくは泊地の中間点で補給作業を行う艦艇が主に停泊している。

 

 第58、第7だけで300隻に達し、さらには英国の太平洋艦隊も既に入っており、泊地の規模は既にキャパシティ一杯だ。

 

 また、補給艦隊と言えど、中間地域に赴く艦艇だけで護衛を含め100隻以上に達し、総数は200隻を超える。

 また泊地ないで様々な任務をこなすものや、泊地の防衛艦隊、潜水艦、支援作戦を行うその他の艦隊を含めれば、600隻もの艦艇が同泊地に展開している事になる。

 

 戦艦、高速空母それぞれれ20隻ほどを中心に無数の艦艇がのんびりと泊地を埋める様はまさに圧巻であり、アメリカの国力を赤子にすら教える情景を作り出している。

 

 もっとも同艦隊は、硫黄島への支援をそこそこに沖縄作戦のための準備に入ったにも関わらず、その硫黄島の攻防戦が長引いているため、本命である沖縄作戦を開始できないでいる。

 そのため、すでに出撃準備が整っているにも関わらず、無為に日々を送るはめに陥っていた。

 

 そして強大でありながら動くに動けない巨大な艦隊の実質的支配者こそが、レイモンド・スプルアンス合衆国海軍大将だった。

 

 もっとも、世界最強、有史上最強の破壊力を持つ戦闘集団の統率者自身は自称「怠け者」だ。

 今日もウォーキングと称した散歩をしつつ、自らの率いる艦隊を何となく眺める日々を過ごしている。

 

 とてもミッドウェー、マリアナと国家の命運を賭けた戦いで勝利した提督とは思えないが、このスタイルばかりは当人に変更の意志はなかった。

 

 有名な逸話に、親友にして一時期参謀長だったカール・ムーアとの会話がある。

 いわく、

「閣下、私が幕僚をとりまとめ、書類仕事を行えば、閣下は何をなされるのでしょうか」


 少し沈思したスプルアンスはかく答える。

 

「考え、戦うのだ」


 それを聞いたムーアは得心の笑みを浮かべ、なお一層の精勤に励んだと言われている。

 

 故に、この頃の参謀長アーサー・C・デイビス少将にとっての仕事の一つに、司令官探しという重要な役割があった。

 司令官がそこら辺をフラフラしているので、ヘタに従兵などに探させるわけにもいかず、自然参謀長がスプルアンスが行きそうな場所を探すようになっていた。

 

 カンカンカン。

 金属を叩く規則正しい音が近づき、彼のすぐ側でカツン、と小ぎみ良い音で締めくくる。

 

「閣下、ここにおいででしたか」


 デイビス参謀長の安堵する声に、スプルアンスは手摺りに両肘を乗せたような姿勢で、環礁をのんびりと眺める仕草を続ける。

 

 それを見たデイビスは小さく嘆息する。

 

「閣下、兵無き観艦式はそろそろ終わって頂けませんか。まもなく定例会議です」

「もう、そんな時間か」

「あと15分ありますが、事前情報をお伝えせねばなりませんし、やはり時間丁度に議場に入っていただかねば部下への示しがつきません」


 うん。

 そう答えるスプルアンスだが、いまだ動こうとしない。

 ここまで来れば呆れるしかないのだが、働き者の参謀長たるものそうは言っていられない。

 

 気分的には首根っこを掴むように、スプルアンスを今現在の見晴らしの良い散歩道半ばにある展望台から引き下ろし、歩いて50メートルほどの司令長官室へと導く。

 

 まったく前任の参謀長は、司令官をどのようなしつけをしていたのだろうと、埒もないことを思いつつ、全体会議前の報告へとようやく移った。

 

 するとスプルアンスは自ら襟を正し、ジッと書類に目に通す。

 その間わずか5分ほどだが、デイビスも自らの司令官の聡明さと集中力の高さは知り抜いている。

 でなければ、「お守り」を進んで自らの任務とはしていなかっただろう。

 

 そして怠け者から司令長官へと転職した男が、冷静で知的な瞳を参謀長に向ける。

 

