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煉獄のサイパン 〜菊水部隊・東京大空襲ヲ阻止セヨ!〜  作者: 扶桑かつみ


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第八章(脱出) 1

 1945年3月1日 サイパン島



 その日もB29の根城であるイセリー基地を中心とするサイパン島は平穏だった。

 特に基地郊外にある日本人収容所は、米軍の爆撃とは全くの無縁のため、ただ変化のない日常を維持するしかなかった。

 

 硫黄島からひっきりなしにやってくる病院船が吐き出す、負傷した海兵隊員で満員御礼な軍病院に駆り出されている婦女子は忙しいのだが、それも日本人捕虜全体から見ればごく一部だ。

 

 収容所の日本人達の懸案と言えば、3日に控えた雛祭りをどう祝うかという事ぐらいだ。

 ただでさえ単調で陰鬱な収容所生活なので変化を付けたいところだが、何事もまずは米軍に許可を得て物資の要求を出さなければならない。

 だが米軍は、宗教的行事に対しては敏感で、日本人にとって欠かすことの出来ない正月の祝いですら、米軍の許容範囲のものとならざるを得なかった。

 

 そこで、米軍との通訳をしている山科法子が一計を案じてみた。

 米兵の土産用の人形をいつもより多めに作るからその分だけ材料をもらう。

 また、いつもより多い分を渡すことの報償として、女の子の成長を祝うという形のみで行事を認めてもらうというものだ。

 もちろん、自分たち用の雛人形の材料と少しばかりの追加食料も要求する。

 

 その交渉を行ったのが先週の事で、材料の受け渡しや人形作りも順調に運んでいた。

 今日は、できあがった分だけの人形をアメリカ側に引き渡すため、法子も収容所ゲート近くの事務所にまで来ている。

 

 教え子で今は同じ通訳の仕事をしている星埜奈央子もいっしょだ。

 

 そうして、二人して忙しく通訳をしている時、黒い影を差すほどの低空を、大型機がフライパスする。

 ちょうど法子が見上げた時、その機体の搭乗員が地上を覗いているのが見えた。

 (B29の編隊。

 きれいな機体ばかりだから、アメリカ本国からやってきたんだわ) 機体は、銀色の地色を見せつける巨人爆撃機B29。

 全長40メートルを超える巨体ながら、何十機も悠然と空を飛ぶ様を毎度毎度見せつけられていると、何でもない事にすら思えてくる。

 

「テニアン島の北に降りるみたいですね」


 ちょうど隣に並んでいた奈央子も、少しばかり緊張した声でささやくように呟く。

 

 そうね。

 気のない返事を返した法子だが、習慣化している米軍機の数を数え、時間を計る作業に思考の一部を割いているせいだ。

 隣の奈央子も同様で、胸元の時計を出して時間を確かめている。

 

 もっとも、何も知る立場にない彼女にとって、全ては文字通り雲の上の出来事だった。

 行動も、以前の習慣が残っているからというに過ぎない。

 

 その日もそれ以上気にすることなく、日当としてアメリカの国父の描かれたドル紙幣(収容所の日本人には珍しいものだ)やセント硬貨を米軍から受け取ると(知的職業ということで、通訳は他よりも格段に報酬が多かった)、収容所内の市場へと向かう。

 

 そこでパンや肉もしくは魚、缶詰、脱脂粉乳、その他調味料などを買うか支給される。

 最近は、島内農場の野菜の収穫サイクルに位置しているので、米軍のおこぼれの野菜が店先を賑わせており、トマトやキュウリなども手に入った。

 少し高価だが、サイパン島内の牧場から取れる生の牛乳も購入することもできる。

 

 他にも、米兵の支給品と同じだが、ほとんどの物が手に入る。

 煮炊きの為に、日本人が使い慣れた練炭ではなく固形燃料のコンロすら支給されているほどだ。

 肉類など、缶詰に入れられた分厚いベーコンやコンビーフ、たまに回ってくるレーションの中には、ハンバーグ・ステーキなど既に加工されたものまで入っている。

 お米がなく、主食がパンや豆、ピーナッツなのは受け入れがたいものがあったが、間違いなく日本本土より高カロリーな食生活だ。

 収容所内ですら、お菓子やコーヒーすら手軽に手に入るほどだ。

 おかげで、法子も奈央子も女性にとって不要と感じるほどに身体の丸みも戻っていた。

 米軍は配給を渋っているという噂もあったのだが、それでもなお当時の日本人にとり、配給の食料は高カロリーだった。

 

 服装も、米軍の中古支給品を仕立て直したものや米本国からの民間の緊急援助物資が収容所内では普及しており、見てくれの野暮ったいものが多いながら、生地の材質はかつての生活を上回るほどだ。

 

 しかも奈央子が私物として所有を許された雌鳥を2羽持っているので、日本人同士の知り合いなどとの物々交換にも事欠かない。

 

 そして、衣食住と暇を作らないほどの用事があると人は意外に安心してしまうもので、買い物時の話題も今日は何を作りましょうなどというものになってしまう。

 

 奈央子に答える法子も、トマトとベーコンでお汁でも作りましょうかと暢気なものだ。

 

 だが、それこそが45年3月に入ったサイパンの日本人捕虜の現状であり、同じ島で眠る数万の同胞の事を少しの間だけでも考えないようにするためにも、日常と平穏を維持するしかなかった。

 

 いっぽうで、それぞれの建物の奥にある仏壇を模したものや、収容所の片隅に慰霊のための粗末な碑があるのが、それが全てを忘れたワケではないという証だった。

 法子達も、上陸戦が始まる前に他界した昭一や戦闘の中で命を落とした校長など様々な友人知人の供養を行うことは忘れなかった。

 

