しずるとなちると弟クン(5)
◆登場人物◆
・岡本千夏:高校三年生、文芸部部長。一人称は「わたし」。ちょっと舌足らずな喋り方の小柄な女の子。入学してきた新一年生の勧誘活動中。お茶を淹れる腕は一級品。時たま、しずるにイケナイ感情を抱いてしまう。
・那智しずる:文芸部所属の三年生。学業優秀の上、長身でスタイルも申し分のない美少女。事故の後遺症で、感覚が過敏で不眠症を患っている。
・那智忍:弟クン。文芸部に入部した一年生。しずるの弟。一人称は「ボク」。しずると同様に背が高い美形男子。姉のことを異常に大事に想っている。
・藤岡淑子:国語教師で文芸部の顧問。喋らずにじっとしていさえすれば、超のつく美人。しずるの事情を知っている数少ない人物の一人。
・清水なちる:しずるが小説を発表するときのペンネーム……のはずなのだが。
──清水なちる
それは、しずるちゃんが小説を発表する時に使っている筆名だ。
さっき、一旦は眼を覚ました彼女に、弟クンは、『なちる』と言った。
いったい、どういう意味なのだろう?
わたしは、保健室のベッドで再び眠りについたしずるちゃんを見ながら、そう思っていた。
ふと傍らを見ると、弟クンが、スカートのプリーツに丁寧に丁寧に折り目をつけているところだった。
「おい、那智 (弟)。お前、男のくせにやたらと細かいなぁ」
それを言ったのは、ベッドの脇で椅子に座っている藤岡先生だった。四月も中頃なので、白のブラウスに濃紺のスーツを着ている。未だ新入生が入学したばかりの時期だからだろう。いつも以上にフォーマルな出で立ちである。少し丈の短いタイトスカートから覗く足が、傍目にも魅力的だ。もっとも、これがいつまで続くかは、例年の事なので何とも言えないけど。
「放っといて下さい。これがボクのやり方ですから」
弟クンは、その端正な顔を崩す事無く、淡々と作業を続けていた。
「へいへい。本当に、お前は良い奥さんになるだろうよ」
先生はそう言うと、椅子の上で足を組み直した。やや、呆れたような声だった。
「そんなんじゃ……ないです。ボクには責任があるから……」
この時、弟クンは制服を畳む手を止めた。彼は、本当に辛そうな顔をしていた。
(また、言った。どういう意味?)
わたしは、そこに何か大事な理由が隠れているような気がした。
「ねぇ、弟クン。『責任がある』って、前にも言っていたよね。どういう事? それに、しずるちゃんの事、さっき、『なちる』って呼んでたよね」
「…………」
わたしの言葉に、弟クンは黙り込んでしまった。
それ以上話し掛ける言葉を失ったわたしは、さっきの出来事を思い返していた。
「服、脱がすの? アタシが手伝ってあげようかぁ」
そう言って、弟クンの手を掴んだ彼女の眼は、やけに妖しく色っぽかった。
そして、弟クンは、しずるちゃんの顔をした美女を、『なちる』と呼んだ。
「なんて顔してんのよ。良いのよ、アタシの事、好きにして。ずっとシタかったんでしょう、シノブ」
彼女はそう言うと、弟クンの手をボタンが外れたブラウスの中に導いた。
「う……、あ、ああ。くっ」
彼は、どうしてか彼女の誘惑に逆らえないようだった。布の上からでも分かる膨らみの片方の形が変わる。
「あんっ」
弟クンに上半身を預けた美女の口から、甘い吐息が漏れた。
眼の前の煽情的な光景に、わたしは一歩も動けないでいた。身体の奥──お腹の下の方が熱くなって疼いている。足を小刻みに振るわせながらも、わたしは退くことも、座り込むことも出来なかった。そして、その光景から眼を背ける事も。
「ねぇシノブ。……キスして」
しずるちゃん──いや、なちるが弟クンを誘った。魔界の淫魔の媚声には、強い催淫の香りが混じっているような気がした。もう既に、わたしの全身は火照って、熱くなっていた。
妖しい魅惑を放つ媚女は顔をねじって、弟クンの方を見上げた。頬を染め彼の唇を待つその顔に、わたしは魅入られていた。
(もし、あんな顔で求められたら……、わたし、拒めないかも)
わたしが普段、しずるちゃんに感じているイケナイ感情の原初が、そこにあるのかも知れない。
美女と美少年──二人は大人の映画の中のワンシーンのように、台本に忠実に動いているように思えた。
では、当然、次に来る光景は……当然、
「う、むっ、……むうぅぅ」
二人の顔が重なる。わたしからは見えないが、きっと唇も舌も、硬く蕩けるように合わさっているのに違いない。わたしの心臓は激しく鳴って、その心動で鼓膜が限界を迎えようとしていた。
その時、
「ん、んん! むぅ、……んー」
と、なちるは声にならない声を出して、少年を突き放そうとしていた。
──何が起こったの?