「参謀長、少し気になる事がある」


 ハッ、何でありましょうか。

 幾つかの可能性を想定しつつ、デイビスは事前に回答の引き出しを頭脳の縁で構成する。

 

「ウン。日本本土の九州を回った艦隊だ」

「その艦隊ならば、昨日夕刻佐世保に入るのが友軍潜水艦により確認されました」

「なら、詳しい構成は?」

「暗号解読から《イセ》《ヒュウガ》と駆逐艦3隻と見積もられています」

「これは、疎開ではなく我が軍の沖縄侵攻に対する事前配置と判定されているが、いかにも中途半端な戦力ではないかね」

「はい。ですから幕僚団では、呉にいまだ在泊する艦隊残余の主力と共同で出撃する二正面作戦を日本軍が画策しているのでは、と予測しています」

「レイテの再来か」

「左様です」

「では、呉の様子は」

「3月4日の偵察を最後に、陸軍のF13による偵察は停止しております」

「では、無線及び暗号解読は?」

「その点は問題ありません。《ヤマト》が内地で小さな訓練をしているのが暗号通信の傍受により確認されております」

「では、他の残存艦艇の過半は、依然呉に集結しているんだな」

「間違いありません。豊後水道に再配置した潜水艦からの報告も状況を肯定しています。彼らは、我が軍が沖縄に侵攻する時に備えていると見るべきでしょう」

「再配置か、豊後水道への対策は?」

「3月3日に行方不明と判断された潜水艦に代わり、2隻の潜水艦をシフト変更で急派。その間に戦艦2隻に佐世保への移動を許しましたが、その後の警戒シフトは万全です」

「そうだったな。では、紀伊水道の行方不明潜水艦に対する手当も同様かね」

「はい。念のため航続距離ギリギリでB24に偵察爆撃を行わせましたが、輸送船と護衛艦艇数隻を確認したのみで大きな変化ありません。哨戒潜水艦も再配置済みです。昨日の会議でも結論されたように、日本海軍は明らかに沖縄侵攻に対する準備態勢に入るための行動の一環と考えるべきでしょう」


 フム。

 吐息にも似た了解の言葉を発したスプルアンスだが、ここ数日は頭のどこかに靄がかかったような感じがあった。

 

 日本軍の行動に、一応の理は通っている。

 沖縄決戦を自ら宣言する海軍の檄文。

 突然の日本本土近辺配備の潜水艦の制圧。

 その後すかさず行われた艦艇の再配置と輸送作戦の決行。

 それ以前の暗号通信の解読と物資移動状況を伝える無線からも、四つの行動は裏付けが取られている。

 3月3日の高高度偵察でも、呉に日本の残存艦隊が集結している事も確認済みだ。

 《ヤマト》もモビー・ディックとあだ名された新型巨大空母も暢気に在泊していた。

 

 しかも、日本人達は暗号が簡単に解読されているとは考えていないらしく、やたらと暗号通信を使っている。

 だが、そんな事は今までと同じであり、ことさら懸念する事ではない。

 

 しかし、何かが引っかかる。

 

「マリアナからF13を出す事はできないのか?」

「我々も要請は出しているのですが、3月4日以後マリアナ諸島はB29の使用を拒絶してきています」

「またか」

「はい。爆撃兵団を率いるルメイ将軍はよほど大規模な作戦を行うつもりらしく、ここ数日B29の機体整備と作戦準備に全力を傾けております。昨日現地で頼みに行った海軍関係者も、1機たりとも無用な機体は出せないとけんもほろろに追い返されたそうです」

「それにしても念が入りすぎている。ドイツのドレスデンやハンブルグの再来でも狙っているのかもしれないな。とにかく日本本土偵察の件は、私からニミッツ提督に要請を出しておこう」


 お願いします。

 そうは言う参謀長だが、大きな危惧を抱いてはいない。

 スプルアンス自身、直率する第58機動部隊が一週間後の3月14日に出撃し、日本本土西部をくまなく爆撃すれば懸念は取り除かれると、理性では分かっていた。

 

 とにかく、呉の攻撃を入念に行うよう、幕僚達に提言してみよう。

 そう思いながら部屋の時計へと目をやる。

 

