34.正義を貫くシルバーグレー
「カハッ! ゲホッゴホッ……っ、は、はぁ、はぁっ」
なにがあったかわからない。だが、わたしの体はふっと地面へ解放され、わたしは開いた気道からいっぱいに空気を吸い込んで、吐き出した。
「っ、く、ははははは!」
耳をつんざくような大きな笑い声が聞こえる。
「まさか、兄さまがわたくしに手を出すなんて。予想外でしたよ。はは、そんなにこの女が大事ですか」
粉々になった椅子の木片が、ガラガラと音を立てて崩れる。中から、煤にまみれた黒星さまがゆらりと立ちあがった。
わたしが目を開き、その状況を確認すると、すぐ目の前にぼんやりと薄明るく発光する夜明珠がある。汚れてもなお金に輝く牡丹の葉は、まさに――
「暁、さま……」
わたしが作った靴だ。暁さまの靴。
どうやら、暁さまがわたしを助けるために、黒星さまを殴り飛ばしたようだった。
黒星さまがつばを吐き出して、口元を拭う。暁さまはそんな黒星さまを睨みつけていた。
「本当に、嫌になりますね。なぜ、皇宮の規則を破った人間を罰しないどころか、守るような男が次期皇帝候補と言われるのか」
「……人を殺そうとする君よりも、マシだからじゃないかな」
暁さまの嫌味に、黒星さまはヒクリと顔を歪ませた。
「ははっ、はははは! 悪を罰してなにが悪いのです! なぜ宝飾殿が女子禁制となったか、兄さまもご存じでしょう。すべては国を救うためですよ」
黒星さまは自らの黒い衣装についた埃をパンパンと払って、ゆっくりと暁さまに向かって歩き出す。暁さまは、わたしの前へと立つと
「同じことが繰り返されるとでも? 翠はそんな人間じゃないよ。それに、僕と翠を殺すことが国を救うことになるなんて、どんな理屈かな」
と黒星さまをさらに煽った。黒星さまが地面を蹴る速度が速くなる。
燃え盛る炎の中、わたしには、目の前の赤髪が揺らめいて見えた。
土煙が舞う。ふたりの腕がガツンとぶつかる。骨の軋む音、風を切る音が目の前を通り過ぎる。黒星さまの右拳を避け、暁さまが蹴りを繰り出す。黒星さまは後方へ跳躍する。暁さまは畳みかけて追撃を放つ。が、黒星さまは地面を転がり躱す。そのまま木片を手に、暁さまへと投げつけた。
「暁さま!」
わたしが叫んだときには遅く、黒星さまが暁さまにとびかかる。馬乗りになった黒星さまは目をぎらつかせた。
「理屈ならいくらでも述べて差しあげましょう! 政にも参加せず、ふらふらと遊び呆けている人間が皇帝など。国の破滅を導く以外に考えられません‼」
黒星さまは言い終えると同時、再び暁さまに向かって拳を振るう。暁さまの真横に拳が落ち、石畳と骨のぶつかった鈍い音がした。
暁さまも負けじと黒星さまを押し返す。ふたりはもみくちゃになりながら地面を転がる。床に散らばった椅子の脚や崩れた柱やらがふたりのあちらこちらを傷つけていく。
「そもそもっ! 兄さまのせいで、皇宮の財政状況は悪化しているのですよ!」
「はは、それはいいことだ。皇宮外……民たちの金回りはどうだい?」
「はっ……そんなもの!」
ふたりは互いに体を強く突き放し、それぞれに体を回転させて素早く起きあがる。暁さまはわたしをかばうように黒星さまへと向き合っていた。
炎に包まれたふたりの額に、じわりと汗がにじんでは流れ落ちていく。彼らの体は汚れきっていて、互いにパタパタと血をこぼしていた。
兄弟げんかなんてかわいらしいものではない。国の行く末を占う戦争に他ならなかった。
