18 怪盗夜梟《シュエット》は夜に舞う
今宵の空に月はなく、星も雲に覆い隠されている。それでも目を凝らせば、しなやかな影が飛ぶように駆けているのが見えるだろう。
「──あそこだ!」
「屋根の上にいるぞ!」
ほら、地上を徘徊する警備兵たちも気付いたようだ。
魔力で作った灯火蛾が何頭も羽ばたいて、夜の帳をほんの少し薄れさせる。月や星や炎の灯りとは違う、灯火蛾の青白い光が浮かび上がらせる、その姿は──
動きやすい素材で作った服は、彼女の身体の線を惜しげもなく露にしている。一片の贅肉もなくすらりとして、立ち尽くしていてなお鍛えた筋肉の躍動を感じさせる、瑞々しい肉体を。
頭の高いところで結った金の髪が、背に流れて馬の尾のように踊る。軽く細めた双眸は、時ならぬ青空の色。灯火蛾の光る翅が照らし出す顔は若々しく、浮かべる表情は焦りでも怯えでもない、愛らしい微笑。
その意外なほどの可憐さは、地上の者たちが驚きと感嘆のどよめきを口々に漏らし、夜の静寂を乱したほどだ。
「怪盗夜梟! お前の悪運もこれまでだ!」
「逃げられんぞ! 観念しろ!」
そう、彼女の名は夜梟。
不正に富を蓄えた者だけを狙い、貧しい者たちに分け与える。その手口は、まさしく自由自在に夜を翔け、音もなく狩りを行う夜梟に相応しい。
「──そうかしら?」
高所にいて、地上からは数多の追手に囲まれ、攻撃魔法の標的にされ──けれど、不敵に弧を描いた唇から漏れたのは、夜梟の名に相応しからぬ、カナリアめいた澄んだ声だった。
その声の響きに聞き惚れてか、悪あがきに虚を突かれてか。兵たちが見せた一瞬の隙に、夜梟は身体を翻した。
飛んだ──否、跳んだ。風魔法を操ったのだろう、梟の翼がなくともシュエットの身体はふわりと宙を舞い、踊り子のようにぴんと伸ばした爪先が、直下の窓をぶち割った。
その窓の位置を見て取って、兵たちは悲鳴のような怒号を上げる。
「旦那様の部屋だ!」
「おのれ、知っていて!?」
「急げ、早く──」
警備兵が言う旦那様、とは、この屋敷の主のスリ伯爵だ。
恰幅良く精力に溢れた壮年の伯爵が、華奢な夜梟に害されるなど、本来は考えづらいのだが──とはいえ彼らが顔色を失ったのも無理はない。
何しろ、今宵の夜梟は、すでに獲物をひとり、その鉤爪にかけているのだから。
スリ伯爵夫人イヴォンヌが鋭利な刃物で心臓を一突きされた無残な姿で発見されたのだ。
宝物庫の真ん中で、傍らには天鵞絨張りの空箱がひとつ。それには、伯爵家の家宝の青玉、《海の涙》が収められていたという。
新月の夜に頂戴しに参ります、と──流麗な筆跡の予告状に、宝石好きの夫人は決して渡さないと息巻いていたと、都中の噂になってはいたのだが。
義賊とも謳われる夜梟がその声望を裏切った。獰猛な本性を剥き出しにして被害者に襲い掛かった。怒りと動揺が兵たちを駆り立てているのだ。
──だが、おかしいとは思わないのだろうか?
夜梟の手並みは常に鮮やかだ。
予告状を送り、自ら指定した日にあらゆる警戒を掻い潜って目的の品だけを盗み出す。もちろん誰ひとり傷つけることはない。妙なる宝石を血で汚すなど、まったく夜梟らしからぬ不手際だろうに。どうやら、スリ伯爵家の者たちは、あまり賢くないらしい。
まあ、真相はすぐに分かるだろう。悪名も声望も等しく高い怪盗が、ただの強盗に堕ちたのかどうか。彼女が無策で逃げ惑うはずがないと、信じていれば良い。
ほんの数秒の間に、いくつもの出来事が起きた。
室内に飛び込んだ夜梟の身体を、魔力の風が硝子の破片から守る。細氷めいた輝きは、ただ彼女のしなやかな身のこなしを彩るだけだ。
「な──夜梟、なのか!?」
スリ伯爵は──夫人の凶報に意気消沈していたのだろうか。書き物机に座り込んで頭を抱えていた彼が慌てた様子で立ち上がると、倒れた椅子が寄木細工の床にぶつかってけたたましい音を立てた。
椅子が倒れた衝撃で、床に飛び散った硝子の破片がわずかに跳ねる。それが再び床に煌めくころには、兵たちが扉をけ破る勢いで駆けつけている。魔力で強化した脚力が可能にした迅さだった。
「伯爵様、ご無事で!?」
「夜梟、もう逃げきれんぞ!」
炎に、雷、氷。それぞれ得意の属性の術の構えを取った兵たちに婉然と笑んで、夜梟は優雅にお辞儀した。
「ごきげんよう、スリ伯爵。それから、奥方にはお悔やみを」
「な──」
いっそ挑発的な口上に、兵も伯爵も絶句した隙に、夜梟はさらりと告げた。
「《海の涙》を頂戴しに参りました」
しん、と戸惑うような沈黙が降りたのも一瞬のこと。兵のひとりが、異議を申し立てる。
「そ、それは、お前が──」
「夫人の遺体の傍にあったこれのことなら違います」
夜梟が胸もとから取り出したのは、深い海の色の宝石──とは呼べないだろう。なぜなら──
「や、止めろ!」
伯爵の制止に耳を貸さず、夜梟がそれを床に叩きつけたからだ。青い欠片が飛び散る中で、怪盗少女は勝ち誇るように笑う。
