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九十二話 もう一人の自分

 ロネットが術式でエフラインの居場所を特定した、その時から小一時間をさかのぼる。


 宮殿で大人たちが少年教皇の失踪に気付いて慌てふためき始めていたその頃には、エフラインは既にセントメリア城下へ悠々と繰り出していた。


「全く、あの宮殿は本当に息が詰まる。私は神だ。神が何故行動を制限されねばならない?」


 全国民に顔を知られている少年だ。その顔を晒して歩くのは流石にまずいということで、顔までを覆うローブを被って行き交う大路を歩いている。


 軍人たちが推測していた通り、脱出経路は宮殿の屋根からだ。

 屋根の上は傾斜が厳しく手すりもない。大人でも慣れていなければ足がすくむような高所を、少年教皇は臆することなくスタスタと歩いて縁へ。

 掃除夫用の不安定なハシゴを掴んで下り、用意していたローブを羽織り、窓枠伝いに一般客の見学が許可されているテラスへと飛び移った。

 あとは観光客に混じって通用門から、堂々と街へ繰り出したというわけだ。存外にたくましい。


 少年は雨のセントメリアを歩く。水たまりに靴先を浸し、立ち止まって眺めるのは露天の串焼きだ。

 角にカットされた豚のバラ肉から脂が滴り、炭火に落ちて香りを燻らせている。

 宮殿の食事は見た目こそ豪華だが、健康に気を配られて脂気が少ない。さらに毒味だなんだと工程が多いせいで基本的に冷めていて、ひたすらに味気ない。


 なので、串焼きを買ってみる。


「主人、それを一つもらおうか」

「あいよ」


 店の主人に(偉そうなガキだな)と訝しがられつつ、受け取って串から肉を噛みちぎる。


「安い肉だな。筋ばっている。臭みを消すために大量の塩胡椒が振られていて塩辛い」

「なんだァ……? 商売の邪魔するならタダじゃおかねえぞ、ガキ」

「だが……フフ、悪くない。焼きの技術が高いのだろうな、雑味を上回る旨味が凝縮されている」

「ああ? けなすのか褒めるのか、ハッキリしやがれ。あと金、60ライル払え」

「受け取れ、駄賃だ」

「な……き、金貨!?」

「釣りは不要だ」


 現在ユーライヤに流通しているライル通貨は、少額は貨幣、高額は紙幣で統一されている。

 銀貨、金貨が用いられていたのは大昔のことで、店主は博物館以外でそれを見るのは初めてだった。

 だが手渡されたコインの圧倒的な存在感はそれが本物の金であると雄弁に物語っていて、古銭商にでも引き取ってもらえばとんでもない額になるだろう。


「あ、アンタ、何者……」


 店主の問いに答えはせず、エフラインはただ若干のドヤ顔を浮かべ、店主の私物らしい傘を手に取って開く。


「貰っていく」

「う、おお、ご自由に……」


 灰色の傘を片手に、肉をモグモグと頬張りながら再び街を歩き始める。


 しとしとと降る雨は彼の姿を雑踏に紛れさせるのに最良だった。

 薄暗くて視界は悪く、人々は傘を差して足早に歩く。そのおかげで誰に見咎められることもなく、エフラインは食べ終えた木串を指でくるくるともてあそびながら思索を深めている。


(権力闘争、派閥争い、立身出世を目指す者たち。あの宮殿は欲望に満ちた伏魔殿だ。フフ、人間とは実に愚かしい)