弟クンは、しばらくベッドの上で彼女と揉み合いになっていたが、隙をみて顔を離すと、片手で『なちる』の口を塞いだ。
「先生、水を!」
弟クンの言葉に、先生の反応は素早かった。
近くのキャスターに乗っていた水差しから、コップに水を注ぐと、
「ほれ、那智 (弟)!」
と言って、それをベッドの上の姉弟へと突き出した。
弟クンは、素早くコップを掴み取ると中身を口に含んだ。そして、「ンっ」と言って中身が失われたそれを、わたしに突き出していた。
「あっ、はい!」
躊躇しながらも、わたしは急いで両手でコップを受け取った。
弟クンは自由になった手でなちるの顔を固定すると、もう一度彼女に口付けをした。
「んっ、んんー」
再び、なちると弟クンが顔を合わせた状態で揉み合いになる。
唇を奪われた媚女は、しばらくの間バタバタとベッドの上で抵抗を続けていた。しかしそれも、彼女の喉が<ゴクン>と何かを飲み込む動きをした後の十数秒間ほどの事。しばらくすると、なちるは抵抗を止めてグッタリと動かなくなった。
「ふぅ……」
ようやく大人しくなった美女から唇を離すと、弟クンは溜息にも似た吐息を漏らした。
何が起こったかが良く分からないわたしの脳内で、目の前で起こったエロティックな攻防が繰り返し繰り返し再生されていた。その度に、わたしの体液は熱を増し、身体中を駆け巡って肌の敏感な点を刺激していた。
じっとりとして熱い汗が、わたしを濡らしていた。特に下着を……。
「大丈夫か、那智 (弟)」
わたしとは逆に蒼い顔をした藤岡先生が、弟クンを案じて問い掛けた。
彼は、片手で額の汗を拭うと、
「もう大丈夫です。薬で落ち着かせましたから」
と言うと、顔を上げて先生の方を見た。
「違うわよ。訊いたのはお前の事だよ、那智 (弟)。大丈夫か」
先生はベッドに伸し掛かるように両手を突いて上半身を曲げると、顔を彼に近づけた。しずるちゃんに負けないくらいのたわわな胸が、タユンと波打つ。
「え?」
先生の言うところの意味を、すぐには理解出来ない弟クンは、そう言って首を傾げた。その態度に呆れた藤岡先生は、身体を起こすと、ボリボリと片手で頭を掻いていた。
「あーあ、ご馳走様。本っ当にっ、お前は姉想いだな」
そう言う先生は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
彼は、その顔を不思議そうに眺めていた。だが、それもしばらくの間の事。弟クンは脱力して動かなくなったなちる=しずるちゃんのブラウスとスカートを手際良く脱がせて、上下の下着だけの姿に剥くと、改めて彼女をベッドに横たえた。そして、足元に畳まれていたシーツの端を持つと、微かな寝息をたてているしずるちゃんの肢体を覆った。
これが、少し前に起こった出来事。
この事が夢でない証拠に、わたしの肢体には、まださっきの熱い感覚が残っていた。
「岡本センパイ。これもハンガーに掛けておいて下さい」
弟クンの声で、わたしは我に返った。眼の前に白いブラウスがぶら下がっている。
「へっ。あ、はい」
わたしはそう言ってしずるちゃんのブラウスを受け取ると、ハンガーのぶら下がっているポールのところへ駆けて行った。
(しずるちゃん──でも、もしかして、なちるの着てたモノ……)
ハンガーを手に取ったわたしは、片手に持っているブラウスに顔を近付けた。フワッとした微妙な香りが、わたしの鼻腔をくすぐった。頭の芯に痺れるような感覚が走る。
しばらくの間、わたしは桃源郷の中に居るような鈍い快感の中を漂っていた。
「岡本センパイ?」
声変わりをしたての男声が、わたしを現実に引き戻した。
今日は変だ。
何度も我を忘れて、わたしの脳は溶解しそうになっている。これでは身が保たない。
「な、何でも無い。何でも無いよ、弟クン」
わたしは気を取り直して、そう返事をすると、急いでしずるちゃんのブラウスをハンガーに吊るした。
(これはキケンだ。しばらく離れていよう)
わたしは肝に銘じると、しずるちゃんの眠るベッドの脇へ戻った。
「しずるちゃん、だいじょぶかなぁ」
お姉さんと仲良しの親友に戻るために、わたしはそんな事を呟いていた。
「大丈夫ですよ、岡本センパイ。しばらく眠れば、元に戻ります」
弟クンは、静かな吐息をたてている姉を、じっと見つめていた。