「さ、私との雑談も切り上げようじゃないか参謀長。皆がそろそろ待っている頃だ」


 その日も、珍客は艦内の一角を占領していた。

 

 あまりに奇妙な客人なので、本来ならそこの住人であるべき人々も、食事の時間など限られた時間以外では、自身の心根に根ざした遠慮心から半分程度を明け渡す日々を送っている。

 それも今日で3日目だ。

 

 本来ならその珍客の場所は、狭い艦内でも珍しい個室をあてがわれている。

 本来なら戦隊参謀が使うものだが、参謀の数が少ないため空き家となっているのを利用したものだ。

 だが珍客は、今の場所が広い平面空間を確保できる場所が欲しいと艦長及び隊司令に頼み込み、一日の4分の1はその場の半分を占領していた。

 

 そして珍客の占領地というのが、狭い艦内に設けられた士官室であり、そこで紙とペンで格闘する毎日を送っている。

 作業中はまるで憑き物がついたようでもあり、汗くさい髭もじゃの大男たちですら話しかけるのが憚られた。

 

 そうした中、しばしの時間を得ることができた戦隊司令は、ようやくできたゆとりを使って、珍客への突撃を敢行しようとしていた。

 

 手には、烹炒長に入れてもらったコーヒーが、カップで二つ握られている。

 

「一服、取られてはいかがですか」


 戦隊司令、木梨鷹一大佐は珍客に話しかけた。

 

 そして珍客は、声と香りにつられたように顔を上げて木梨を見つめ、心理的な不意を打たれたのか目を丸くしつつも素直にカップを受け取った。

 

「ありがとうございます、木梨大佐。……いい香り、久しぶりだわ」


 《伊29潜》始まって以来の珍客である山科法子が、受け取ったカップを顔の前まで持っていくと、そのままゆっくり回して香りを楽しむ。

 

 木梨は目の前の客人の仕草にデジャブーのようなものを感じたが、お客さんに対する個人的質問は、たとえ大佐といえど禁じられている。

 非公式ですら許されているのは、こうして無駄話をするぐらいだ。

 何しろ相手は、公式発表では玉砕で死んだ事になっている人間だ。

 

 もっとも、今回の任務は異例ずくめなので、女性を潜水艦内に客人として招き入れる事ぐらい大したことではなかった。

 それに、就役初期の任務として、印度独立の闘士チャンドラ・ボーズをインド洋上でドイツ潜水艦より迎え入れた経験もあるし、ドイツ訪問の際にはドイツ海軍の高級将校も迎え入れている。

 その時は、技師や将校の多くも運んだ。

 珍客なら慣れっこだ。

 

 なお本来の《伊29潜》は、特攻魚雷《回天》搭載母艦であり、旗艦施設を持つ事から『神武隊』と勇ましい名を与えられた部隊の旗艦でもあった。

 木梨はその戦隊司令だ。

 

 だが出撃の一週間の2月22日に戦隊ごと任務に変更が行われ、翌々日に旗艦である《伊29潜》は出撃を命じられた。

 搭載予定の《回天》も未装備で、任務も通常の戦闘は禁じられた。

 《伊29潜》の新たな命令は、玉砕した筈の島から島内の情報に詳しい日本人を連れ出すことであり、その任務の引継だった。

 

 急ぎ受けた説明の中で、前任艦が行方不明になり、すぐに出撃できそうな潜水艦が《伊29潜》しかなかったための措置だったとも知らされた。

 そして特攻作戦を中止してまで行うべき任務であり、その結果が珍客をサイパン島からすくい上げた後に会合地点まで運ぶ事だった。

 

 神武隊の他の潜水艦である《伊58潜》《伊36潜》も特攻任務よりも偵察任務が重視されており、《伊29潜》に遅れて出撃した後はウルシーの監視任務に入っていた。

 よほどの好機でない限り、雷撃も《回天》使用も禁じられている。

 

 そして今《伊29潜》は、回航地点、北緯20度、東経135度丁度の沖の鳥島沖海上を目指していた。

 あと半日ほどで珍客との同行も終了だ。

 

 そして珍客こと法子の緊張が解けたところで、木梨は雑談に興じることにした。

 隣接する士官居住区やその向こうの一般居住区からは、非番兵の興味津々の気配が伝わってくる。

 が、珍客の方はまるで気にする風はない。

 