 エフラインは決して無知な子供ではない。自身を取り巻く複雑な状況をしっかりと把握している。

 宮殿に招き入れた宮廷道化師たちは、決して遊びや気晴らしのためだけの存在ではない。

 教皇から与えられた権限で宮殿のあちこちを自由に歩き回る彼らは、様々な情報を見聞きしてエフラインへと伝える目と耳だ。

 スパイというほど大仰なものではないが、政争に応じるための知識は十分手に入る。

 情報を集めるための手段はその他にもいくつも有していて、齢10にしてそれを自ら考えて実行する辺り、卓越した才覚の持ち主だと言えるだろう。


枢機卿(アナスターシャ)派のダヴィデ、あれの警備日に抜けてやったのは上等な嫌がらせだったな。フフ」


 そう独りごちながら、少年は大路から雑居区へとその足を移している。

 普段は宮殿の中から出ることのできないエフラインだが、街を見て回るのは初めてではない。

 為政者として市井を知るのも大事だと、幾度か街を練り歩いた経験がある。ただし、大勢の護衛や文官をゾロゾロと引き連れての大行列でだが。


「それでは意味がない。平伏した民衆を眺めるだけでは宮殿にいるのと変わらないではないか」


 だから脱走した。

 騎士たちの中には密かにエフラインと通じている者がいて、その人物の協力を得て屋根への扉を開けさせておいた。

 そこからの経路は先述の通りだ。


 整然とした白い街並みから、徐々にオンボロの木造住宅が増えていく。進むほどにゴミゴミとした生活感を漂わせ、軒先につながれた雑種の犬がワンと吠えた。


「貧しいな。だが活気に満ちている」


 雨にも負けずに金槌を振るう大工を見上げ、


 脱走へと踏み切った理由はまだある。

 少年が気に入っている数少ない家臣の一人、アルメルが今はいない。枢機卿派との争いのためにベルツへと出向いている。

 さらには宮廷道化師たちの中で一番のお気に入り、先日の式典でアルメルを相手に立ち回りを演じてみせたピエールという名の道化師も所用で宮殿にいない。


 特に気に入っている暇潰しの相手を欠き、近衛兵たちを統率しているアルメルの不在で警備にも隙がある。

 前々から練っていた脱走の計画を実行するなら今だと判断し、そうして今に至っている。


「そして何より、一度は顔を合わせておかなくてはならない。“彼”と」


 エフラインが呟く。

 街の奥地へ、奥地へと足を向けてきた少年は、ついに最も治安の悪い貧民街へと到達していた。


 インフラ整備が行き届いていないのか、排水の悪い側溝からは下水混じりの雨水が溢れる。

 昼間からアルコール臭を漂わせた男がゲェゲェと嘔吐していて、吐瀉物(ゲロ)が水の流れに乗って路面に浮かんでいる。

 道端に立っている女は行き交う男を値踏みするように見つめていて、きっと娼婦の類なのだろう。

 軒下にうずくまった老人は野良猫を撫でながら、世を恨むような瞳で空を見上げていて、ここは人が多く集えばどうしても生まれるスラム街。


 しかしエフラインはその光景を意に留めず、臆することもなく歩いていく。

 迷い込んだわけでなく、目的があってここを訪れている。


 だが、いかに顔を隠そうとも姿勢、歩調、佇まいの気品は隠せない。

 まっとうな街中ならいざ知らず、荒んだ人々の集う貧民街では少年の姿はどうしても人目を惹く。

 そして幾度目かの角を曲がった時……数人の男たちが、前後からエフラインを取り囲んだ。


「おいガキぃ、迷子かァ?」

「一人っきりでこんなとこを歩いて、とんだマヌケもいたもんだぜ」

「どこかの金持ちの子供だろう。ヘッヘ、身代金に変えてやるか」


 口々にそんな言葉を口にする男たちは、手に手にナイフや鉈、鉄パイプなどを握っている。

 腕にタトゥーを刻んでいる者や、目の焦点が定まらない薬物中毒らしい者、筋骨隆々の軍人崩れのような者までがいて、人数は5人。


「抵抗すりゃ遠慮なく殺すぜ。大人しく捕まりな」


 リーダー格らしい男が口にした言葉へ、エフラインは顔を覆っていたフードを剥がして尊大に笑んだ。


「神を殺すとうそぶくか、下郎」

「……! な、んだとォォォッ!!!?」


 エフラインのかおをみたとたん、悪漢たちはその全員が似たり寄ったりのリアクションで震え上がった。