 そしてその日も食事を済ませ、しばらく談笑をした後眠りに就いたのだが、深夜珍しく来客があった。

 

 収容所内の青年団に属し、法子達とも顔見知りで、何かと色目を使う事もあった徴兵間際だった少年だ。

 

 彼は緊張した面もちと小声で、二人に付いてきて欲しいと頼む。

 逢い引きを楽しみたいという雰囲気ではない。

 兵隊同様の緊張した雰囲気が感じられた。

 

 そして、何度も回り道して米兵の監視が届きにくい建物の一角に、共に付いてきた二人を案内する。

 

 入り際、建物の中から小さいが鋭い声が飛ぶ。

 

「必勝!」

「信念!」


 案内の男はすかさず返し、人一人がようやく入れるだけ扉が開くと、中から素早く出てきた手が二人を招き入れた。

 

 中はほとんど明かりがなく、裏口近くの一角だけにロウソクが灯っていた。

 そこには他と変わらない身なりの男が座り込み、両手を使って盛んに髭もじゃの口の中に食べ物を放り込んでいる。

 そして食事をする男の影は、二人にとってなじみ深いものだった。

 

「犬神さん。どうしてここに!」

「生きていたんですね」

「勝手に殺すなよ。まあ、もうちっと待ってくれ、見ての通りだ」


 法子と奈央子の声に一度ニヤリとだけ笑うも、モゴモゴと食べながら鷹揚に返す。

 それはまさに一月半ほど前に分かれた、犬神広志海軍中尉に他ならなかった。

 二人にとっては募る話しもあるのだが、当の犬神はまずは腹ごしらえとばかりで、二人の言葉に適当に相づちを打ちながらも、5分ほどは会話にもならなかった。

 

 そうして、犬神が米兵用の大きなカップの中の黒い液体を呷ると、ようやくまともな会話となった。

 

「プハーって、何だよこの甘い変な飲物は。カフェかと思ったぜ。いや、それより呼んだのはこっちだ。取りあえず今日は、最低限の事だけ言わせてもらう。食ったらすぐ動かないといけないんでな。とりあえず、質問あるなら言ってみな」


 法子の性格を知っている犬神が切り出すが、他の男達の様子からも多くの時間がないことは読みとれる。

 

「なぜ貴方がここにいるのか、それは問わないわ。私も収容所に兵隊さんが紛れ込んでいたり、ここの日本人が外の兵隊さんに食料や情報を渡しているという噂ぐらい知っているもの。だから、私が聞きたいのは一つだけ。どうして、外に居るはずの犬神さんが私達を呼びつけたのか、という事よ」

「相変わらず理路整然だな。助かるぜ。けど、何から話すべきかなあ」


 犬神の一見暢気な声に「中尉殿」と焦る声が、会話の追い風となる。

 

「分かってるって。いいか、お二人さん。聯合艦隊がこの島の最新情報を欲しがっている。なるべく詳しく新しいやつだ。その話が島の外の潜水艦から舞い込んだのが、一昨日の事だ。で、本来なら俺が行くのが筋だ。あれからも飛行場の観察も続けていたからな。けど、少しばかり問題があって、アンタらに代役を頼みたい」

「何故ですか? 書類はまとめておいたから、あれを渡せば問題はないんじゃないですか?」


 もっともな疑問を、奈央子が不思議そうに口にする。

 ただ、法子の方はある程度察しがついていた。

 

「まあ、その筈なんだがな。けど、島に来た外からの連中を迎え入れて匿う時、米軍とちっとばっかし小競り合いになって、俺の命を救う代償になったという案配だ。見てくれ」


 犬神が、おどけた口調のまま上半身諸肌となると、右脇腹に包帯が巻かれていた。

 かなりの量だ。

 

「見ての通りさ。米軍の機関銃弾が思いっきりかすった。で、もらった書類は油紙に包んで肌身離さず持ち歩いていたんだが、見事俺様を守ってくれた千人針ともども粉みじんだ。……これ、この通り申し訳ない。まずは謝る。アンタらの苦労を水の泡にしちまった」

「いいわ。あの帳面が犬神さんの怪我を少しでも小さくしてくれたのなら、意味があったのよ」

「そう言ってもらえるとありがたい。だが、おかげで日本で一番正確なアスリートじゃない、イセリー飛行場の情報はお釈迦になっちまった。そこで、生きた記録である人間様を回収する事になったんだが、俺はこのザマだ。小さな船で環礁の外に出なきゃならねえんだが、今は歩くのがやっとで収容所内でみんなに担がれて逃避行状態だ。傷は治してはいるんだが、期日までに動けるかは分からねえ」


 後は分かるな。

 犬神の目はそう語っている。

 これが軽い話であれば、小さなため息一つで了承したいところだが、流石にそうは行かない。

 

「他の軍人の方や大人の方ではダメなの」

「ああ、ダメだ。俺も接触できる限りの軍人に当たったが、俺が一番物知りだった。記憶力から言えば、アンタらは俺以上だ。他の地方人については論外だ」

「では、私達が再び紙面に整理し直すのは?」

「時間があればそれが一番なんだが、迎えが来るのは次のB29の大空襲があった日の夜半と決まっているが、流石に日付が分からないし、調べる暇もない。これで少しは納得いってくれたか」