「なぁ、那智 (弟)。さっきのアレは何だ。あれが、例の『清水なちる』なのか?」
ベッドの側で腕を組んでいる藤岡先生が、わたしの代わりに疑問をぶつけた。
その問いに答えるためなのか、彼はハッと顔を上げて先生の方を見た。
「…………」
しばらくの沈黙が、保健室に静寂を呼んだ。だが、それを掻き消すように、弟クンは口を開いた。
「清水っていう名字は、姉さん──まだ『なちる』の事を覚えていた頃の姉さんが、付けたモノです。「那智なちる」っていうのは呼び難いからって」
そう言うと、彼はベッドの脇の丸イスに崩れ落ちるように座り込んだ。
「姉さんは、『なちる』←『那智』だから、『しずる』→『清水』だと、姓名共に自分を逆さまにもじっていて面白い、って言って笑ってました。ボクは、姉さんなりの『なちる』の受け入れ方だったんだと思ってます」
弟クンの声には、どこか疲れたような感じがあった。
「逆さまにしてもじった、ってね。さすが、文学少女だね。言う事が違う」
先生は組んだ腕を解かずに、感想のような事を呟いていた。
(先生は、しずるちゃんの事、知ってたんだ。でも、わたしは、そんなの知らない……)
「ねぇ、弟クン。さっきも言ってたよね。『なちる』って誰? しずるちゃんの筆名ってだけじゃ無いよね。良かったら、わたしにも教えてよ。お願い」
わたしは、何も知らない自分がもどかしかった。わたしは、しずるちゃんの事、友達──親友だって思ってたもん。わたしは、わたしなりに真剣に言ったつもりだった。
そんなわたしに、弟クンは顔を向けた。ちょっと怖い表情をしている。
「良いんですか、岡本センパイ。こんな事を聞いたら、姉さん……いや、ボク達姉弟の事が怖くなりますよ。嫌になりますよ、きっと」
そう言う彼の顔は、どこかわたしを哀れんでいるようでもあった。
そんな弟クンに、わたしは、何か反発のようなモノを感じて、こう言って仕舞った。
「そんな事、ならないよ。だって、わたしはしずるちゃんの親友だよ。しずるちゃんの事、大好きだから。しずるちゃんは、わたしの事を『友達』だって言ってくれたもの。こんなちんくしゃのわたしの『親友』なんだよ。怖くなったり、嫌になったり……、する筈無いもん!」
この言葉は、嘘偽り無くわたしの心の声だった。友達だと、親友だと言ってもらって救われたのは……、本当に救われたのは、わたしの方だもの。
自分の顔を、今、鏡で見たら、わたしは笑って仕舞うかも知れない。それ程、この時のわたしは、真剣だった。
それを悟ったのか、弟クンは、ようやく重い口を開いてくれた。
「そう……ですか。それを聞いて安心しました。岡本センパイは、本当に姉さんの大親友なんですね。姉さんの言っていた通りだ」
そう言う彼の顔は、どこか「ホッ」としているようだった。
「おい、良いのか、那智 (弟)。これは、もの凄くデリケートな問題だぞ。もし、この事が明るみになったら、那智は……」
そう言いかけた藤岡先生を、わたしは遮った。
「だいじょぶです。そんな事にはなりません。わたしが、させません! 女の友情を見くびらないで下さい」
「…………」
わたしの言葉に、先生は唖然としていたが、
「へぇ、『女の友情』ってねぇ。やたらと古めかしい単語を聞いたわね。何年ぶりかな。……良いわねぇ。嫌いじゃないよ、千夏っちゃんのそういうとこ」
先生は、わたしを見ながらそう言うと、ニヤリと笑った。
「良いじゃん。話してやりなよ、那智 (弟)。千夏っちゃんは、信用出来る娘だよ」
藤岡先生の言葉に、弟クンはコクリと頷いた。改めてわたしの顔を見上げると、しずるちゃんの過去に関する事を話し出した。
「こんな事を話すと、岡本センパイの負担になるかも知れません。それを承知で聞いて下さい」
「うん、分かってる」
そう言って奥歯を噛み締めたわたしは、もう覚悟を決めていた。
「それは、ボク達が未だ小学生だった頃──姉さんが小学校六年生の冬の時でした」
語り始めた弟クンの眼は、どこか遠くを見ているようだった。
「姉さんは、ボク達──ボクと弟の史郎の所為で、交通事故に巻き込まれたんです。その時に、ボク達の知っていた『大好きな姉さん』は死んで仕舞ったんです。姉さんがこんな風になって仕舞ったのは、ボク達の所為なんです」