 いかにも無教養な彼らだが、国家元首、国教であるユーライヤ正教で奉られる現人神(あらひとがみ)の顔ぐらいは知っている。


 紫黒色の柔らかな髪、血のように真っ赤な光彩に見られ、タトゥーの男が「ヒイィィ!!」と恐怖に喚き散らした。


 が、リーダー格の男が「落ち着け」と彼らを制する。

 男は抜け目のない視線で周囲を見て取り、エフラインへともう一度目を向け、そしてニヤリと下劣な笑顔を浮かべた。


「おいおいおい……我らが主神であらせられるエフライン様は、どうやら護衛も付けずにこんな場所においでなすったらしい」

「ハァ? 護衛がいない?」

「……本当だ、誰も出て来ねえ!」


 悪漢たちが怯え上がったのは信仰心からではない。

 最高権力者である教皇を襲ってしまったとあれば、大勢の兵士や騎士たちが現れて不敬だと殺される。そんな想像から悲鳴を上げたのだ。

 だが護衛たちが現れる様子がない。少年教皇エフライン14世がたった一人で無防備に現れたとなれば、話はガラリと変わってくる。


「エフライン様、俺たちに大人しく付いてきちゃいただけませんかね? なに、悪いようにはしねえ……」

「連れて行ってどうする」


 興味から、エフラインは尋ねてみる。

 問いを受け、リーダー格の男は汚れた歯茎をぎしりと見せつけてニヤついた。


「アンタの命を狙ってるやつはゴマンといる。売り飛ばしてやるのさ。例えば……ヒヒ、元帥殿なんかは大金を支払ってくれるんじゃあないか?」

「……なるほど。貴様らのような下郎にまで、宮殿の派閥争いの話は知れ渡っているのだな」


 理解したと頷き、少年はローブの内側に忍ばせていた懐刀をすらりと抜き放つ。

 ショートソードよりも短い、頼りない長さのそれを体の前で水平に構え、余裕すら感じさせる態度で悪漢たちを下から睥睨する。


「手ずから、黄泉路へと送ってやろう。来るがいい」

「おい見ろよ! こりゃ傑作だ!」


 悪党たちはゲラゲラと笑い始めた。年端もいかない王室育ちの少年が、暴力沙汰に慣れきった自分たちを小刀で倒すと?

 男たちは爆笑する。手を打ち合わせ、ゲラゲラと大声を輪唱させる。


 だが彼らの中で一番の実力者、かつて軍で勤めていた屈強な男だけが、微細な違和感を覚えている。

 目の前の小柄な少年の姿は、どう考えても理解しがたいほどの威圧感を男へと与えてきていて……しかし、リーダー格の男が高らかに叫ぶ!


「叩きのめせ!! 殺しちまうなよ? ハハハハ!!」


 一斉、エフラインへと躍りかかる悪漢たち。少年は冷静に、応じるべく姿勢を沈める。

 が、——ボフ!!! と、戦いを遮る爆煙!!!


「なんだぁ!?」

「クソが!!」


 突然視界を覆われて、男たちは困惑に罵声を上げている。

 だが、なにも見えなくなったのはエフラインも同様で、剣を手にしたまま何事かと眉をひそめている。


 その時、エフラインの手が誰かに握られた。


「ついてこい!!」

「……?」


 引かれるままに走り、広範囲に広がった白煙は濃い。一歩先の視界も確保できない中で、エフラインは辛うじて見える何者かの手を見つめている。

 自分の手と同じくらいの、小さな子供の手だ。

 ただ、宮殿で育てられたエフラインの綺麗な手とは違い、貧民街育ちらしく相応にすす汚れている。


 そして白煙を抜けたところで手の主の姿を目にし、エフラインは「ほう」と面白そうに呟いた。

 エフラインの手を引き逃がしてくれた人物は少年だ。振り向き、粗野な表情で大口を開け、「バッカ野郎!!」と叱りつけてきた。


「あの通りは貧民街でも一番ガラが悪いから、大人でも近づかないんだよ! それをガキが一人で、お前なに考え、て……」


 まくしたててきていた少年は、エフラインの顔を認識した途端にその語勢を留める。

 教皇と認識して怯えたわけではない。同じ顔、同じ背格好。違うのはその髪の色だけ。


 以前に兵馬たちとひと時を共に過ごした貧民街の少年カミロ・アルベールは、目の前に現れた瓜二つの相手、エフライン14世を前に驚愕に目を見開いている。


 そしてゆっくりと、エフラインが口を開く。


「初めまして、もう一人の私」

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