15 勝手なあの娘と勝てないわたし
「うわ、わっ、わっ、」
「あ、おかえり」
「…………え、」
呆気にとられているわたしに、瑞希は何事もないみたいにしながらそんなことを言ってのけた。え、なに、これフリーズしちゃってるわたしがおかしいの?
呆然とするわたし、ぞっとするほど綺麗な素肌をさらしてなんでもない顔をした瑞希、それから青ざめた顔であたふたしながら服を着ている浅黒い肌の男の子 (こいつはどうでもいい……いやよくないけど)。
三者三様の、なんとも混沌とした部屋のなか。
玄関にただ呆然と立ち尽くすだけになってしまったわたしは、なんとか自我を保つので精一杯だった。
一旦、状況を整理する。
わたしこと辻村春佳は、月曜日の眠たくなる講義を全部聞き終えて、分厚い雲に見下ろされながら大学から直帰した──時間は午後5時ちょっと過ぎ、この時期だとまだ日も高くて、まだまだ蒸し暑い時間帯だ。わたしも瑞希の待つ部屋で、きっとエアコンとか利いてるのかなと期待しながら意気揚々と帰宅したところ。
「わ、すいません!」
ワイシャツに袖を通すのもそこそこに、わたしにぶつかりながら慌てて出ていく、高校生くらいの男の子。誰だお前は! さっさと帰れ! もう二度と来るな! 塩撒いてやる!
「あーあ、スマホ忘れてやんの。なんか盛り上がって撮ってた写真とか動画だけ消して明日返してやんなきゃ」
で、そんな男の子をからかうように笑いながら見やって、抜群のプロポーションを惜しげもなく曝したままの女の子──冴島瑞希。数ヵ月前から付き合っているわたしの恋人で、最近ではわたしの部屋に住み着いて近くの進学校に通う高校生。背はスラッと高くて、顔よし声よし、その仕草や表情でいつもわたしを虜にしてくる、学校始まって以来の優等生(本人談)。羞月閉花だとか傾城だとか、もういろんな言葉で言い表そうとしても足りないくらいに綺麗で可愛い、大好きな彼女……なんだけど。
……えっと、えっと?
落ち着いて、そう、落ち着こう。
いきなりヒステリックに怒鳴るのはたぶんよくない。一応わたしのが年上なんだし、ここは多少無理やりにでも大人ぶって……、こほん。
「瑞希、さっきの……えっと、イガグリは、何?」
「あれ同級生の磯野。友達の彼氏なんだけどさ、なんかチラチラこっち見てたからちょっと、試しにね」
「はぁ!!?? ちょっとって何!!???」
「いやさ、その友達すんごいいい子なの。もう聖人君子みたいな。こんな子いる?みたいな。そんな子が好きになるってどんなかなって思うじゃん? ま、別に他となんも変わんなかったね。なんであんなの好きになったのかな……あたしにしとけばいいのに」
「いや、友達の彼氏とか知らないけどさぁ! あとそういうこと冗談でも言わないでよ!!」
「だからもうあいつとは大丈夫。ごめんね、びっくりさせて。ちょっとどうかなって思ったから誘っちゃったんだけど、なんかあいつはもういいや」
なに笑ってるわけ?
え、わたしどんな顔してるかわかんない!?
どれだけ傷付いたかとか察せないの!?
「ごめんね春佳。このお詫びは絶対するから、」
「──知らない」
「え?」
「瑞希なんか知らない! 知らないったら知らない! 瑞希なんて部屋の家賃払えなくて追い出されちゃえばいいんだ!!」
ここ借りてるのわたしだから、家賃払わないと困るのはわたしだけど、そんなの知らない! 瑞希に言葉を浴びせられるなら理屈とか関係ないんだから!
瑞希はいつもそう!!
「ほしくなっちゃって」って何!?
「もういいや」だから何!?
わたしと付き合いだしたときだって、「お姉さんのことほしいな……いいよね」とか言って!? まぁわたしも新歓で最悪なことがあって辛い時期だったからドキッとしちゃって? それで付き合ったけど?
でもさ、もう何回こんなことあったって!
こうやって直接鉢合わせただけで、あのイガグリ抜いて3人は見てるよ!? さっきのイガグリとは別に男の子ふたり、あとわたしよりも年上で美人でスタイルのいい、いかにも「できる大人」って雰囲気の女の人!
あーもう、ほんと信じらんない!
『ほしいものってさ、全部手に入れないと嫌じゃない?』
座右の銘みたいに言うけど、こんなのただの見境なしだよね!? わたしもなんか、なんていうか「コレクションの一部」みたいな感じするんだけど! ……いいけどさ、わたしなら。
いや、そうじゃなくて!!
ほんとにいつも、瑞希はそう!!
人も物も、『ほしい』と思ったものは手に入れられると信じて疑わないようなその態度! いつもは好きだよ、そういう自信に満ちたところ、大好きなんだけど! でも今はもう大嫌い……可愛さ余って憎さ百倍だよ、こんなの!
瑞希なんて学校行く途中事故に遭って半身不随に……は駄目か、だったら買った食べ物が全部消費期限切れになっててお腹壊して一生……は可哀想かな、1年……うーん、三日三晩くらい苦しんだらいいんだ!