「理屈では納得がいくわ。多分、犬神さんがこの時点で私に話す気になった事も分かる気がする」

「なら頼む。山科法子さん、大日本帝国軍全軍を代表してお願い申し上げる」


 いつになく真面目な口調と共に、怪我でぎこちない仕草のまま頭を深く下げる。

 

 そうまでされては、この時代の日本人として断ることは難しい、というより出来るわけがなかった。

 

 法子は、半ば反射的に小さく頷いた。

 

「分かりました。ただし、私一人が向かいます。奈央子はまだ子どもです。ここに置いていく事を了承願います」


 法子先生。

 隣で短く叫ぶ声が聞こえるが、法子は無視して犬神の目を見続けた。

 犬神が奈央子の名を口にしていない事からも、自分一人で済む筈だという読みがあった。

 

 犬神も、あえて重々しく頷いてから口を開く。

 

「俺の一存ではなんとも言えない。勘弁してくれ。それと詳しい事は、今話すことはできない。友軍に収容されてからになるだろう。ただ、俺が接触した連中の雰囲気から推察するに、よほど大きな作戦だ。もしサイパン島に何かする気なら、前に俺がやったションベンみたいな爆撃どころじゃないだろう」

「日本軍がここを奪回に来るというの?」

「分からない。本当だ。知らされていないんだ。ただ、アンタが島の詳しい現状や地図を伝えることは重要だ。もし上陸なり、爆撃なり、艦砲射撃するなりした場合、何も知らない内地の連中は、このススッペも吹き飛ばすかもしれない。遠目には、米軍の駐屯地にも見えるからな」


 犬神の言葉と共に、法子と奈央子の顔が血の気が引くのが見えるような白さになった。

 加えて二人には、犬神が最初にこの事を伝えなかった事も理解できた。

 脅しているのと変わりないからだ。

 

 犬神の言葉の意味を思考の奥で吟味しながら、奈央子に顔ごと視線を向ける。

 案の定奈央子は揺れる瞳を向け、その顔を見つめながら一方では自身の未熟さと運命というものの皮肉を感じていた。

 

 なお、詳しい話しは、間際に話しそれは4、5日後になると伝えると互いにその場を離れ、旧交を温める間もなく互いに闇の中へと消えていくことを受け入れなくてはならなかった。

 

 その翌日、その日は何事もない平穏な日常だった。

 と言うより、昨夜の事件の方が非日常的なのであり、何もない怠惰な毎日こそが収容所のあるべき姿だ。

 管理する米軍ですら、合理的判断から何事もない事を望んでいる。

 よほど鉄条網に近づかなければ、警戒の機関銃や探照灯が見えないようにしてあるのは、収容所の日本人を無駄に刺激しないためだ。

 鉄条網の柵こそ二重に施されているが、地雷原などはなくただ家畜を囲うような備えでしかない。

 

 その事自身屈辱に感じなければならないのだろうが、この島の多くの日本人は激しい戦闘で一度精神的虚脱状態に追い込まれているので、米軍が最低限の事をしている限り反抗心は容易に芽生えない。

 その点米軍もよく考えていた。

 事前に反抗させない対策を取る事こそが、最良の統治方法なのだ。

 

 だが、サイパン島は小さくはない。

 島の中央部にはターポッチョ山を中心に小規模ながら山岳地帯もあり、人間を拒む密林に覆われている。

 こんな場所に逃げられては、数万人を投入した山狩りでも行わなければ、日本人全てを駆り出すことはできない。

 米軍もまた、定期的な小規模部隊による哨戒任務以上の必要性は認めていなかった。

 

 また米軍は、収容所の日本人が、外の日本人に食べ物やちょっとした情報など渡している事は薄々気付いていたが、釈迦の手の平の上と放免状態だった。

 少なくとも、食料倉庫を襲われでもして自軍に死傷者が出るよりはマシと考えている節がある。

 

 日本人の側もそれを利用しており、奇妙と言えば奇妙な状況が成立していた。

 

 米軍でも、収容所以外の日本人に執着心を見せるのは、暇で暇で発砲の一つでもしないと気が紛れない警備の海兵隊員ぐらいだ。

 

 当然と言うべきか、昨夜の事をアメリカ側が気付く事はなく、主に収容所の出入り口付近の事務所で行われる通訳の仕事もいつも通りだった。

 

 法子にとっての懸案も、日本兵との接触がバレるかもしれないという事よりも、すっかりしょげてしまった奈央子の様子の方だった。

 

 そしてその夜。

 寝床につき、法子が自身の考えからしっかりと伝えようと言葉を考えていると、奈央子の方から話しかけてきた。

 

「あの法子先生」

「何? 昨日の事」

「はい。私も一緒に行くことはできませんか」

「そうね、やっぱり危険すぎるわ。米兵の目をかいくぐって島を出て、後は船か飛行機か分からないけれど、米軍の目を盗んで逃げることになると思うの」

「そのぐらいの事なら私にも分かります。けど私、先生と一緒にいたいんです。……ダメですか」


 いつもとは違う奈央子の声。

 張りつめたような声に気圧されながらも、法子は押し返すように言葉を返す。

 

「いつもなら「仕方ないわね」て言えるけれど、やっぱりだめだわ。奈央子の事は、他の大人の人に頼むから……」

「そう、それです。仮に法子先生が居ないことを米軍が知ったら、私疑われてしまうかもしれません」


 (確かに)


 あまりに急な話だったので、考えてしかるべき事を見落としていた。

 

 島内部での事なら全てを話せと奈央子に言えるかもしれないが、日本軍が何かを成そうとしている以上、行われるまで僅かとは言えど情報を米軍に渡すわけにはいかない。

 

