第二一話「日本軍の兵器開発 航空発動機・戦車編」
-日本軍は同盟国の協力で基礎技術の鍛え直しを行っていた。航空・装甲車用エンジンの信頼性向上は必須であるからだ。そしてソ連との戦いで続々と入ってくる戦訓の取り入れを行っていた。
三菱が必死に行っているのは自社製となるA20-後の`ハ43`の開発である。イギリスがもたらした`マーリン`エンジンの技術と英国の誇る工作技術を手中に収めたからで、戦時に置いても信頼性の高いエンジンを作れるめどが立った。そのため44年の予定の次世代航空用発動機開発のコンペに応募したのだ。中島飛行機は以前にダメ出しされた`誉`の改良型を提出すると軍に通達していた。この2強がコンペでぶつかり会うのだ。
-日本
ソ連邦と開戦後初の戦略会議が東京で行われた。今回は次期主力発動機の選定と次期中戦車の開発方針の決定などが首題だ。いつもは遙が事実上取り仕切るが、フィンランドへ転属したので、代理で岬中佐が出席していた。
「さて、次期主力発動機の事だが……今回も中島と三菱が答えてくれた。誉の改良タイプとハ43だ」
「そのエンジンはどのような性能なのかね」
「前者は離翔出力2000馬力。後者は2200馬力だ。戦時の状況で最も適しているのは出力に余裕のある後者だ」
「ハ43は92オクタン価燃料でもその性能は出せるのか」
「三菱は太鼓判を推しております」
将官達は一様に誉に悪感情を持っていた。何故か。それは前史で量産命令を出した誉はあまりの粗製濫造(未熟な工員による製造)やエンジン自体の無理な設計が原因で額面割れした性能しか出なかったという事実が額面上のスペック高を追求する事が必ずしもいいことではないという事を証明した。三菱はその失敗を元にハ43を日本の工業水準(前史より遥かに良いが)でも充分な性能を発揮できるように再設計を行い、余裕のある設計に改めていた。(因みに2200馬力というのは試作型の数値であり、生産型では2500馬力の予定との事)
「実際に整備させてみましょう」
コンペで重視されたのは未熟な新兵でも充分な整備が行えるかどうかだった。整備マニュアルの分かりやすさも重視されていた。`誉`改というべきハ45改は原型エンジンの芸術品と言える繊細さがまだ抜け切れていない(それでも原型エンジンよりは幾分マシだが)らしく、全体整備にかかる時間が長い(整備を行っている新兵は難儀している)。その上で全力運転試験が行われたが、結果はエンジンの2000馬力というカタログスペックを額面割れする1600馬力相当の出力しか出ないという燦々たる物であった。(史実ではさらに低い1300馬力しか出せないケースがあったので、その分改良の効果はあったものと思われる)一方のハ43はイギリスのロールス・ロイス社との提携で新兵でも最高のコンディションに持って行けるように無理ない設計がなされ、エンジンの負荷に見合った耐久力を持つ部品が作られ、装備されていた事、マニュアルが子供でも理解できるものだったおかげで、
日本製製品が追い求めがちな「高いカタログスペック」を、額面通りに新兵の整備でも発揮した。
これに中島の設計技師たちは切歯扼腕して悔しがり、三菱は自らの勝利を確信した。
‐そして……満場一致でハ43は次期主力発動機に選定され、開発中の17試艦戦や局地戦に搭載されることになった。
「さて、次は戦車か……原乙未生中将は次期戦車に並ならぬ意欲を持っていると聞く。彼は独自の試案まで提案してきているからな」
この原中将は日本戦車の父と呼ばれる男で、陸軍派遣学生として帝国大学機械工学科を卒業した際には戦車設計がテーマの卒論を提出している。その彼は未来の戦車史に並ならぬ興味を抱き、今村大将に頼み込んで軍の第一級軍機資料の「戦車開発史」(遥がかばんに入れていた唯一にして最大の戦車関連資料)を貸しだしてもらい、第4陸軍技術研究所(自動車・戦車関連の研究所。所在地は相模原)に持ち込んで徹底的に研究を行なった。
その結果出来た彼の試案は88ミリ砲搭載、時速55㎞の速力という物(1940年代の技術で最高性能の中戦車を求めた結果の試算)で、75ミリ砲搭載案よりも大型化することが予想された。装甲は傾斜している。なんでもドイツが今年に正式採用した五号戦車の影響を受けたものらしい。
「中佐、君はどう思うかね」
今村大将や山下中将などの陸軍高官たちから感想を求められた岬中佐は彼らに答えた。
それは試案に賛成する意味の解答であった。
「いいと思います。米軍はパーシングを投入しますし、露助はT-34-85にラインを切り替えていくでしょう。その為にも中戦車を強化する必要はあります」
「パーシングか……恐るべし敵だ」
此頃の日本陸軍はドイツの誇るティーガーⅠ重戦車に対抗出来るパーシング重戦車を非常に恐れていた。日本陸軍は重戦車の定義を確立させるには至っておらず、開発は停滞していた。九五式重戦車が未だ試験に用いられているという有様である。ようやっとドイツが日本の技術提携の見返りにティガー戦車を数両送った事で進みつつあるが、今村大将はその遅れを危惧していた。
「では試案を五式中戦車として採用する方向でよろしいか」
「待て。エンジンはどうするのだ?今のディーゼルではとてもそんな速度は……」
「キ61用のハ40かアツタを戦車用に転用すればいいだろう」
「ウチは反対です」
「そうです。なぜ戦車ごときのために…」
戦車を軽視する将校や航空発動機を取られる事に難色を示す空軍航空関係将校の反論が吹出す。これに今村大将は「まだまだ改革が必要だな」と心のなかで愚痴ったという。
この頃、日本軍は順番に強化していく戦車はともかくも、航空機開発に関しては「史実で有力である機種」に絞っていた。史実日本軍の試作航空兵器の乱立ぶりは目に余るものがあり、陸海軍でコンセプトが重複したものも多い。航空本部はその反省を生かし、4発機に関してはアメリカのボーイングから横流しされた「B-17」をベースに「連山」を作り、その習作を一式陸上攻撃機で行うことを提案。それは採用され、試作が進んでいたモノを途中で破棄させ、新規に4発機として造られる事になった。戦略爆撃機は「富嶽」に一本化はされたが、史実で陸軍が開発していた「キ91」のコンセプトと統合させる事が決定され、「新Z計画」として超重爆開発が始められるほか、次世代型戦闘機は川西の紫電改及び陣風、中島の疾風、三菱の烈風、閃電、九州の震電に絞るとされた。これは多く感じるが、史実の計画の乱立ぶりと比べれば遙かにマシであり、誘導弾計画は別プロジェクトとされ、ジェット戦闘機開発に組み入れる形となった。




