影
「おはよう」
「……おはようございます」
リヒトがソファーの上で目を覚ますと、そこにはいかにも寝不足なベルンがいた。
今は、アリアによってぐちゃぐちゃにされた尻尾を必死に整えている。
肝心のアリアは、まだ気持ち良さそうに眠っており、当分起きるような気配はない。
「リヒトさん……なんで昨日は見捨てたんですか」
「い、いや。そんなつもりはなかったんだけどさ。まさかそこまで酷いとは予想できないし」
尻尾のケアをする手を止めることなく、ベルンは淡々とリヒトに問い詰める。
目線はリヒトに向けられていない――その様子がただただ恐ろしかった。
夜に何が起こったのかは分からないが、リヒトの想像を絶する被害をベルンは受けたのだろう。
「すみません。昨日は眠れなかったので、変なことを言ってしまうかもしれません」
「あ、あぁ。気にしないから大丈夫……」
どうやら尻尾のケアは終わったらしく、ベルンはスっと立ち上がる。
怒っているのか怒っていないのかは不明だが、とにかく今は話しかけてはならない雰囲気だ。
リヒトはできるだけ会話を最小限に抑えて、ベルンの機嫌をうかがっていた。
「あ、コーヒーいりますか?」
「……じゃあ一杯」
「魔王様の分はどうしましょう……」
「アリアは、コーヒー飲めないからいらないと思う」
ケアが終わって落ち着いたのか、ベルンは朝のコーヒーを作り始める。
何かこだわりがあるようで、かなり大きめの機械をいじりながら、じっくりと時間をかけた作業だった。
「……でも、そろそろ魔王様を起こした方が良いと思うのですが」
「……うーん」
ここで問題になったのは、誰がアリアを起こすか――だ。
適当に起こしてしまえば、アリアの琴線に触れる可能性が高い。
かと言って、丁寧に起こしたとしても先日のリヒトの例がある。
ベルンがコーヒーを作ることで、手を埋めた理由が分かったような気がした。
「――起きろっ!」
無意識の反撃を恐れたリヒトは、アリアの身を包んでいる布団を引っペがし、素早く射程圏外へと逃れる。
幸いなことに。
暴れ出すという現象は起きず、ブルリと身を震わせて、カブトムシの幼虫のようにモゾモゾと動いていた。
失った布団を手探りで探そうとするが、それを見つけることはない。
数秒した後に、ようやくパッチリと目を覚ます。
「……ん、朝か」
「おはよう」
「……おはようなのじゃ」
目を擦りながらの起床。
ベルンとは違って、ぐっすりと眠ることができたらしい。
気分が良さそうに、スタリとベッドの上から飛び降りる。
「そうじゃ、リヒトは大丈夫なのか? 昨日は倒れたのじゃろう?」
「ん? あぁ、そういえばそうだったな。寝たら治ったような気がするよ。昨日がたまたまだったのかも」
「そうか。それなら良いのじゃ」
アリアは満足そうに窓から外を見渡す。
治ったというのなら、アリアがこれ以上心配する必要はない。
太陽の光をその身に浴びつつ、人間たちの生活を観察していた。
「……おい、リヒト。あの男、少し不自然ではないか?」
「……え?」
アリアの目に映ったのは、遠くからこの城のことを見つめている不気味な男であった。
ガラス越しであるため、目が合うということはないが、確実にこの部屋のことを見つめている。
その手には双眼鏡が持たれており、偶然というわけではなさそうだ。
とても観光者と思える風貌ではなく、見ているのが女王のいる部屋だというところもおかしい。
「……どこだ? 俺には見えないぞ?」
「あそこじゃ。ほら、影に隠れておるじゃろ」
「…………すまん。俺はアリアほど目がいいわけじゃない」
アリアが指をさしたとしても、リヒトがその男を視認することは不可能だ。
人間の目で見える距離には限界がある。
あの男のように双眼鏡を使わなければ、どうしても見つけることはできないであろう。
「人間は不便じゃのお」
バン――と、アリアは急に窓を開ける。
「――ビンゴじゃ。あやつ、確かに反応した。リヒト、ベルンのことを頼んでも良いか?」
「……え? いや――」
「――チッ、逃げようとしておる。時間がないぞ。どうなんじゃ、リヒト」
「わ、分かった」
「さすがじゃ」
アリアはリヒトに確認すると。
大きな翼を生やして、その窓から飛び降りた。
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