じりじりと距離を取る暁さまと黒星さまは互いににらみ合う。黒星さまは足を動かし、拳を握り、時折暁さまにつかみかかろうとしては、いなす暁さまから距離を置いた。
やがて、黒星さまが強く地面を蹴る。
「兄さまは、なにか、勘違いされているのでは?」
「勘違い?」
黒星さまの拳を暁さまの腕がふせぐ。続く足払いも暁さまは蹴り返し、かわりに黒星さまの懐へと入りこんだ。襟元を掴みにかかる暁さまの腕を、黒星さまがガシリと掴む。
「我々は皇族ですよ。皇族は、皇宮に住まうもの。皇宮が豊かでなにが悪いのです。民はみな、皇族に仕えて当たり前。我々が豊かであればこそ、国も潤うのです」
黒星さまの言葉に、暁さまが目を見開いた。
途端、黒星さまが掴んでいた暁さまの腕を思い切りひねり、暁さまを背負い投げる。
ドォォオンッ! 激しく床に打ち付けられた暁さまの胸が、ヒュッと大きく上下した。
「暁さまっ‼」
思わずわたしは走り出す。黒星さまが、そんなわたしの腕を引く。だが、わたしはそれを勢いに任せて振り払った。暁さまのもとに飛びこむようにして体を投げ出し、彼の体を自らの体で覆う。
途端、背中ごしに鈍い痛みが走った。
「どけ、男装女」
「どきませんっ!」
何度も何度も、激しく背中を蹴られているのがわかる。それでも、わたしは絶対に暁さまから離れない、と床に手をついた。
「絶対に、なにが、あっても! ど、きませ、んっ!」
暁さまのゼエゼエと荒い呼吸が聞こえる。わたしの汗がパタパタと彼の綺麗な顔に落ちる。背中が軋む。何本か、骨が折れているような気もする。
「す、い……」
暁さまが目を開く。
「あか、つきさま、ご無事、でっ!」
暁さまが目を覚ましたことに気づいたのか、黒星さまの舌打ちが聞こえた。暁さまが体を起こそうとしたとき、わたしの髪がガシリと掴みあげられる。
「ぐぅっ……!」
「女ごときになにができる」
「やめろ!」
暁さまの声を背に、わたしは必死にその腕を振り払おうと足をばたつかせる。黒星さまの足に、わたしの足がガツガツと当たる。ささいな抵抗にしかならなかったが、なにもしないよりはマシだった。
黒星さまの腕が再びわたしの首元に回る。頭を掴まれ、首が固定される。力がこめられて、わたしの骨がミシミシと音を立てた。今度こそ首の骨を折られる。頭が冷静にそう告げる。けれど、成すすべがない。
――これ以上は……。
わたしが腕をほどこうと必死に手を持ちあげたとき、自らの腕に硬いものがぶつかった。
かんざし。暁さまと、分かち合った冠の一部。それは、ふたりのお守りだ。
なにより、暁さまからもらった、大切なもの。
それをこんな形で使うなんて、罰当たりだと分かっています。
でもっ!
「っぁぁああああああああああ!」
痛みをこらえ、わたしは無理やりに腕を自らの内ポケットに近づける。制服の襟元を無理やり引きちぎり、ポケットからかんざしを引き抜いた。
ここでわたしが死んでしまったら、黒星さまに負けてしまったら、暁さまはきっと、殺されてしまう。
かんざしの鋭利な先端が銀にまたたく。考えるよりも先に、体が動いた。
「うぁぁああああああああ!」
わたしは力の限り、そのかんざしを黒星さまの腕に突き立てた。
「があぁぁあああぁっ!」
黒星さまがひるむ。腕の力が緩み、わたしは地面へと落とされた。落下する体を支えるほどの力は残っておらず、わたしは床に倒れこむ。
わたしの周りには、黒星さまのものと思われる血が激しく飛び散っていた。