「──金剛石に次ぐ硬度の青玉が、この程度で砕けるはずがない。硝子玉をあんなにも大切にしまっていたのはなぜでしょう? そして、本物は今、どこに?」
「お、お前がすり替えたのだろう! 妻を手にかけた上に、我が家に汚名を着せるのか!?」
「私が潜入した時には、夫人はすでに亡くなっていました」
夜梟の指摘に、兵たちが静かにどよめいた。
私ほど注意深くない者でも気づいただろう。夜梟は、先ほど夫人の遺体の傍に、と述べた。つまり──殺したのは彼女ではない。
伯爵の顔が青ざめ、兵たちの間に動揺が走るのを眺めて、夜梟はくすくすと笑う。
「そもそも、こんなにも魔法が発展したご時世に、ナイフで一突き、なんて流行らないでしょう? それでもあえて刃物を使うとしたら、カッとなって振りかざしたか──」
「そ、そうだ! イヴォンヌはお前に立ち塞がろうとしたに違いない!」
声を張り上げる伯爵を無視して、夜梟はすばやく身を翻した。夜を舞う猛禽の爪のように、その細い手が伸びた先は──先ほどまで伯爵が向かっていた書き物机の、抽斗だ。
「証拠を残す必要があったから、ですね? 私を捕えた後で、これを懐に忍ばせれば誰も疑わないでしょう。あの硝子玉だって、私が本物をどこかに隠したと思われるに決まってる」
べっとりと血濡れた短剣をひらひらと見せびらかして、夜梟は伯爵に首を傾げる。
「下手な場所で見つかったら台無しだから、お手元にあるだろうと思ってましたが。安直、ですね?」
桜桃のような可憐な唇が、花びらのようにひらめいて伯爵を嬲る。
「たまにいるんですよねえ、予告状を受け取って喜ぶ方が。罪を押し付けるのにもってこいの相手がわざわざ来てくれる、って。伯爵家の内情は知りませんが、動機は──例えば夫人の浪費ですか? 家宝を売り払うほどの放蕩を止めかねて? あるいは、伯爵が気付かれたのも最近だったりして?」
幾つもの問いかけに、伯爵は短いひと言だけで応えた。
「──殺せ」
「は? で、ですが──」
「賊の言葉など真に受けるな! 全て出鱈目だ!」
まあ、詳細は吐かずとも、赤と青の間を行き来する伯爵の顔色と、子供の駄々のように地団太を踏む狼狽振りが雄弁に答えを語っているだろう。
では、そろそろ良いだろう。
私は風景擬態の術を解くと、ドレスの裾を軽く持ち上げて、兵たちが開け放しにしていた扉から堂々と室内に入った。もはや不要の千里眼の魔晶眼鏡と、盗聴用の風兎の耳飾りも、脱ぎ捨てながら。
「な、何者……?」
兵の誰かが漏らした呟きは、無礼いかつ心外極まりないものだった。
答えられる者はこの場にふたり。ただしそのひとりであるスリ伯爵は、陸に上げられた魚のように口を開閉させるだけで使い物になりそうにない。そして、もうひとりである夜梟は──
「──女王陛下。今宵もお美しい」
跪くと、歌うような涼やかな声で私を称えた。私が返すのも、心からの称賛だ。
「そなたもな」
「特等席でのご観覧はいかがでしたか?」
「いつもながらの見事なお手並みだったよ」
王冠や王笏や貂の毛皮のケープがなくとも、私の威厳は変わるまい。夜梟とやり取りする間に、硬貨の裏面や街角で見かける肖像画を思い出してくれたのだろう、兵たちは慌てて夜梟に倣って跪いた。ぱり、しゃり、と硝子が砕ける音は、どこか砂糖菓子を咀嚼する時のそれにも似ている。
「スリ伯爵。そなたに任せた事業の収支に不審な点があったゆえ、質しに来たのだが──そこの夜梟の説明で概ね事情は知れた、かな? とはいえ奥方についても聞きかねばならぬ。……来て、もらえるな?」
否、という選択肢などあり得なかった。私は女王だ。何より、風景擬態を解いた警官が静かに伯爵と兵たちを威圧している。貴族の私兵が、公僕の練度に敵うはずはないのだ。
「女王陛下がなぜ、このようなコソ泥と……こやつこそ捕えるべきでは……」
スリ伯爵の呻きは、苦し紛れでしかなかっただろう。だが、捨て置けぬ愚問だったから、私は寛大にも答えてやる。
「ファンだから、だが?」
絶句した伯爵が連行されたのを見届けて、夜梟は立ち上がると窓辺に寄った。
狩りを終えた梟が、塒に帰るのだ。彼女が盗むのは財宝に限らない。悪事が暴かれれば、十分に不当に搾取された貧者への救済になる。
何度口説いてもどんな地位を用意しても、彼女は私の傍に留まってくれない。けれど、闇に翼を翻しては私の国を少し良くしてくれる。無礼で気まぐれで──そして自由な夜の鳥。だからこそ私は彼女の予告状を待ち望む。
「これからも陛下を楽しませるよう、努めます」
そう言うと、夜梟は私の手を取り、甲に口づけた。どんな騎士や貴公子にも劣らぬ洗練された所作だった。
「それでは、失礼いたします」
「うむ。次の活躍も期待している」
「お手柔らかに……」
苦笑を残して、夜梟は割れた窓から夜の空へと舞うように軽やかに跳び立った。
明日の新聞は夜梟の活躍でもちきりだろう。政務の前にそれらに目を通すのが、私の何よりの楽しみなのだ。