 ならいっそ連れて行く方がマシかも。

 法子がそこまで考えた時点で、奈央子と目があった。

 

 少なくとも、この時点では奈央子の方が正しい。

 勝ち負けで言うのはおかしいが、法子の負けだった。

 

 自然法子は苦笑に近いものを浮かべ、先ほど撤回した言葉を口にしなければならなかった。「仕方ないわね」と。

 

 そしてそれからは、犬神からの連絡が今日か、明日かという緊張を強いられる毎日を過ごしていたが、特に連絡もないまま数日が経過した。

 

 3日のお雛祭りも無事終わり、米軍兵士の中には珍しげに見物に来て、中には写真機や映写機すら持ち込んで覗きに来る者もいたぐらいだ。

 まったく緊迫感に欠けるのだが、爆撃に関わりのない米兵にとっては、日本軍がまるで攻めてこないサイパン島は、実のところ収容所の日本人に近い状況なのかもしれない。

 

 そして翌3月4日は、法子達にとって大きな緊張をもたらす一日となった。

 B29の大規模な出撃があったからだ。

 

「サイパンからは約150てところね。滑走路3本を目だけで追いかけるのは流石に骨だったわ。隣のテニアンの北にある飛行場はどお?」

「52機が離陸しました。時計で43秒から48秒の間隔で離陸していて、滑走路は前と同じように今使えるのは1本だけです。通訳のお仕事が、ちょうど米軍の駐屯地の近くで助かりましたね」

「まったく、ちょうど移動中で助かったわ。けど、今夜いよいよよ。夜までに準備を終えないとね」

「はい」


 奈央子と法子が、歩きながら誰にも分からないように小声で話し合う。

 奈央子は、相変わらず正確無比だ。

 そして奈央子自身、気負って正確な数字を言っているわけではなく、これが普通だということは法子自身が良く知っていた。

 (血のなせる技ってやつなのかしら) そんな事をぼんやり思いながら、いつもの癖で奈央子のきめ細かい髪の毛を耳元あたりからゆっくりとなでる。

 

 奈央子の方も、取りあえず一仕事終えたので緊張感が少しばかり和らいでおり、そのまま二人して夕食の準備とそしてこれから必要と思われる物の準備のため、収容所の市場の方へと足を向けた。

 

 市場はまだ買い物時間から少し外れていたので人通りは少なかったが、広いとは言えない地域に数千人が収容されているし、娯楽や物資があるのがここだけなので、外出が禁止されている夜間以外人が途絶えるという事はない。

 

 法子達も緊張感から一時的に解放され、少しばかりのお金での買い物を楽しんでいた。

 

 このトマト虫食いだから、値引きしてちょうだい。

 ダメダメ、野菜はこういうのしか回されないの知ってるでしょ。

 あ、ホラ、この缶詰、初めて見ますよ。

 ホント、ソーセージが200グラムだって。

 

 そうして夕食の材料を手に入れて家路に向かおうとしたとき、どこからともなく現れほんの一瞬すれ違った男が、すれ違いざまの法子に「今夜12時、外れの南洋桜の並木で」と告げる。

 

 次の瞬間振り向くが、くたびれたGI帽を目深に被った男は、人混みに消えてまるで分からなかった。

 

 ただ、耳元で明確な言葉で言われた事に違いない。

 

 念のため周囲を見回すが、見張られている雰囲気はない。

 というより、そんなワケないと言い聞かせると、奈央子に目配せしてなるべく自然に家路を急いだ。

 


「驚いたわ。

 こんなに急に呼び出すんだもの。

 てっきり、前と同じように誰か連絡に来るのかとばかり思っていたわ」


 その日の深夜、収容所の外れ。

 探照灯の明かりがほとんど届かない収容所の外れ。

 南洋桜と日本人達が呼ぶフレーム・ツリーの側に、米軍の中古服を着た数人の男女が集まっていた。

 

 この南洋桜が並木上になった場所は、収容所内での小さな憩いの場所となっており、収容所の日本人なら半数は知っているだろう。

 だが、収容所の奥まった場所にあるので米兵は見向きもしないものだ。

 

 その南洋桜の一本に犬神が体重を預け、顔には目と白い歯が見えており、彼らしい不敵といえる笑みを浮かべている。

 

「急に悪かったな。まあ、急ぎお座敷がかかったと思って諦めてくれ。こっちも準備があって迎えをやる余裕がなかった。それよりも」

「ええ、結局奈央子も一緒に連れて行くことにしたわ。私よりも数字に強いから役に立つはずよ」


 隣で奈央子が強くうなづく。

 

 法子の言葉に少し目を細めた犬神だが、少しの間だけ法子と奈央子を見つめる。

 しかし、いきなり破顔をして再び白い歯を見せた。

 

「了解、と言いたいところだが、俺は見ての通りだ。身体はなんとか動くようになった。アメ公の食いもんのおかげだ」

「じゃあ、お役ご免なの?」

「まだ分からねえ。迎えの兵に、俺が行けるかどうか判断してもらう。そこで浜までは一緒に行ってもらう。悪いが、そこまでは保留だ。それと、迎えの小型艇が今晩2時に近くの浜まで来る」

「危険はないの。浜は米兵が巡回しているし、サンゴ礁の外には探照灯を照らした船が通るわ」


 不確定な事が嫌いな法子が口にする。

 

「だから迎えの船、まあ潜水艦なんだが、こいつも滅多な事じゃ近寄れない。も少し沖には、天敵の駆逐艦がいる事もある。それに米軍は、馬鹿でも怠け者でもない。まあ、少しばかり油断してるけどな」