団地を飛び出すと、湿った空気がまとまった質量を持ってわたしの呼吸を阻んでくる。
思い出したように鳴き出す蝉たちに囃し立てられているのも居たたまれなくて、これといった当てもなく走り始める。昼の青から夕方の茜色に移り変わろうとしている空の色が、なんとなくわたしから他の人に瑞希の心が移っていく未来を予感させるようで、それが不安で、もっと走った。
息を切らして、頭が真っ白になって、足がガクガクして、最近ようやく通えるようになった大学の裏手にある神社とか、キャンパスの屋上から見えるこぢんまりとした遊園地とか、新歓で飲みに行ったチェーン展開している居酒屋とかを全部通り抜ける。
雲はどんどん厚みを増して、照りつける夕日の色に染まる町並みが暗い雲の下で毒々しいくらい鮮やかに色付いていく。そんな景色さえもわたしを嘲笑ってるように見えて、もう無我夢中で走り続けた。
わたしが足を止めたのは、もうフラフラになって、立っていることすらままならなくなって、その場で尻餅をついて、更にそのまま仰向けに倒れてしまったとき。
ピシャァッ!!
水溜まりに転んで初めて、雨が降っていることに気付いた。いつから降っていたのか、もう水溜まりに浸かっていないところまで全身びしょ濡れだった。
「けほっ、ごほ、おぇ、うえぇ、」
あーー、最悪。
最悪、最悪、最悪!!
逃げて、走って、噎せて、嘔吐いて、泥だらけになって雨空を見上げるような日になるなんて、思ってもみなかった。今日はわたしと瑞希が付き合うようになって、20週目の記念日だったのに……。
「あーあ」
声に出してみると、ほんとに全部終わっちゃったような気持ちになってきた。
今日はいっぱいデートして、おいしいの食べて、今だけの特別展示やってる水族館とか行って、それからふたりでいっぱい喋りながら帰って、いっぱいお互いの気持ちを話したり確かめ合ったりして、これからもよろしくねって言い合うような日にしたかったのに。
もう台無し。全部、台無しだ。
それもこれも瑞希のせいなんだけど、それはわかってるんだけど。
でも……こうやって離れると、楽しいことばっかり思い返しちゃうな。人って、自分の頭さえも意のままにできないみたい。
最初に瑞希とデートしたときも、雨に降られたんだっけ。新歓で起きたことを忘れるためにひたすらお酒を飲んで、すっかり潰れて前後不覚になったときに声かけられて。
なんか酔いに任せて凄いいろいろ喋った気がするけど、そういうのも全部受け止めてから『お姉さんのことほしいな』って、言ってくれたんだ。出会って間もないとか、どう見ても年下だとか、そういうことも全然気にならないくらい、頭が痺れるような素敵な声で。
『酔ってるとこ狙ったみたくなってごめんね』
そんな風に謝られたような気がしたのは、そういう妄想だったか、現実だったか──でも、たぶんそんなのどっちでもいい。
だって、あの瞬間にはもうお酒の酔いなんて抜けてしまっていたから。
そしてあの日以来、わたしはもう別のものに酔って抜け出せなくなった。
「……会いたいな」
会って、話をしたい。
ひょっとしたら今度こそもう駄目かも知れないけど、こんな目に遭っても好きなままだし。だから、ちゃんと話し合って、それで本当に駄目だと思ってから別れたい。
……あれ、ちから、入んないや。
立ち上がろうとしても立てなくて、どこまでも締まらない自分を情けなく思いながら仰向けで雨に打たれていると。
「……春佳!」
その声は、普段の余裕と自信に満ちた声とは全然違って聞こえた──のは、わたしの願望かな。雨に濡れながら駆け寄ってくる姿は、うん、水も滴るいい女っていう言葉がそのまま人になったみたい。どうしよう、恨み言のひとつふたつ、ううん、5つ6つは言いたいのに、目を奪われて言葉が出てこないや。
「すごい濡れてる。もう帰ろう」
自分だってずぶ濡れなのに、わたしを見て心配そうな目をするところも、起き上がれずにいるわたしを起こそうと伸ばされる手も、本当に大好きだけど。
「なんで?」
「え?」
「別に、わたしじゃなくていいじゃん。瑞希は他の人だっているし、わたし、何かあったらすぐまたこうなるよ。怒るし叫ぶし出てくよ。そんなの、瑞希だってめんどくさいでしょ」
「まぁね」
苦笑いしながらほぼ即答した瑞希にちょっとだけまた恨めしい気持ちが芽生えたけど、それを言葉に出す前に。
「でも、言ったじゃん。あたし、ほしいものなら何でも手に入れるし、気に入ったものは絶対離さないって」
そう言った瑞希の目は、わたしの願望とかそういうの抜きにすごく真剣で。それで、わたしのことだけをじっと見つめていた。
あぁ、駄目だ。
深い海みたく暗い藍色の瞳に映るわたし、嬉しそうな顔してる。頬すっごい弛んでる。きっとこの先もこうなんだろうな。
「帰ろ」
「うん」
この先もわたしは、この勝手な娘に勝てないんだ。
そう思うと、少し冷たい雨のなかでもなんだか身体が熱く感じた。