「サイパンで米軍が配給するカフェって、すごく薄いか泥みたいな味なんです。煎った豆をもらうことも有りましたが、味自体も大味で。けど、これは大違い。本当にありがとう御座います。こんな本物のカフェは数年ぶりです」

「それは何よりです。昭南で烹炒長が買ってきた英国製の高級品で、淹れたのも烹炒長です。その言葉をお伝えすれば、烹炒長も喜びます」


 場所が場所、相手が相手なので、流石の木梨も少しばかり饒舌になる。

 まさに、掃き溜めに鶴だ。

 

 とは言え、会話できる事は少ない。

 法子の方にも自分たちには何も言わないよう最初に言ってあるので、木梨が分かる事も法子が今のサイパン島に非常に詳しい人間であるという程度だ。

 名前ですら、最初に少し相談して決めた彩帆サイパンから取った彩子という偽名しかない。

 

 ただ、物腰や話し方などから、ある程度育ちや出身は推測できる。

 木梨は、高度な教育を受けた良家の子女だろうと当たりを付けていた。

 また、最初の頃感じた小さな違和感の原因の一つが、親族か親御さんが海軍関係者なのだろうとまで推察がいった。

 

 とは言え、全て口にする事ができない。

 

 おかげで、司令特権として話す内容は普段の木梨らしくないたわいない会話ばかりだ。

 

「ところで木梨大佐、あと半日程度と聞きましたが正確な時間はどれぐらいでしょうか」

「あと、11時間ほどです。3月7日午前3時に邂逅予定です。今日は早めにお休みになられた方がよろしいでしょう」

「お言葉に甘えてそうしたいところなのですが、残り全ての時間を使っても、これがまとめ上げられるかどうかなのです」


 法子の肘の下には、サイパン島の詳細な地図がある。

 艦内にある一番大きな紙に、海図などの島の図面を模写で大きく描き、そこに様々なものを書き加えたものが一つ。

 もう一つはザラ紙の山で、表組みやカレンダーがぎっしり詰め込まれている。

 

 特に地図は見事なもので、海図長から物差しを借りて描かれたアスリート飛行場、現イセリー飛行場、コプラー飛行場はそのまま軍事情報として活用できそうなほどだ。

 

(いや、それこそが目的なのだろう。だとすれば、目の前の女性は残地諜者なのだろうか。それではまるで、乗員達が益体もなく噂する「くノ一」ではないか)


 どう見ても素人、地方人、なんでもない人にしか見えない法子を前にすると、どうにも感が狂った。

 聡明で記憶力が高い事は分かる。

 地図を見る限り絵の才能があるのかもしれない。

 当人も真面目で一生懸命だ。

 もちろん地図の重要性も分かる。

 

 ただ木梨には、なぜ目の前の若い女性が作戦の重要な一角を担わねばならないのか、その点がどうしても受け入れがたかった。

 しかも彼女は、内地に帰れば墓や位牌が既にあるであろう、少なくとも大日本帝国では亡くなった人物なのだ。

 

 そして木梨の気持ちや気分を端的に述べてしまえば、それは銃後の護るべき婦女子を守れず、あまつさえ戦争に駆り出している事への国家に対する拭いようのない疑念だった。

 

 そうした思いを知ってか知らずか、法子はまろやかな湯気を立てるカフェを美味しそうに飲みながら、にこやかに木梨との談笑を続ける。

 

 木梨は、その笑顔の向こうに何かを見ようとしたのだが、結局結論が出る事はなかった。

 


「起きてください。あと30分で予定時刻です」


 当直将校に肩を揺すられ法子が目を覚ますと、目の前の景色はここ数日ですっかり見慣れたものだ。

 

 弱い電灯の明かりで照らされた、鋼鉄で覆われた狭い空間。

 浮上航行中、何度か司令塔の上の甲板に出させてもらったが、それ以外は小さな個室の中で毛布にくるまるか、今いる士官室で作業に没頭しているかのどちらかだった。

 

 おかげでサイパン島及びテニアン島の分かる限りの情報は最低限整理できたと思えたが、自信を持つにはほど遠いものだった。

 