「だから……、『責任』があるって?」
わたしの言葉に、彼はゆっくりと頷いた。
「この事は、ボク達家族と、警察や病院関係者なんかの極限られた人達だけしか知りません。幼馴染のサクヤもタイヘイ達も知らない事です。……ああ、こんな事を話すのは何年ぶりだろう」
そう言う弟クンは、両肩に大きな荷物を背負っているかのように見えた。
「あっと、そうでした。姉さんの事でしたよね。……姉さんが小学校を卒業する年の冬、……それは二月のバレンタインデーの日の事でした。姉さんは、……ボク達の大好きだった姉さんは、バレンタインのチョコを持って、家の近くの交差点で待っていたんです。きっと、ボク達にチョコを早く渡したかったんでしょう」
そう言って、彼は一旦「フゥ」と溜息を吐いた。
「未だ小学校四年生だったボクは、交差点の向こうに立っている姉さんを見つけました。大好きな姉さんが迎えに来てくれた。それだけで、ボク達兄弟は嬉しくて浮足立っていました。早く姉さんのところに行きたくて、ボク達は思わず駆け出して仕舞ったんです。シローは……、弟は、未だ三年生。ボク達の意識からは、信号機を確認するような事は、すっかり抜け落ちて仕舞っていました。そして、運の悪い事に、その時信号は『赤』だったんです」
過去を反芻する弟クンは、懺悔室に独りで座らせられている咎人のようだった。
「赤信号で幹線道路に飛び出して仕舞ったボク達兄弟は、制限速度の上限で疾走って来た大型トレーラーに全然気が付いていませんでした。ここ迄言えば、だいたい何が起きたのか分かりますよね、岡本センパイ。お約束通り、ボク達に向かうトレーラーに気がついた姉さんは、車道に一歩踏み出しました。そして叫んだんです。「止まって!」って。……その声が聞こえたんでしょうか。トレーラーの動きが急に乱れました。後で聞いたら、運転手が急ブレーキをかけたそうです。でも、青信号だと思って国道を疾走っていたトレーラーの勢いは殺せなくって……。トレーラーは、雷のような大きな音をたてながら、対向車線の信号機に突っ込んで横転しました。そこに……」
「そこに、しずるちゃんが居たんだね……」
弟クンの言う筈の言葉を、わたしが引き継いだ。
「そうです。それで……姉さんは……大怪我を負って仕舞いました。即死だったとしてもしょうがないくらいの瀕死の重傷です。次にボクが姉さんの姿を見た時は、病院のガラス越しでした。姉さんは、身体中を包帯でぐるぐる巻きにされていました。全身に負った外傷もさる事ながら、問題だったのは頭でした。その当時の医療機器では……、姉さんに繋がれた脳波計では、ほとんど反応が検出出来ませんでした。いわゆる『脳死』状態と診断されたんです。それでも、ボク達家族は諦められませんでした。『いつか目覚めるかも知れない』という僅かな望みにすがって、ボク達は姉さんの生命維持装置を止める事が出来ませんでした」
時折目を伏せながら、弟クンは話を続けていた。
「それでも、時間というものは残酷です。ボク達家族は、すぐに、『ああ、姉さんは死んで仕舞ったんだ』と自覚しました。でも、言葉に出すのは怖かった。ボク達が……、いえ、『ボクが姉さんを殺して仕舞ったんだ』って言う事実を認めるのが、とても怖かったんです。ボクは、毎日を恐怖に苛まれながら過ごしていました。そして気が付くと、半年が経とうとしていたんです」
(しずるちゃんは、小学校の時に死にかけたんだ。……あれっ。でも、今、しずるちゃんは元気に高校に通ってる。って事は、助かったんだよね)
「でも、本当の恐怖は、その後にやって来ました。姉さんが植物状態になってから半年くらい経った頃──その時には学校は、もう夏休みになっていました。夏休みのある日、姉さんが突然意識を取り戻したんです」
そう言った弟クンは、震える手で頭を抱えていた。
「意識を取り戻した姉さんは……、姉さんは……」
言葉に詰まりながらも、話を進めようとしている彼は、何かに取り憑かれているように小刻みに震えていた。
「今でも覚えています。……目の前で瞼を開いた姉さんは、……ぼ、ボクを見て、こう言ったんです。『やぁ、おはよう。君は誰だい。可愛い男の子だね。アタシは、なちる。仲良くな』って」
そう言った弟クンの眼は虚ろで、どこか違う世界を観ているようだった。