 ウインクして話を締めくくった犬神は、次の瞬間には顔を引き締める。

 

「とにかく今夜は、俺に付いてこい。絶対に離れるな。機会は一度きりなんだ。万が一俺から離れた時は、各自家に戻って何事もなく過ごすこと。それと、いちおうアンタらが消えた場合、日本人の間で数日は風邪で倒れているよう示し合わせてもらってある」


 そう言って準備を整え、時計を気にしつつ歩き出す。

 犬神の歩みはしっかりしており、少なくとも外見上はもう大丈夫に見える。

 武器は何も持っていないように思うが、全て念のためだろう。

 武器を持たず米軍の中古服を着ただけなら、収容所を抜け出したぐらいに思われ、それ以上疑われる可能性も下がる。

 

 そう当たりを付けた法子と奈央子の前に、時折人影が現れては犬神に報告をしては立ち去っていく。

 切れ切れに聞こえてきた声から、米軍の警戒に対しての最終報告のようだ。

 そうした様から、かなり入念に準備された行動だと伺い知れた。

 

 そして何事もなく、黒一色の浜辺の近くへと到着した。

 もうすぐススッペ浜だ。

 右手には旧オレイア飛行場、左手すぐ側には砲台後が今も見えるアフトナ岬が見える。

 どちらも日米の戦いにより残骸以上の存在となっており、米軍も再利用していないためまるで死んだように静まりかえっている。

 

 米兵の間でも、激戦のあったこの辺りには両軍の幽霊が出るとかで、哨戒任務を嫌がる傾向が強いらしいと、法子は米兵たちの噂話から知っていた。


(けど、幽霊の正体って、本物の日本兵じゃないのかしら) 


 少しばかり余裕の出た法子は、弱い月明かりの中浮かび上がる周囲の情景を見渡した。

 すると、視界に入った奈央子が何やら危惧をいだいた目をしているのを見とがめた。

 

「どうしたの、奈央子? 何か心配事」

「いいえ、心配事という程ではないんですが」


 そう切り出した奈央子は、仮病が判明しそれどころか二人がいない事も分かったら今度は他の人たちに害が及ぶのではと心配していた。

 

 それを聞いた犬神が、ニヤリと笑いかける。

 

「心配すんな。作戦まで1週間もない。で、作戦が成功すればここの米軍は少人数の女子どもにかまけている暇はなくなる。それにな、アンタらは日本軍の大規模な攻撃が成功したら、流れ弾か延焼で死んだことにされて、葬式済ましちまう事になるんだぜ。米軍も疑いようがねえ」


 冗談で口にしていい事じゃないでしょう。

 犬神をたしなめた法子だが、奈央子はその言葉に今度は嘆息してしまった。

 

「じゃあ、私達は二度も死んだことにされるんですね。この後、どこに行けばいんでしょうか」


 瞬時に真剣な顔になった二人だが、歩みを止めた犬神が真顔で二人を見つめる。

 

「お二人の身元は、軍が責任を持たせていただきます。そのぐらいはさせて下さい。お願いします」


 今までより真剣な顔、声が多いのは、彼が社会の中、組織の中に戻っている証だが、法子はなんとなく寂しいものを感じた。

 

 同じ事を感じたのだろう、奈央子も大きな鳶色の瞳を少しばかり振わせ法子に視線を向けていた。

 そんな奈央子に、いつものように頭を斜めからなでようと思い、奈央子の顔が少しばかり安堵した時だった。

 

「っ!」


 法子は瞬間何が起こったか分からなかった。

 目に残った残像が正しければ、もう数センチにまで自身の手が伸びていた奈央子が突然視界から消え、法子自身は万力のような手で捕まれると、もの凄い力でどこかの暗がりの中に放り込まれたのだと理解できた。

 

 それが思考として理解できたのが、上に人間が覆い被さり、法子の口を手でふさいでいる状態の時だった。

 その間気を失ってはいない筈だから、一瞬もしくはものの数秒のできごとの筈だ。


 (何が起こったの! いいえ、まずは自身の目で確かめなくては)


 そう思い直し、まずは暗がりそのものを見つめる。

 

 まずは、覆い被さり息を殺しているのが犬神だというのは分かる。

 他の者であったら、まさしく幽霊だ。

 

 また二人が潜む暗がりは、米軍がばらまいたタガンタガンが繁ったものだ。

 低木ぐらいの高さだが、茂みの多さから伏せた状態の人間なら楽に隠れられる。


 (それより、奈央子は?)


 茂みの合間から少しばかりの月明かりが差す方に目を凝らすと、人が一人倒れているのが分かる。

 影の大きさ形からも奈央子以外にありえない。

 

 見ると同時に駆け寄ろうとするが、依然もの凄い力で押さえ付けられたままで身動き一つ適わない。

 そうして暴れる法子に、犬神が視線を合わせる。

 

「待て、危険だ。耳を澄ませてみろ」


 小さく鋭い声にハッとした法子が耳を澄ませると、遠くから声が聞こえてくる。

 英語だ。

 良く聞けば足音も聞こえ、急ぎ近づいてくるのが分かった。

 

 そうして数十秒すると、米兵声が聞き取れるところまで近寄って来た。

 遠くには車、ジープの音も地面のかすかな振動と共に伝わってくる。

 

 しかも離れた場所にいるもう一台のジープには探照灯が据えられており、光のビームを遠くから投げかけているのまで見て取れた。

 