 もっとも、寝ぼけ眼状態の今の法子にとっての懸案は、余りにもみすぼらしくなってしまった自らの外見だった。

 

 狭い潜水艦は臭く、臭く、どこまでも臭く、しかも風呂などあるわけがなかった。

 湿気も多く気温も高いので、正直サイパン島の「秘密基地」の方が百倍ましだったと思えるほどだ。

 しかも、一日分として支給される真水の量など卒倒しそうなほどだった。

 潜水艦内での丸三日は、睡眠と食事以外のほとんどは紙に向かっていたので、自らを省みる余裕もなかった。

 というより、奈央子や犬神、島の日本人たちの事を思うと、おちおち寝てもいられない。

 それに、とにかく考え動かねば、気分が負の方向に向くばかりだった。

 

 幸いと言うべきか、いつもより遙かに快適と言う潜水艦内は法子にとっては二酸化炭素濃度が高いらしく、眠るときは泥のように眠った。

 おかげで悪夢の類を見ることがなかったのが、今の法子にとって小さな救いとなっていた。

 

 また、サイパン島で急速潜行した後の道中は、全く順調だった。

 最初の一日は半分ほど潜水したままだったが、翌日からは日が暮れると浮上航行するようになり、仕事がないという木梨大佐と合間合間に談笑までする余裕があった。

 

 一度、急速潜行する事があったが、後で聞いた話では距離がかなりあったらしく、向こうは規模の大きな船団で、まるでこちらに気付く素振りがなかったと聞いた。

 

 そして数時間前、サイパン島の現状と経緯を取りあえず形にできた事で安心し、そのまま寝入ったらしいと察しが付いた。

 肩には毛布が掛けられ、机の上は整理されており、乗り込んでからずっと続く乗員の心遣いが有り難かった。

 30分前に起こしてくれたのも、最低限の身なりを整える時間をくれたのだ。

 

 そして与えられた小さな個室の小さな鏡と、残しておいた水で最低限の身だしなみを整える頃、船は海上に停止した。

 

 案内されるままに、入ってきた時と同じ狭いハッチを登り切ると、海の上とは思えないほど快適な風が吹く艦橋後部の甲板に出た。

 

 ただ乗った時とは情景が大きく異なっていた。

 左側に大きな壁面があるのだ。

 夜目には、一見大きな桟橋に見える。

 

(どこかの島に接岸したのかしら)


 第一にそんな事を思ったが、月明かりで照らし出された壁は人工のものである輝きを放っている。

 鈍く黒光りする鋼鉄の壁だ。

 しかも壁は百メートル以上も続いており、少し目線を上げると太く大きな鉄塔や無数の大砲がのぞいているのが分かった。

 

(要塞というやつかしら)


 次に法子はそう思ったが、木梨大佐が邂逅という言葉を使った事を思い出した。

 つまり、左側面を埋め尽くしている壁は移動する物体だ。

 そう、巨大な船、つまり戦艦なのだ。

 

「大きい。兄が昔乗っていた《陸奥》の比じゃないわ」


 思わず声が漏れたが、周りで作業している水兵が、法子の声に子どものような笑みを浮かべるのが一瞬見えた他、誰も答える者はいない。

 

 よく見ると巨大な戦艦の側でも水兵が作業する様が散見でき、10メートルはあろうかという向こうの船の甲板から、バッと縄ばしごが降ろされるのが見えた。

 

 それを潜水艦の水兵達が受け取り、彼ら自身が重しとなって縄ばしごを支える。

 

「我々の案内はここまでです。では、ご婦人にお願いするのは申し訳ないのですが、後は自力で縄ばしごを登ってください。できますか、ご無理でしたら…」


 大丈夫です。

 道中ありがとう御座いました。

 

 そう答えた法子に、言葉の主の木梨大佐と、法子の世話を終始焼いてくれた田野上中尉が並んで見送りに出てきていた。

 

 艦橋には《伊29潜》艦長ほか数名もいて、少しばかり別れを惜しんでくれているように思える。

 

 法子は、最初は目の前の二人に、そして艦橋の方に別れとお礼の言葉と共に頭を深々と下げると、踵を返して縄ばしごに向かう。

 

