混乱の涙
「ああああああああああああああっ……!」
セレナはその場にくずおれた。
必然的に押しつぶされたオオカミが弱々しい悲鳴をあげるが、彼女にかまっている余裕はない。
むしろ好都合とばかりにモフモフなお腹へ顔を押し付ける。
穴があったら入りたいが、無いのならば代わりを作るまでだ。
「違う……違うのです。違うのです、お義兄様」
今、ものすごく、死にたい。と思った。
「えと、セレナ? とりあえず落ち着こうか。ね?」
気遣わしげな義兄の言葉も、うちひしがれたセレナには辛いだけだった。
戸惑いを隠しきれていない声音が、なおさら心に痛い。
なんというかもう、本当に、いっそひと思いにとどめを刺してほしいと願う。
「ごめんなさい。違うのです。私が浅慮だったのです。違うのです」
言い訳にもならない言葉の羅列をこぼしながら、セレナはさめざめと泣き出した。
処理能力が限界になると涙が出てくるのは、幼い頃からの癖だ。
恥ずかしくてたまらなくなると、床やら壁やらにへばりつくのも以下同文である。
「大丈夫だから。だから、ね? セレナ、まずは床とお別れしよう? ね? 大丈夫だから」
そうして、今にもペッタンコに潰れてしまいそうになるセレナを宥めて、なんとかヒトの形を取り戻させるのはいつだってリアンの仕事だった。
「お義兄様ぁ――」
リアンに促されるまま立ち上がり、セレナはソファーに腰を落とす。
涙に濡れた顔はもうぐちゃぐちゃだ。
普段は貴族の娘らしくツンと澄ましている顔が、この時ばかりは年相応に幼く見えて可愛らしい。
本人に知られてしまえばふて腐れるばかりだから秘密だが、リアンはこの状態のセレナを抱きしめるのが大好きだったりする。
ぐずぐずと鼻をすするセレナを嬉々として膝にのせ穏やかな手つきでゆっくりと背中を撫でる。
そうして暫らくののち、セレナが落ち着いた頃を見計らって優しい声を彼女の耳に落とす瞬間は、リアンにとって至福の時とも言えた。
「セレナ。僕のかわいいお姫様。今回は何が原因だい?」
確か前回は、興味本位で巷で話題の恋愛小説に手を出して、そのあまりのむず痒さに耐えられず、のた打ち回っているところをリアンに目撃された時だった。
その前は、セレナの誕生日にリアンがプレゼントしたぬいぐるみにキスを落としたところに、リアンが通りかかった。
常日頃からリアンと結婚するのだと公言し、愛情をまっすぐに伝えてくる義妹が、実はとても奥手で甘い空気を苦手としている事を、リアンはちゃんと知っている。
彼女はまだ14歳なのだから、このくらいがちょうどいいとも思っている。
だからこそ、彼女を堂々と膝にのせて抱きしめられるこの瞬間をとてもとても大切にしているのだが。
その幸福は他ならぬセレナ本人の言葉によって粉々に砕かれた。
「わたし……わたしは……こんやく、したくなくて……」
だらしなく笑み崩れていたリアンの顔が、一瞬にして強張ったのは言うまでもないだろう。
今、彼女は婚約したくないと言わなかっただろうか?
できれば空耳であると思いたい。思いたいのだが、現実は甘くはなかった。
「それで、こんやくしなくてすむ、ほうほうを、さがして」
「セレナは僕の事が嫌いになったの!?」
途切れ途切れになりながら、セレナが懸命に紡ぐその言葉の続きを待つ余裕は、リアンにはなかった。
先ほどまでの優しい手つきが嘘のように、荒々しくセレナの肩をつかむと、その勢いのまま前後に揺さぶる。
おかげでセレナの涙は完全に止まった。驚きに見開かれた目はまんまるだ。
「……なぜ私がお義兄様を嫌うのですか?」
わけがわからないと言う顔で首をかしげているセレナだが、その顔をしたいのはこちらだとリアンは思う。
「セレナの婚約者は僕だろう?」
今までリアンがセレナに拒絶された事はなかった。
喧嘩はしても、リアンが嫌いだとセレナが口にする事はなかったし、リアンが彼女を抱きしめれば、セレナは恥ずかしがりながらもとろけそうな笑みを浮かべてくれる。
好かれている。そう信じていた可愛い義妹兼婚約者が突然「婚約しないですむ方法」を探していると聞いて平常心でいられる男がどこにいるというのだろう。
少なくともリアンには無理である。
そんなリアンの内心を知ってか知らずか、セレナは心底不思議そうな声で、リアンが今もっとも聞きたくない男の名を口にした。
「でも、私とキュリアス様との婚約話が持ち上がっているって……」
「そんな事、僕が許すはずがないだろう?」
にっこりと。それはそれは綺麗な笑顔を貼り付けてリアンがセレナの言葉を遮る。
彼の背後になんだか見てはいけないモノが見えたのはきっと気のせいだと思いたい。
扇代わりにされたあげく押しつぶされたオオカミさんはまだセレナの腕の中にいます。
たぶん、このオオカミさんは、不憫属性。