 そして米兵達は、辺りに他の気配がないからだろうか、きびきびした声からおどけた声や冗談交じりの会話が、かなりの大声で交わされるようになっていた。

 

「どうだ、他にもいた筈だ」

「いないぜ! あそこに倒れているだけだ」

「いいや、こいつは集光スコープ付きだ。最低二人はいた。間違いない!」

「まあ、分隊長とサーチライトを待とうぜ」

「まったくだ。こうも暗いと、ハンドライトぐらいじゃどうにもならん」

「それより、ゴーストちゃんは何だったのかな〜」

「てか、やけに小柄じゃないか」

「ジャップだから小柄なのは当たり前だろ」

「けど見ろ、女に見えないか。黒い髪が長いぜ」

「まあ敗残兵だろうから、伸び晒しだろうさ」

「いや、おかしい。身なりが俺達に近いぞ」

「ガッデム。じゃあ、味方だったてのか」


 会話が急に緊迫度合いを増し、地面を通してドタドタと走る様が伝わってくる。

 そこに急接近するジープも加わり、騒音は倍以上になる。

 法子達の茂みまでは10メートルほどで、4、5人の米兵がサーチライトの中の奈央子を取り囲む。

 

 と、奈央子の首が動き小さなうめき声を出すのが分かった。

 とは言っても、法子からはちょうど見えていた口元が動いたのが辛うじて見えただけだ。

 

 何しろ周辺は、米兵の下手くそな英語で満ちている。

 今はとにかく、奈央子が生きていることに安堵するしかなかった。

 

「う、動きやがった。生きてるぜ」

「待て、撃つな。捕虜にするんだ」

「どうだ、坊主ども仕事はしているか」

「はい、分隊長。捕虜一名負傷を確認。これより……」


 到着したジープからの声に反応した兵士の言葉は、それ以上続かなかった。

 言葉の雷が周囲を埋め尽くしたからだ。

 

「この、馬鹿野郎ども! 手前えらの目はガラス玉か。そりゃ収容所の服だ。それに女の子じゃあねえか。なぜ、最初に警告を出さなかった!」


(この声……)

(知ってるのか?)

(ええ、私達が捕虜になった時のGI達だわ)


 二人の小声の会話の間に、分隊長ことマードック軍曹は、素早く奈央子のもとに駆け寄ると、慎重かつ丁寧に上体を起こして負傷を確認する。

 瞬間、軍曹の身体が固まる様子が法子からも分かった。

 

「なんてこった。……エドワード、応急措置をしろ。弾は肩を貫通しているだけで急所は外れてる。オマエでも出来る。それと、俺が転がすから急ぎジープで病院まで運ぶぞ。それから、他の者はこの場に残り、他に日本人もしくは日本兵がいないか捜索を続けろ。指揮は伍長に任せる。ただし、30分して何もなければ帰投せよ。それとだ、無闇に発砲するな!」


 「イエッサー」命令一過、兵士達が動き出す。

 

 マードック軍曹と衛生兵らしいエドワードは、奈央子の救急措置を急ぐ。

 そして、彼らにとって出来る限りの丁寧さで奈央子をジープに乗せると、来たとき同様素早く立ち去ってしまった。

 

 数分後、その場に残されたのは、4名の米兵だけだ。

 

「どうするよ」

「命令通り、この辺りの捜索を続ける」

「いや、そうじゃなくてあの子を……」

「分かっている。だが、これは事故だ。それに、理由が何であれ収容所の外に出ているから、責任はあっちにある。俺達が処罰を受けることはない」

「んな事言ってんじゃねえ!」

「じゃあ、何だ。懺悔なら後で牧師様にしろ。事故だったんだ。撃ったお前が悪いんじゃない。それに、狙撃したとは言え、それは小銃だ、大砲じゃない。急所を外していれば死ぬことはないだろう」

「だといいがな。でないと寝覚めが悪すぎるぜ。誰だよ、幽霊退治しようなんて言ったヤツは、畜生」

「分かったから、始めるぞ。二人居たんなら、近くにまだ潜んでいる筈だ。二人ずつペアで捜索だ」


 そんな会話の後、4人の男達が動き出す。

 片方は、法子達の潜む場所を目指している。

 

「なあ、もう一人って、やっぱあの美人か?」

「美人でも、ジャップの教師だ。軍国主義の走狗さ」

「けど、俺達より英語うまかったぜ」

「じゃあ、鸚鵡でもアメリカ人やイギリス人か? それにあの人なら、馬鹿じゃないからこっちが呼びかけたら撃つ前に出てくるさ」


 そう言うと、大声で二度投降を呼びかける。


 (何と言っている)


 茂みの中、犬神が耳元で囁く。

 息づかいは冷静だが、身体の強ばり方から緊張が直に伝わってくる。


(撃たないから投降しなさい、3分だけ待つと)

(その後は?)