 縄ばしごでは、同時に降ろされた命綱を水兵が法子の胴体に巻き付け、それを確認してから合図を送る。

 

 法子が登る間、潜水艦の甲板ではおっかなびっくりと言った雰囲気だったが、大きな苦もなく法子は登り切ると、手を握る瞬間驚く水兵に引かれながら巨大戦艦の艦上に降り立った。

 

 そして降り立った場所は、感情に訴えかけるもので満ちあふれていた。

 

 月明かりの中朧気ながらに浮かぶ鋼の城は、20世紀の城塞そのものだった。

 法子の目には、子ども達が目を輝かせていた空想科学小説などに出てきそうな未来兵器のように思えた。

 それでいて、日本的な美しさとでも呼ぶべき雰囲気を全身から発散している。

 そして、艦を構成する全てが男性的だった。

 英語で船を女性名詞で扱うが、少なくともこの艦に女性名詞は似つかわしくないなどと、埒もない事が当然のように思えるほどだ。

 

 法子が上がった先は、太い砲身が三つに束ねられた砲塔の一番目の辺りで、そこからすぐに背負い式に二番目の砲塔があり、小さな三番目の砲塔へと続く。

 そして城塞の天守閣を思わせる艦橋が艦の中心部にそそり立ち、さらに奥は暗がりでよく分からないが、他にも大きな構造物があることが伺えた。

 そして、艦橋を中心に、下からも一部が見えた無数の高角砲、機銃砲塔が所狭しと並んでおり、円と線による幾何学的な、それでいて奇妙な調和を生み出していた。

 

(この大きな戦艦がサイパン島を攻撃するんだわ)


 法子は直感的にそう悟り、これほどの存在感を放つ存在なら、あの巨大な飛行場を見事粉砕するのではと思えた。

 同時に、この巨大戦艦の破壊力が、収容所を攻撃しないようにするのも自らの重要な役割だと、気持ちを新たにした。

 でなければ、道半ばにして傷ついた奈央子、送り出してくれた犬神以下多くの人たちに、申し訳が立たないぐらいでは済まない。

 

 そして視界をほぼ一周させ目線を下げると、数名の男達が近づいてくるのが分かった。

 暗い中で暗色の服装なので分かりにくかったが、白い手袋と帽子、襟元で時折金色の光を放つ衣装から、海軍の高級将校だと察しがついた。

 

 そして数名の男達は、法子の前に来ると一斉に敬礼を行う。

 法子も「この度はお世話になります。

 山科法子と申します」と深々と頭を下げる。

 勢いよく頭を下げた時、月明かりに濡れた黒髪が綺麗な弧を描いた。

 

「ようこそ、軍艦《大和》へ。俺は艦長の有賀幸作大佐です」


 骨格のしっかりした、見るからに豪放そうな男性がまずは挨拶した。

 顔には驚きが張り付いており、それが何となく法子にはおかしく、また愛嬌がある人物のように思えた。

 

「私は、司令長官の伊藤整一です。この第一遊撃部隊を預かり、また貴方に対する全責任も負う者です。何かと不自由があるとは思いますが、こちらこそよろしくお願いします」


 次に挨拶したのが中心にいた人物で、見るからに温厚そうながら強い意志を秘めた紳士だった。

 瞳には落ち着きがあり、どこか状況を面白がるような雰囲気が伺えた。

 

 もっとも挨拶をしたのはその二名だけで、他は特に挨拶するでもなく、法子は中の一人が「なぜ女が」と漏らすのを聞き逃さなかった。

 

 その人物は、伊藤と名乗った司令長官にきつく目でたしなめられると棒を飲み込んだようになり、以後の話は艦内で、という事になった。

 

 そして全員が動き出すと同時に、巨大な艦もゆっくりと動き出し、いつの間にか離れていた《伊29潜》の、月明かりのせいか一種荘厳さすら感じさせる静かで力強い帽振れに送られながら、目的地への最後の歩みを始める事になる。

 

 ここは、小さな岩の島を環礁が取り囲んだだけの小島。

 沖の鳥島沖の海上。

 

 サイパン島まで後一日半の距離だった。

 


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