(それしか言ってないわ。けど、降伏しましょう)


 瞳を法子に真芯に向ける犬神は、小さく頭をふる。

(ダメだ。今夜しかないんだ)

(じゃあ、私が降伏するから、米兵が消えた後、あなたが行って。あの人たちは、私が潜んでいると思っているの。呼びかける前の雑談で分かったわ。だから、すぐに納得していなくなるわ)

(なるほどな。だが、それも控えたい。どう考えても、あんたのおつむの方が友軍の為になる。だから、アンタが行ってくれ。

 落ち合う場所は、アフトナ岬北側のタガンタガンの茂みがある小さな入り江状になった場所だ。ここからだと岬に向けて、あっちに真っ直ぐ歩けばものの5分ほどの位置だ)


 それから早口に、月の位置を目安にした時間、合い言葉など必要事項を早口で伝える。

 

「さて、そろそろ時間切れだな」


 犬神の力が緩み、二人して間近で見つめ合ったまま数瞬が過ぎる。

 

「……いけねえなあ。アメ公のトーキーだとヒシと抱き合ったり濃厚な接吻ってとこなんだが、その暇もないらしい。……じゃ、アバヨ」


 それだけ言うと、茂みの後ろ目指して音もなく移動していき、数メートルほどの場所でやおら走り出した。

 ちょうど二人の米兵から茂みが影になるし、米兵も瞬間射撃を躊躇したので、そのまま暗闇の中へと消えていく。

 その間一瞬の事で、音すら出せない法子は声をかけることすらできなかった。

 

 代わりとばかりに米兵が罵り声をあげ、走り去る米兵の足音の残滓だけが残った。

 

 そして米兵の気配が消える沈黙の中、法子一人が茂みの中に残された。

 他の米兵も犬神が去った方に急ぎ走り去ったので、人間の気配は数分をせずして自身以外いなくなったのが気配が伝わってくる。

 

 突然の一人きりだ。

 頼れる者もなく、また頼ってくれる者もいない孤独が法子の心を支配した。

 特に、この数年間誰かの心配をしていればよかっただけだと唐突に理解できた事はショックだった。

 そしてさらにショックだったのは、孤独であってもするべき事があるという点に次なる自分の拠り所を移そうとしている自身に気付かされた。

 

「フフフ、何が本当の明日のためか、なんて偉そうな事よく言えたものだわ」


 小さな自重が法子の口から溜息のように漏れた。

 

 自分の信じる明日のため、信じるもののためなどではなく、自分自身がそれにすがっていただけだと思い知らされた。

 

 しかし、交わした約束を違える事はできない。

 そうした思いが、結局法子の心に再始動を掛ける。


 (10分、いいえ千数えたら動くわよ)


 沈黙の夜空の中そう決意した法子は、周囲を油断無く伺いつつ、この数分間の出来事が思い浮かんでは消していくという作業も同時進行で行わなくてはならかなった。

 

 突如暗闇の中からの銃撃。

 奈央子の負傷。

 咄嗟の潜伏。

 米兵の殺到。

 旧知の米兵。

 運び去られる奈央子。

 犬神との会話。

 救いは、奈央子が生きている事と治療を受けられるだろうという事。

 そして、犬神が「アバヨ」と言いながらも、今生の別れのような顔をしなかった事だ。

 いつもながらの不敵な笑みで、悪運だけを連れ歩いている顔だった。

 

 そんな顔を残してくれた犬神が、今の法子にはありがたかった。


 (さあ、行くわよ)


 心の中で決し、なお慎重に茂みを出ると、そこは米兵の射撃前とほとんど変化なかった。

 闇に馴れた目で注意深く地面を追うと、砂の地面に足跡と轍の跡、そして他より黒ずんだ場所があるのが小さな違いだ。

 

 法子は、その黒ずんだ砂を触れ物に触るように少しだけすくい上げ、ハンカチに大事にしまい込むと浜に向けて歩み始めた。

 

 犬神は5分と言ったが、姿勢を低くして歩き、なるべく何かの影になり、他から遮蔽された場所を探しつつ進んだので、倍以上の時間をかけて落ち合う場所とおぼしき浜辺にたどり着いた。

 

 浜辺では静かに波が打ち寄せ、海中には夜光虫が光を放ち、さらに月明かり、星明かりが海面に反射して幻想的な光景を作り上げている。

 

 普段は何とも思わない情景だが、ここが激戦地だったと教える浜辺で沈む米軍戦車の残骸が、全ての光を送り火のようにも見せる。

 

 そんな中、波打ち際近くに何かの気配があった。

 法子も相手にも緊張が走る。

 だが、誰何の声もなく、銃声もしない。

 ましてや探照灯もない。

 

「必勝」


 咄嗟に伏せた上体の法子が、手で口をおおい指向性を高めた声を飛ばす。

 すると向こうからも「信念」という返事があり、互いの緊張感は少しだけ消えた。

 

 そしてなおも姿勢低く進むと、答えた側の情景がおぼろげながら見えてきた。

 

 はるばる日本本土からの訪問者は、米軍がばらまいたタガンタガンの種が繁ったアフトナ岬の影になる部分に伏せていた。

 その向こうには小さな入り江があって、人が5人も乗れば一杯になりそうな小型船が浜に乗り上げていた。

 そちらにも人間が一人待機している。

 

 そして茂みの中から、視認性の低い服装の男が姿を現し、注意深く申し合わせた合い言葉の交換を行った後に、スキのない敬礼を決める。

 

「私は帝国海軍《伊29潜》甲板員の田野上中尉です。

 ……あなた、お一人ですか」

「はい。犬神広志海軍中尉の命令を受けて参りました。犬神中尉は、米兵の目を引きつけるべく囮を買って出ており、ここには来ないと思います」

「了解しました。それで他の者は? 犬神中尉他2名と連絡を受けましたが」

「他の一名は米兵に撃たれ負傷。捕虜となりました。他にも手助けして下さる方は何名か見かけましたが、この場に来るかどうかは分かりません」


 そこまで言うと、田野上中尉が首を横に振る。

 

「犬神中尉より、他の者は接触しないと連絡を受けています。我々は時間内に誰も来ない場合、そのまま立ち去る予定でした。では、急ぎ短艇にお乗り下さい」


 田野上中尉の方が早口で早々に移動することを口にする。

 素人の法子達にも、相当危険な橋を渡っているらしい事が肌で伝わってくる。

 

 法子も力強く頷き、法子の後ろに田野上が続く。

 

 急かす将校は、性別、年齢は気にしていない風というより、もしかしてこちらが女である事に気付いていないのではとすら法子には思えた。

 

 犬神と階級は同じながら、犬神の方がよほどしっかりして見える。

 顔つきから判断できる年齢も、自分とさして変わらないのではと思いつつ、急かされ短艇へと急ぐ。

 

 そして法子が乗るのを確認すると、田野上と短艇で待っていた水兵らしき男が短艇を海へと押し出し、浮く直前に二人が飛び乗る。

 そうした様はキビキビとしており、少しばかり頼もしいさを感じさせる。

 

 短艇は静かに進む。

 どうやら隠密作戦用に作られたものらしく、姿勢を低くと言われたまま法子は付近に視線を這わせる事に専念した。

 

 そうして船は浜辺から500メートルから1キロ半ほど離れた場所にあるサンゴ礁に近づく。

 サイパン島を海面に留め置いている天然の防波堤であり、島を巨大な山に見立てた場合の外輪山もしくは火山の火口に当たる。

 

 珊瑚を超えると一気に水深は増す。

 その様は海の色で一目瞭然なので、漁をする者以外島の者で近づく愚か者はいない。

 当然ながら波も荒く、タナパグ近辺の広い環礁部に港と泊地が形成されているのも、サンゴ礁が作る穏やかな入り江のおかげだ。

 

 だが短艇は、サンゴ礁の合間にある小さな裂け目を目指し、ついには外海へと出た。

 

 急に船の動揺が増し、波が高くなるのが見た目で分かる。

 天気が良いので嵐の筈ないが、海や船に馴れていない法子にとっては大波も同然だ。

 

 だが短艇は、サンゴ礁から100メートルほど沖に来たところで機関を停止。

 田野上中尉が一斗缶と鉄の棒らしきものを取り出すと、一斗缶を半分海に浸して鉄の棒で叩き出した。

 

 ガン、ガン、ガガン、ガン。

 一定のリズムを持って静まりかえった海で鳴らされる。

 法子にもそれが何かの合図であると分かるが、米軍の船に見つかるのではないかと気が気ではなかった。

 それを察したのであろう、叩く作業を二度行った田野上が白い歯を見せる。

 

「ご安心下さい。敵哨戒艇は、今の時間なら早くとも30分は視界にすら入りません。また、この側の海中に友軍潜水艦が待機しているのです」


 確信に満ちた言葉であり、それに応えた法子も笑みを返す。

 が、その時50メートルも離れていない場所で、海が泡立つのが見て取れた。

 

 泡立ちはすぐにも波のざわめきとなり、そして飛沫へと変わった。

 泡の側には何か光るものがあり、航跡を描いてもいる。


 (まるで大きなクジラみたい)


 大きな飛沫をまき散らし小刀のような鋭角的な船首を一瞬だけ見せて浮上した潜水艦の浮上の様が、法子にはそんな風に思えた。

 

 もっとも一通り浮上しきった潜水艦の姿は、突如鋼鉄の塊が出現した手品のようにすら思え、頼もしさよりも一種不気味なものすら感じさせた。

 

 そんな感傷に浸っている法子をよそに、短艇は再び動き出し、素早く友軍潜水艦に接舷する。

 潜水艦の側でも背中のこぶのような艦橋、船体後部の甲板に多数の人間の姿が見えて、甲板からは縄ばしごが垂らす作業が行われていた。

 

 そして田野上中尉に促されるまま、法子はぬめる潜水艦の船体を苦労して縄ばしごづたいに登る。

 そして潜水艦側の水兵の力強い手に引かれ、一気に甲板の上に上がった。

 

 手を握った水兵は、握った手が女性の手であった事に瞬間驚きの表情を浮かべていたが、法子には艦橋で油断無く周囲を警戒する水兵に混ざり自分を見下ろす中年男性の方が印象強かった。

 

 その様は、法子が今まで見てきた軍人や水兵と言うより、どこか達観した隠者のようにすら思えたからだ。

 

 もっとも一瞬の事であり、法子も水兵に促されるまま人一人がやっとくぐれるほどのハッチへと身を沈め、潜水艦艦内へと案内される。

 

 ラッタルを降りた中は、一言で言えば臭く狭く蒸し暑い場所だった。

 しかも男臭く、汗くさく、油臭く、そして糞尿臭かった。

 

 照明も小さいものしか灯されず、最初に入った場所は通路らしいのだが、とにかく狭く天井も低い。

 しかも壁や天井にはパイプが縦横に張り巡らされ、狭さと圧迫感を倍増させていた。

 

 だが、何かしらの感想を抱いていられる時間はひどく短かった。

 艦内のそこかしこで復唱される「急速潜行」の声と共に艦が急に傾ぎ、法子の側をもの凄い勢いで水兵達が通り過ぎていったからだ。

 

 誰かが腕を引いて脇に避けてくれなければ、濁流に揉まれた流木のようになっていたのは確実だ。

 

 そして手を引いた主、いつの間にか艦内に入ってきた田野上中尉は、責任者にお会い下さい。

 こちらへ。

 と言うと、先ほどまで人の濁流となっていた廊下を静かに歩きだした。

 

 それが法子が生まれて初めて体験した潜水艦であり、その潜水艦《伊29潜》にとっても、生まれて初めて女性を招き入れた瞬間でもあった。

 


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